いつもの場所から見えるいつもの景色。 慣れ親しんだ座席ではあるが、この椅子に腰を下ろすのは随分久しぶりだった。 アキラは碁石を摘んで小さくため息をつく。 「だからここは無理に守ろうとしないで、こっちの薄い部分に手を入れないと」 「しゃらくせえ、そんなちまちました碁ばっかり打って、ホントにリーグ戦勝ち残れんのか?」 「ちまちまってなあ、簡単に言ってくれるぜ。人が丁寧に教えてやってるってのに」 「まあまあ、北島さんも進藤くんも仲良く、仲良く」 聞こえてくる会話の内容も実に久しぶりで、以前はよく耳にしていたものとほぼ変わらない。 だというのに、この懐かしい空間に落ち着くどころか、ちりちりとした鈍い痛みが先ほどからずっと胸を刺していた。これを人は苛立ちと呼ぶのだろう。アキラはなるべくその苛立ちを顔には出さないようにして、表向きは穏やかに多面打ちで盛り上がる彼らの様子を見守っていた。 前回この碁会所を訪れたのはいつだっただろう? アキラは記憶を辿るが、少なくとも数週間前といった最近の話ではないことは間違いない。恐らく数カ月ぶりに顔を出したアキラとヒカルを見て、受付の市河も、親しみ深い常連の客連中も揃って晴れやかな表情を見せてくれた。彼らの喜びようにアキラは優しい苦笑を浮かべたが、内心疲れると思っていることは決して口には出せない。 彼らも理解してくれている。以前のように頻繁に碁会所に訪れることができなくなったのは、アキラもヒカルも極めて多忙であるからという現実を。 手合いに棋戦、棋院から受ける仕事もぎっしりと。アキラは三つ、ヒカルは二つタイトル戦の本戦に絡んでいる。いくら父の経営する碁会所とはいえ、そうそうサービスしにやって来る訳にはいかない。 だから、今日だってわざわざここに出向く必要はなかったはずだ。 誰にも気付かれないように、穏やかな表情のままふっと気怠げな息をつく。 「ったくもお、変わんねえなあ北島さんは」 ようやく五人の中年親父たちから解放されて、ヒカルが首を回しながらアキラの元へと戻って来た。アキラはほっと口元を緩めてヒカルを迎える。 「お疲れさま」 「おー。さ、打つか」 ヒカルに笑顔で誘われては、断ることは難しい。 正直気乗りはしなかったが、ヒカルの機嫌を損ねてしまっては困るので、アキラは素直に頷いてみせた。 ぱちぱちと軽快な音に乗せて、ヒカルは先ほどからずっと喋りっぱなしだった。 「みんな変わんねーのなー。久しぶりの多面打ちだからって次から次とつきあわされて遠慮ねえの」 盤面の展開は穏やかだが、決してお互い楽なものではない。 アキラは小さな相槌を返しながら、牙を潜めて様子を伺っているヒカルの手を躱す道を探っていた。 「でも元気そうで良かったよ。市河さん今年結婚すんだって? 知ってたらお祝い持って来たのにな」 「ああ、言ってなかったっけ」 「聞いてねえよ、ちゃんと教えろよ」 怒ったような口調にも本気の色が含まれていないことが分かるから、アキラは微笑で応える。 別に隠していたわけではなく、単純に頭から抜けていただけだった。 ヒカルと一緒にいる時は、ヒカルのことしか考えられなくなっているから。 「今度なんかお祝い探さないと……っと」 アキラがぱち、と静かに打った一手にヒカルはぐっと声を詰まらせた。 ここを押さえられては左辺を助けるのはまず不可能だろう――アキラは満足げにヒカルに目配せする。 ヒカルは半眼でアキラを睨み、すぐに戦法を切り替えて右辺の補強に回ったようだった。新たな局面にアキラもまたヒカルの思惑を読む。 ヒカルと打つ碁は楽しい。溢れるような発想の持ち主に引っ張られて、よりよい手を生み出そうとする力が滾々と沸いて来る。 これまで何千局と打ってきたか数え知れないのに、真剣勝負にひとつとして同じ棋譜は残らない。美しい黒と白のコントラスト。道を造り上げる仮定も、終えた勝負を更に高める時間も全て楽しい。 碁盤を挟んで向かい合って、二人の間に出来る僅かな空間。このスペースが世界の全てであればいいと冗談ではなく思う。 