MISTY HEARTBREAK Ver.HIKARU






 二日連続で狭いソファでの睡眠を余儀なくされ、ヒカルは心身共に根が生えたような疲労を感じていた。
 アキラはヒカルの不機嫌さを読み取ってかちょろちょろと遠巻きに様子を伺い、そのくせ夜のことはさっぱり覚えていない態度に無性に腹が立つ。
 てめえの無礼な振る舞いのせいでソファ寝させられたと言うのに、一人寝の被害者のような顔をして狼狽えているなんて――苛立ちは募るが、怒ったって仕方がないのだ。
 二日も一緒に眠っていないことや、普段はしつこいくらいにしている挨拶のキスや抱擁も無言で拒否してきた。過剰なまでのスキンシップを望むアキラが、眠りによって無意識に本能を開放させたとしても、不思議ではないという現実が余計にヒカルを疲れさせる。
 これは、たとえ今夜いつものように眠ったとしても、無事に朝を迎えられる確率は少ないのではないだろうか……
 一抹の不安を感じたヒカルは、なんとか危機を回避しようとしばらく別々に眠ることを決めた。が、問題はどうやってそれをアキラに切り出すかだった。


 アキラより早く帰宅したヒカルは、できる範囲でごく簡単な夕食を用意した。と言っても米を炊き、インスタントの素を使った中華の炒め物を作って、同じくインスタントの味噌汁を溶くために湯を沸かす程度だ。
 これがアキラが準備するとなると実に豪華な夕食になる。ヒカルの好物を揃えつつ素材のバランスにも気を配り、味付けも上々だ。
 不必要なくらい愛されている自覚はある。それを純粋に嬉しいとは思うが、単純に浮かれるだけではアキラとの生活が長続きするはずないことをヒカルは理解していた。
 火に油を注いで二人で燃え尽きてしまっては意味がない。時に水となり、無駄に全力を尽くす炎を鎮めてやらなければ年老いるまで一緒にいるのは無理だ。
 この先何年も何十年も一緒にいるためには――疲れてはいたが、迷いのない目でヒカルはアキラの帰りを待った。
 帰宅したアキラは、朝の機嫌の悪い様子を気にしているのか、ヒカルの顔色を伺うように意味ありげな視線を向けて来る。本当に分かりやすい男だ、と呆れてしまう。目を見れば白か黒かはっきり分かるなんて、まるで碁石のようだ。
 だからこそ、ヒカルは朝から言おうと決めていた提案を口にするのを渋った。
 アキラがどんな反応をするのか容易に想像がつくからだ。
 なるべく穏やかに、アキラを興奮させないように言わないと……そう試みてはみたものの、案の定大騒ぎしだしたアキラの言い分に向かっ腹が立って、結局力技で押し切ってしまった。
 とっとと寝ろ、と怒鳴った後のあの情けない顔を思い起こすと頭が痛くなるが、しばらくはこの気まずい状況で時間を稼ぐしかない。
 何しろパーティーと称した飲み会はまだ続くし、明日は和谷宅での研究会だってある。出歩く回数が多くなればなるだけアキラの欲求不満も募るだろう。それを受け止めるには、がっちりと休めることが確約されている日でなければとても身体が追い付かない。
 休みが取れたら、仕方がないからその時は存分に抱かれてやろう。ヒカルは乾いた溜め息をついて、自分の身体を労るように手足や肩に軽いストレッチを施した。




 ***




 和谷宅での研究会は異様なまでに盛り上がり、軽くアルコールが入ったこともあって全員が「勝つまで帰らない」などと無茶なことを言い出し、総当たりで片っ端から対局を始めて数時間。
 ヒカルは午後の十時を回った時刻を気にして、浮かない顔で携帯電話を取り出した。……そろそろ連絡しなければ厳しい時間になってくるだろう。
 ヒカルとしてもこの状況で帰るのは嫌だった。先ほど伊角に綺麗に負かされた悔しさもある。しかしここでリベンジだと碁盤に向かってしまえば、終電どころの話ではない。ヒカル以外のメンバーは全員帰ることなど考えていないようで、気にせずにばんばん打ちまくっているのが羨ましい。
 ――やっぱ帰れねえ。ヒカルは決断した。昨日の今日で外泊となるとアキラの動揺っぷりが目に浮かんで哀れになるが、その分のツケは後からきっちり身体で払おう。ヒカルは睨んでいた携帯電話のボタンを押し、アキラの番号を呼び出した。
 ……話し合いは決裂した。
 どうやらアキラの口ぶりからするとヒカルが浮気でもしているんじゃないかと疑っているようだ。なんてタチが悪いんだと頭を抱えていると、馬鹿騒ぎの喧噪に紛れてそっと和谷がヒカルに声をかけてきた。
「おい……大丈夫か? 今、塔矢とだろ? 電話」
「……ああ」
「帰ったほうがいいんじゃないか? 怒ってんだろ? 遅いって」
「……いや、どっちかっつうと泣きが入ってる」
「うげえ」
 鬱陶しく泣きながら縋って来るアキラの姿が容易に想像できたのだろう、和谷はげんなりと顔を歪めた。
 アキラの馬鹿が所構わず猛アタックを続けたせいで、仲間にまでこの心配のされよう。日本棋院の人柱とまで言われたこともある。有り難くも何ともない称号だ。
「お前さ、やっぱ無茶じゃねえか? 一緒に暮らすなんてよ。別々だって充分しんどかったじゃねえか。なんでそこまでアイツに合わせてやんないとなんねえんだよ?」
 和谷の心配はごもっとも。和谷だけではない、社、伊角、本田、冴木、昨日の飲み会では酒が入る前の森下先生にまで「無理をするな」と言われてしまった。彼らはみんな形振り構わないアキラのヒカルへの愛情を目にしてしまっている……何度止められたか分からない。
 しかし、ヒカルは犠牲になっているつもりはない。アキラを受け入れたのは他でもない自分の意志なのだから、どれだけ心配されても離れようとは思わない。
 ヒカルは偽りなく自分を思って声をかけてくれた和谷をしっかり見据え、ゆっくり首を横に振った。
「大丈夫だ。別にしんどいとは思ってねえよ……ちょっと疲れるけど。でも辛い訳じゃない。俺もアイツに惚れてるから」
 和谷は驚いたように目を丸くして、それから渋い表情を見せた後にヒカルの肩をぽんと叩いた。
「今……お前に漢を見たぜ」
「誉めてんのか、それ?」



