「ありません」 頭を下げたヒカルにアキラも頭を下げ返す。 終始冷静に進んだ局面は終盤までお互いの力が均衡していたが、ヨセ直前で閃いたアキラの一手でヒカルは投了せざるを得なくなった。ここ最近、ヒカルに押し負けることも少なくなかったため、アキラは碁盤を見下ろして満足げに肩の力を向く。 対してヒカルは難しい顔のまま、じいっと盤面を見据えている。僅かに細められた目に疑問を持ち、アキラは思わず尋ねていた。 「今の碁に不満でもあるのか?」 ヒカルは黙って首を横に振る。 しかし表情は相変わらずだ。 なら、何故そんな顔を、とアキラが問いかける前に、ヒカルはざっと美しく並んだ黒と白の碁石を崩し始めた。 「今のは問題ない。いい内容だった」 そう告げながら、崩した一角でヒカルは新たな棋譜を描き始めた。 何を並べているのかと目を見張ったアキラは、途中で石の並びに気付いてはっとする。 「俺とならこれだけ打てるのに、この前のこれは何なんだよ」 吐き捨てるように呟いたヒカルが凄まじい早さで並べているのは、先週行われた本因坊リーグ第三戦、アキラと倉田との一局だった。 遂に来たか、とアキラは観念し、背凭れに深く背中を預けた。腕組みをし、降参のポーズこそとらないものの、ヒカルの言葉を黙って受け入れようという体勢だ。 ヒカルはまるで機械のように正確に棋譜を並べてみせた。倉田との対局が行われてから何も言って来ないので棋譜を見ていないのかとも思っていたが、チャンスを狙っていただけのようだ。ここぞとばかりにヒカルはアキラの打ち筋に顔を覗かせる紛れもない穴を指摘し始めた。 「このツギ、なんだよ。こっちも。こんなぬるい構えで倉田さんシノげるはずないだろ。ここも……なんでこんなすぐ諦めてんだよ。まだ粘れるとこじゃねぇか」 「粘っても勝敗は見えていた。投了するしかないだろう」 「お前、そういうタイプじゃないだろ」 アキラの言葉をばさりと切り捨て、最後の石をばちりと置いたヒカルはきっと顎を上げた。 その鋭い眼差しを受け、アキラの眉間にも皺が濃く刻まれる。 「初めての相手じゃねぇんだぞ。倉田さんとは何局も打ってきただろ? 三戦目であっさり落としてどうすんだよ。この後まだまだ気合い入れてかねぇと勝てない相手ばっかじゃねえか。――俺との対局だってあるんだぞ」 「キミとの対局は問題ない」 「俺となら出せる本気を、どうして他の相手に出せないんだ!」 ざわ、と碁会所が揺れた。 遠巻きにアキラとヒカルに視線が向けられたのが分かる。 さすがに今のヒカルの声は大きかったようで、常連客たちが何事かと伸び上がるように呆けた顔を見せていたが、いつもの喧嘩だろうと思ってくれているのか緊迫感はない。市河が慌てて駆け付ける様子もないことから、二人もそのまま相手から視線を逸らさない。 「……来月、芹澤先生だろう。こんな状態で勝てんのかよ」 「やってみなければ分からないよ」 「その台詞、やる気出してから言え」 「ボクにやる気がないとでも?」 少々カチンときたアキラは、片眉を持ち上げてヒカルを睨んだ。 倉田との対局、確かに破れはしたが、アキラとしては真剣に臨んだつもりだった。 ヒカルの言う通り、後から見れば甘い手がいくつも覗く。それでもあの碁が当時の精一杯だったと頭を切り替えれば、負けたことへの悔しさは無くなっていった。 倉田とは、あれが限界だったのだ。 ヒカルとならば、打つことへの喜びに全身が震えるように、望むがまま最善の一手を生み出すことが出来る。 他の人間とは作り得ない素晴らしい時間。――そのことをヒカルは喜んではくれないのだろうか? ヒカルはしばらく黙ったままアキラを見つめていたが、やがて数秒目を閉じて、その瞼が開いた時には怒りの色は消えていた。代わりに漂う諦めに似た空気も、決してアキラにとって居心地の良いものではなかったが。 