風呂から上がってリビングの扉を開いたヒカルは、ソファに腰掛けているアキラの後頭部を見つけた。物音に振り向きもしないアキラを不審に思って後ろからそっと近付くと、まさに今、アキラはテーブルに放置していたヒカルの携帯電話を手にしようとしていた。 まさか、とヒカルが眉を寄せると、アキラは手に取った二つ折りの携帯電話をぱちんと開いた。アキラが何をしようとしているのかを察したヒカルは、カッと頭に血が昇っていくのを感じた。 「何やってんだよ」 考える前に声が出ていた。 アキラが振り返る。哀れなほどに青ざめて、そんなにビクビクするくらいなら初めからこんなことをするなと怒鳴りたい気持ちをぐっと堪えたヒカルは、ソファの前に回り込んで硬直しているアキラの手から携帯電話を奪い取った。 「何、コソコソやってんだよ。お前……そういうヤツだったのか?」 あまりの情けなさについ語尾が荒くなる。 この狼狽え方、苦い表情、明らかに恥だと分かってそれでもなお知りたかったのがこんなレベルのことだなんて――呆れて逆に言葉が出て来ない。 「……サイテーだな」 それだけ残すと、ヒカルはアキラに見切りをつけるように背中を向けた。 少し頭を冷やすといい。そんな意図があったが、ここにきてようやくアキラが凍結状態から解凍されたようだった。「進藤!」と悲痛に叫ばれ、ヒカルは足を止める。 「キミが……、キミが悪いんじゃないか!」 背中に届いた自棄気味な声を、ヒカルは聞き逃さなかった。 「……俺が悪い?」 低く呟いて振り返ると、アキラの怯んだ表情が視界に入る。額に脂汗を浮かべて、必死すぎる姿が何だか惨めに見えた。 「だって……、だって、キミがボクを避けるから……、さっきの電話だって……、」 まるで子供の言い訳のようにそんなことをぐだぐだと告げるアキラに、ヒカルは顔を顰める。 やはり電話は聞かれていた。……だからと言って、隠れて携帯を覗き見する正当な理由になどならない。 苛立ちが腹の底で煙りを立て始める。この男は怖いのだ。ヒカルの全てを知りたいと願うくせに、正面から確かめる勇気はない。 「……誰がそうさせてんだよ」 ヒカルの鋭い呟きに、アキラの顔が強張った。 言い返せないアキラを一瞥し、再びドアに向かいかけて―― 「お前、今日そこで寝ろよ」 念を押してヒカルはリビングを出た。 これくらいの仕置きは構わないだろう。アキラはここ数日広いベッドを一人占めしていたのだ。今日は俺が一人で占領してやる――ヒカルは濡れた髪のまま寝室に入り、万が一を思って内側から鍵をかけた。 携帯電話をベッド脇に放り投げ、自らも勢い良く腰掛ける。ヒカルが腰を下ろした弾みで携帯がぴょんぴょんと跳ねた。 そして溜め息ひとつ。―― 一緒に暮らすのは苦痛ではない。でも、時々こんなふうに凄く疲れる。 別に携帯を見られたって構わない。どうせ困るようなものは出て来ない。腹が立つのは、面と向かって追求する勇気もないくせに中途半端に探りを入れようとしたあの根性だ。 かつてヒカルに向かって好きだと言い続けたあの真摯な態度も、一度手に入れてしまえば新たな不安に緩むものなのだろうか? あまりの情けなさに涙が出そうだ。 それでも、あの格好悪い男を憎み切れない。あんな男、面倒を見てやれるのは自分しかいないではないか……ヒカルは我ながらとんだ偏愛主義者だと毒づいて、久々のゆったりしたベッドにごろんと転がった。 普段アキラが眠っているスペースに顔を寄せると、仄かにアキラの香りがした。ヒカルはそのまま目を閉じた。 翌朝、眠い目を擦りながらも、ベッドで眠ったおかげで随分回復した身体をう〜んと伸ばし、ヒカルは静かに寝室を出た。 リビングではアキラがソファに突っ伏したまま眠っていた。