 ――そう。結局はそれに尽きる。「惚れているから」大概のことは許してしまうし、腹が立っても一時的で済んでしまう。何もアキラに流されてばかりいる訳ではない。嫌々同居したつもりはなく、ましてや無理に抱かれているのでもない。誰が同情なんかで足を開いてやるものか。
 鬱陶しくて、面倒で、しつこくて、いいところと言えば顔とマメな性格くらいなものだけれど、そんなアキラを選んだのはヒカル自身だ。あの男と一緒にいることを幸せだと感じてしまったから、きちんと恋人としてつき合っているのだ。
 だから最後はヒカルが折れる。……と言ってもここ数日の睡眠不足で身体の疲れは取れていないから、別々に眠る条件はそのままで、アキラに謝ってしまったほうが良いだろう。
 昨日の突然の外泊はアキラの寿命を軽く数年縮めているに違いない。萎れた恋人を想像したヒカルは、指導碁に出向いた先で是非夕食をと引き留められるのを丁寧に断って、急ぎ足で帰路についた。
 マンションに着くと、アキラは何故か浴室のほうから現れた。どうやら風呂の支度をしていたらしい。相変わらずマメな男だとヒカルは微かに苦笑いしながら、アキラに素直に謝った。
 アキラもまだ疑惑の晴れていない目をしつつもヒカルに頭を下げ、とりあえず事態は落ち着いたとヒカルが安堵していた時、和谷から携帯に電話がかかってきた。
 ヒカルはちらりとリビングのドアを見るが、風呂に入ったアキラが戻って来た気配はない。昨日の今日であまり誰かと会話しているところを見られると面倒だな、と思いながらも電話をとった。
「もしもし」
『進藤? 無事か?』
 ヒカルは和谷の開口一番にやれやれと苦笑した。
「何でもないっつってんだろ。お前らが思ってるほど大変でもねえって」
『でもさ、アイツキレたら何するか分かんなさそうだからさ。……怒ってなかったか?』
「うん、まあ、何とか」
『もう研究会なんかに行くな! って言われなかったか?』
「ああ、それは大丈夫だよ」
 アキラはあの通り独占欲は強いが、意外なほどヒカルに対して強気に出ることはない。
 そんな性格だからこそ、五年もの間犯罪も犯さずに辛抱強くアプローチし続けて来られたのだろうけれど。
「でも、アイツちょっと疑ってるっぽいから。しばらく、そっち行けねえと思う……うん」
 口に出さなくても、あの目が未だにヒカルに対して疑惑を抱えていることをはっきりと伝えていた。
 本当に昨日は研究会だったのか? ――実に分かりやすくアキラの顔がそう物語っていてうんざりしたが、いちいち納得させるまで説明するのも面倒なので今はそのままにしておこう。
『でもよ、明日も森下師匠のお祝い残ってるぜ。どうすんだ? 誕生日当日だぞ?』
「明日? 明日は何とかして行くよ。せっかくの記念日だし……」
『そうか? まあ、無理すんなよ。もし来れなくても俺がフォローしといてやっから』
「ああ、サンキュ。……そうする。じゃあ、またな」
 短い通話を終えて携帯電話をテーブルに置いたすぐ後、風呂から上がったアキラがリビングに戻って来た。
 和谷と電話していたところを見られなかったか少し気になったが、勧められるがままヒカルも風呂に入ることにした。
 アキラとの生活は悪くない。たまに暴走することを除けばそれほど害はないし、嘘偽りなく愛されていることに喜びを感じないはずがない――ヒカルだってアキラを愛しく想っているのだから。
 明日の飲み会が終わったら、そろそろ一緒に寝てやろうかな……アキラの情けない顔を頭に浮かべ、そんなことを考えながら湯舟に浸かっていたヒカルは、ここ数日の不機嫌さもどうでもよく思えるようになって来ていた。
 風呂上がりにちょっとした修羅場が待っていることなど予想もせずに。