ヒカルは先程並べ終えた棋譜を崩して行く。黒と白に選り分けられる石を見守っていたアキラも、おもむろにその手伝いを始めた。手元にある碁笥に白石をしまい終えると、ヒカルはすでに黒石の碁笥にフタをしていたところだった。 「出よう」 アキラが声をかけると、ヒカルはその呼び掛けが分かり切っていたかのように頷く。 狭いビルの駐車場にはヒカルの車が停まっている。早くあの狭い空間に帰りたい。アキラは切にそう願っていた。 立ち上がる二人を見て、市河が驚いたようにカウンターから身を乗り出した。 「あら、もう帰っちゃうの?」 「うん、また来るよ」 ヒカルは残っていたコーヒーをぐっと飲み干して、市河ににっこりと笑いかける。 アキラは言葉は発せず笑顔の会釈だけを残し、ヒカルを先導するようにカウンターへ向かった。もうちょっとゆっくりしていったらいいのに、と残念そうな市河の言葉を飽くまで笑顔で躱し、ジャケットを受け取ったアキラはさっさと出口へ向かって行く。 アキラに遅れること数秒、ヒカルも碁会所の自動ドアを潜ってエレベーターを待つアキラの隣に並んだ。 ヒカルは無言でハンドルを握っていた。 免許を取ってすでに半年、さすがに運転にも慣れたらしく、以前のような危なっかしさはなくなっている。 アキラが助手席に座るのも慣れた光景だった。時折ヒカルが疲れている時などはアキラが運転席に座ることもある。いわば車一台を二人で共有している状態だった。 向かっている先がアキラのマンションであることは、あらかじめ打ち合わせをしなくても決まり切っていた。 最初から、マンションで会えば良かったんだ――アキラはフロントガラスに向かうヒカルの横顔を眺めながら、悪びれずにそんなことを考えていた。 マンションの駐車場に車を停め、アキラは胸ポケットの鍵を探りながらエントランスへ向かう。アキラがオートロックを解除している間、ヒカルはいつものように自動販売機でペットボトルを購入していた。 部屋に入れば、すでにお互いの定位置がある。 荷物をソファの傍らに放り投げ、ぼすんと音を立ててソファに身体を預けたヒカルは、すっかり見慣れたベージュの天井を睨んで口唇を引き締めている。 アキラはそんなヒカルの後頭部をソファの後ろで見つめて、それから寝室へとジャケットを脱ぎに行った。 本因坊への挑戦者を決めるリーグ戦の八名にようやく名前を列ねたヒカルが、同じく八名のうちの一人であるアキラと対局するのはリーグ第六戦の七月。 来月には北斗杯がある。他の棋戦も相変わらずの混線状態だ。 立ち止まっている暇は一瞬だってない。 (そんなことはボクだってよく分かっている) ヒカルの苛立ちも、理解できないことはない。近頃、どうもうまく頭が働かない。 どこかぼんやりした状態で挑んだ手合いは大抵同じような有り様だった。 格下の棋士相手ならばそれでも充分勝ちを得ることはできるが、タイトル戦の常連たちとなるとそうもいかない。 しかし、不思議なほど勝てないことに焦りを感じない自分がいた。 (なんだか、執着がなくなってきた気がする) 手を伸ばせば、いつも届く位置にヒカルがいる。 碁ならばヒカルと打てる。肌と口唇を合わせて、温もりを腕の中に閉じ込めてしまえば、もうそれだけでアキラの何もかもが満たされていくのだ。 それでいいじゃないかと、アキラの中の影が笑う。 この幸せなひとときに、何の迷いや躊躇いがあるだろう? アキラとヒカルの他に誰もいないこの空間。二人きりの大切な時間。 (それの何が悪い?) クローゼットの扉を閉めて、アキラはその木目を細めた瞳でじっと見つめた。 |
またもや恒例の懺悔を……!
本因坊リーグ戦、開催期間がでたらめです。
実際はもっと早い時期から始まっているみたいで……
こういうとこのツメがいつも甘くてすいません……