周りの声を遮断して、目の前にある存在だけに心を許す。これ以上の素晴らしい時間が何処にあるというのだろう。 「はい、コーヒー。進藤くん、ブラックでよかった?」 「あ、ありがと。ブラックでいいよ」 ――だから、僅かな隙間に入り込む雑音が酷く堪え難い。 二人分のコーヒーを運んで来た市河に手を伸ばし、ヒカルが自分用のコーヒーを受け取る。アキラから顔を逸らして市河へ笑顔を向けるヒカルが視界に入ると、それだけで胸の奥から黒い煙が這い出て来るような重苦しい熱を感じた。 このどす黒い感情を気付かれないよう、アキラは傍らに置かれたコーヒーをすぐに手に取った。カップに口をつけると顔が少し隠れる。湯気が瞼を焼いている間、僅かな時間の猶予をくれる。 顔を上げた時はすでにいつも通りの表情に戻っているはずだ。誰にも気取られることなく。……ただ一人を覗いては。 「そうだアキラくん、先生と明子さんお元気? 今戻ってきてらっしゃるのよね?」 市河が何の警戒もなくアキラに声をかけてくる。アキラは柔らかい笑みを浮かべながら、それでも困ったように肩を竦めてみせた。 「まだ会ってないんです。ボクはずっとマンションのほうに居ましたので」 「ええ、そうなの? でも先週くらいから帰ってらっしゃるんでしょう?」 「帰って来たら来たで何かと忙しい父ですから。お互い時間が取れなくて」 アキラと市河の会話を、少し目を丸くしたまま黙って聞いていたヒカルの表情に薄ら影が落ちたような気がした。 そのことにいち早く勘付いたアキラは、会話を早く切り上げようと少し早口になる。それに市河が気付いたかどうかは定かではないが、丁度良いタイミングで碁会所に客が訪れ、市河は二人の傍から離れることになった。 再び二人だけになった空間で、周囲に誰もいないことを確認したヒカルは、おもむろに低い声を出した。 「……先生、戻って来てたのかよ」 「ああ。先週帰国していた」 ヒカルの低い声の理由が分からず、アキラは軽く首を傾げる。 ヒカルはじっとアキラを見つめながら、決して明るくはない表情で言葉を続けた。 「顔、出してないのか」 「今回は二週間程滞在したらすぐに向こうへ戻ると聞いているから。また六月に戻って来るんだよ。その時は三ヶ月くらい長居するらしい。別に今慌てて会わなくてもいいだろう?」 「両親帰って来てんだぞ。ちょっと実家に戻ったっていいだろ」 「そんな時間はないよ」 「今日の、この時間は何なんだよ」 ヒカルのどすの聞いた声に思わずアキラは眉を顰めた。 この時間。――久しぶりに午後の休みが重なった貴重な時間だ。 昼だけ、夜だけといった僅かな時間を一緒に過ごすことはできても、午後からまとまった時間が同時に自由になる機会はそうそうない。アキラにとってもヒカルにとっても久しぶりの大切な時間だったはずだ。 その時間を、碁会所で過ごそうと言い出したのはヒカルではないか。 本当はマンションで二人だけで過ごしたかったのに、たまには顔を出しておけとヒカルがうるさく言うから渋々ここまで足を運んだのだ。 アキラの不満は顔に出たのだろう。ヒカルは鋭く目を据わらせた。 「俺が碁会所に誘ったのは他に予定がないと思ってたからだぞ」 「その通りだ。特に予定はなかったよ」 「先生が帰って来てるならそっちを優先しろよ。お前、会うのしばらく振りだろ」 「でもキミと」 「俺とはいつでも逢えるだろう!」 少し声を荒げかけて、ヒカルははっと口を噤んだ。ヒカルの目が辺りを気にして左右に動くが、碁石の音でざわめく碁会所ではこの程度の声では注意を引かなかったようだ。 ヒカルは眉間に皺を寄せたまま、ふう、と大きめのため息を漏らして碁石を手にした。止まっていた盤面に新たな一手を打ち込んで来る。 アキラはヒカルの剣幕が理解できず、軽く口唇を引き締めていたが――やがていつも通りに碁石を指に挟み、応酬すべく軽やかに打ち返した。 |
相変わらずダメ街道まっしぐら。猫まっしぐら。
だんだんヒカルも苛々してきてるみたいです……