左耳をソファにつけ、押し潰された頬が間抜けで、眉も垂れ下がったままの情けない顔で寝息を立てている。 不細工な面だ、と肩を竦めたヒカルは、寝室に戻って毛布を持って来た。起こさないようにそっとアキラの背中にかけてやると、アキラの口唇が小さく「しんどう」と呟いた。 ヒカルは溜め息をつく。 ――まったく、なんでこんな男に惚れたんだか。 自分の趣味がここまで悪いとは思わなかった。この格好悪い姿にほだされて、許してやってもいいかなんて思っている――ヒカルは両手を腰に当て、まじまじとアキラを見下ろす。 今の寝姿は酷いものだが、黙っていればいい男なのだ。棋力も充分、物事にヒカルさえ絡まなければ礼儀も正しい至って普通の好青年。それがヒカル一人の存在にこうまで浮き沈みの激しい哀れな人間になってしまう。 「……お前が、俺に人生狂わされたのかな」 呟きに深い意味はなかった。が、口にするとやけにしっくりきた。 ヒカルはそっと床に膝をつき、泣き顔のようなアキラの寝顔に静かに顔を寄せる。念のため、アキラの腕の動きにも注視しながら。 小さくこめかみにキスを落とすと、ぱっと逃げるようにアキラから離れた。一瞬アキラの腕が何かを捕獲せんばかりに持ち上がったからだ。 危ない危ない、と胸を撫で下ろしたヒカルは、仕事に向かうべく気持ちを切り替え、薄暗い部屋を開放しようとカーテンを開く。アキラは余程遅くに眠りについたのか、太陽の光が射そうがヒカルが朝食作りに物音を立てようが目を覚ますことはなかった。 *** 今日もすっかり遅くなってしまった――ヒカルはマンションに横付けされたタクシーから下りて、腕の時計を見下ろし、マンションの壁を見上げて部屋の窓を探す。 また日付けが変わってしまっている。アキラはとっくに眠っているだろう。昨日あんなことがあったものだから凹んでいるだろうが、夕べも遅くまで眠れていなかったようだしきっと睡魔に適うまい。 案の定、帰宅したマンションは真っ暗だった。無事にアキラが眠っているだろうことにほっとしたヒカルは、荷物を置いて少し考え、仕方ないといった表情で寝室に向かった。 寝室では、アキラがまたもヒカル一人分のスペースを開けてやけに窮屈そうに眠っていた。 開け放した寝室のドアから廊下の灯りが漏れて、薄らオレンジ色の光に照らされたアキラの寝顔は酷く苦しそうで、眉間には皺が寄ったままだった。 ヒカルは思わず目を細め、アキラには触れないようにそっと腰を屈めて顔を覗き込んだ。 自分勝手で独りよがりで、思い込みが激しい傍迷惑な恋人。 五年もかけて辛抱強く口説いたくせに、いざというときに後込みしてめそめそしている格好悪い恋人。 手に入れてしまったから、失うのが怖いんだろう? ――ヒカルは音もなくそんなことを呟くと、そっとアキラに微笑みかけた。 心配しなくても、俺はもうお前に人生を預けてる。だからお前も、覚悟しておくといい――「俺」を選んだことを。 心の中で呟いて、ヒカルが身体を起こそうとした時。 突然、今にも歯軋りしそうな苦渋の顔で眠っていたアキラの目がぱちっと開いた。 前触れのない行動にぎょっとしたヒカルの前で、アキラは不自然に目を大きく開いたままむくっと上半身を起こす。そして、まるで機械で出来ているようにくるりと直角にヒカルを振り向くと、恐るべき早さで両腕を伸ばして来た。 しまった、油断した――後ろに飛び退こうとしたが、遅かった。声をあげる間もなくアキラの腕に捕まったヒカルは、そのまま蟻地獄さながらベッドの中に引きずり込まれた。 悪魔の手を振り切るように寝室から逃げ出したヒカルは、そのままの勢いで浴室に飛び込んだ。 身体中べとべとだ。へたくそな愛撫で無遠慮に痕を残されて、首やら胸やら見るに耐えない。 息もできないくらいのしつこいキスと、相変わらず脱がす時だけは手際のいい腕に掻き抱かれて、うっかり一発許してしまった。髪を引っ張っても頬を叩いても全く無反応……目を開けたまま寝ているものだからより不気味で精神的にも負担が大きかった。 やはり我慢は三日が限度か。ヒカルは心底疲労に満ちた溜め息をつき、せめて疲れた身体を熱いシャワーで労ろうと頭から湯を被っていたのだが。 ……平穏は束の間だった。 先ほど散々自分をいいようにした男が血相変えて飛び込んできたのだ。 「キミが好きだ、愛してる! キミを誰にも渡したくないっ!」 ヒカルは容赦なくアキラを殴りつけた。 「……すまない……」 ソファの端で項垂れるアキラをちらりと見やり、ヒカルはすっかりこじれてしまったここ数日の出来事を淡々と説明しなければならなかった。 時刻はすでに四時を迎えようとしている。もうほとんど朝に分類される時間だ。眠気を通り越し、すっかり冴えた目が半乾きで空気すら染みる。 ちくちくと嫌味を言い続けるヒカルに、アキラはひたすら小さくなっていた。終いには最後の手段とばかりに土下座だ。相変わらず分かりやすい行動にヒカルも腹を立てているのが馬鹿馬鹿しくなって来た。 床に這いつくばっているアキラの黒く艶やかな頭にぽんと手を置く。 「もういい。分かった。ホントはそんなに怒ってねえよ」 「進藤……」 顔を上げたアキラはやはり情けない顔をしていた。げんなりしたが、今更だろうとヒカルはそのみっともない姿から目を逸らさず、淡々と告げた。 「お前が単純なのは知ってるし。思い込み激しいのも、一人で突っ走るのも全部知っててつき合うことに決めたんだから、俺もある程度の覚悟は出来てる。だから、もう疑うな」 「進藤っ!」 アキラがしがみついてくる。その猪並みの突進を身体で受け止め、背中を優しく叩いてやりながら、ヒカルは今日――いや、もう日付けが変わってしまったために昨日になってしまったが、飲みながら和谷がこんなことを話していたことを思い出した。 『しかしお前、気をつけろよ。塔矢が変な誤解して逆上したりしたら、お前刺されんじゃねえ?』 そんな和谷にヒカルは乾いた笑みを浮かべてみせたのだが。 ――こいつにはそんなことできやしねえよ。 本音は心の内にしまっておいた。 「ぼ、ボクが悪かった。本当に、何と謝ったらいいか……!」 「もういいって。俺もはっきり言わなかったから悪かった。今度同じことがあったら髪の毛引っこ抜いてでも起こしてやるから」 「し、進藤……」 「あと、俺がいない時は一人で適当に抜いとけ」 「進藤〜」 アキラを抱き締めて柔らかい髪を撫で、おもむろにその手を下ろして、うなじから肩にかけての首のラインを不自然に思われないような仕草で撫で擦る。 お前は俺を刺せやしない。たとえコイツが勘違いしたように、俺が本当に浮気をしたとしても――結局は俺を止められずに泣き喚き、一人きりで自滅することしかできないんだ。 だから、万が一俺がお前を捨てたくなった時は、ちゃんとこの手に力を込めて行くから。 きちんとお前の息の根を止めて、独りぼっちにはしないから。 それがお前を受け入れた俺の責任。お前を愛した俺のけじめだ。 安心しろ。そんな予定は今の所、この先もずっとないと思ってるから…… アキラはまだ知らない。ヒカルの中で燃え盛る青い炎は、時にアキラの持つ紅蓮の炎を呑み込む勢いでヒカルとアキラの胸を包んでいることを。 アキラが本当の恐怖を知るには、今回とは真逆の勘違いによってヒカルの内なる炎が表面化する数年後の修羅場を待たなければならなかった――結末は神のみぞ知る。 |
フォ、フォローに……なっていないような……アワワ
なんか背筋が寒くなって終わったような……
こんな二人ですが結構幸せなんです。ホントに。
リクエスト有難うございました!