Maybe Tomorrow





 カーテンの隙間から漏れる太陽の光が、気怠い身体を捩らせる。
 眩しさにまだ目の覚めていない顔を顰め、進藤ヒカルはうつぶせになりたくて寝返りを打とうとした。しかし身体に絡みつく腕が、どうにも自由な動きを許さない。
「んー……、とうやぁ、眩しい……」
 目を擦りながら呟くと、その腕はふいにヒカルの身体を回転させるように自分の元へ引き寄せ、まだ覚醒しきっていない顔を掴んで無理やりに口付けてくる。
「んん……」
 ヒカルは眉を顰めたものの、閉じたままの目を開こうともせずに黙ってキスを受ける。
 起き抜けにしては濃厚なキスを交わし、ようやく口唇を解放されたヒカルは、ため息ともつかない深い息を吐き出した。
 すっかり冴えてしまった目を開くと、目の前で蕩けそうな笑顔を浮かべている男が甘ったるく囁いた。
「……おはよう」
「何がおはようだよ、このエロおかっぱ」
 毒づいたヒカルは尚も絡みつく腕を押しのけ、暖かいベッドから這い出た。素肌に外気が触れて身震いする。
 素っ裸でうろつくヒカルを見て、未だベッドに横たわっている塔矢アキラが目を細める。
「いい眺めだけど、風邪引くよ。キミ、この前もお腹壊してただろう」
「それはお前のせいだろーが」
 床に脱ぎ散らかした服を拾い上げ、とりあえず身に着ける。ヒカルは時計を見上げ、予定の時刻より一時間過ぎていることに嘆息した。
「おい、寝坊しちまっただろ」
「キミが起きないからだよ」
「起こせよ」
「寝顔が可愛かったからつい」
 悪びれずにそんなことを言って、アキラも身体を起こした。
 ほんのり顔を赤らめ、怒ったように照れるヒカルに破顔する。
「に、にやにやしてないでお前も起きろよ」
「ハイハイ、先にシャワー使っていいかい?」
「さっさとしろよ」
 ひらりとベッドを降り、軽く乱れた黒髪を掻き上げたアキラは、視線を感じてヒカルを振り向いた。
 程よく筋肉のついた、均整のとれたプロポーション。どこかぼうっとした目のヒカルに、アキラは悪戯っぽく笑いかける。
「見惚れた?」
「バっ……」
 バカ、と呟いたヒカルの頬は先ほどよりも赤い。
 アキラは笑いながら寝室を後にする。背中に、お前こそ服着ろ! なんてヒカルの声が届いた。
 進藤ヒカルと塔矢アキラが付き合い始めてから二年、一緒に暮らし始めてから一年。アキラはまさしく幸せの絶頂にいた。
 先月十八歳という若さで念願の名人のタイトルを手にし、最年少タイトル保持者と世間に大いに騒がれたばかり。その他のタイトルにもリーグ戦入りし、今年中に二つ目のタイトルをとるのではと周囲の期待も高い。
 一方その恋人であるヒカルもまた、本因坊の挑戦者としての権利を得て勢いをつけている。お互い忙しい日々だった。その合間を縫うように、こうして恋人同士の時間を作る。
 充実していた。碁と、恋人のことだけ考えていられる日々に浸りきっていた。
 この幸せが、明日突然消えてしまうかもしれないなんて考えたことがなかった。
 今から思うと、そんな保証はどこにもなかったのに。



 ***



 午後から出版部で受ける取材のため、アキラとヒカルの二人は並んで棋院への道程を歩いていた。
 今日は珍しくそれ以外に予定がなく、取材もそれほど時間のかかるものではないと聞いているため、自然と気が緩んだのだろう。遅刻するほどではないにしろ寝坊した二人は、少し急ぎ足になる。
「あ、そうだ塔矢、この前の緒方先生の防衛戦二局目、棋譜見た?」
「見たよ。倉田さんのスミから攻めたあの流れは見事だった」
「だよなー。でも序盤の緒方先生のさ……」
 ふいにヒカルが言葉を区切って立ち止まる。
 どうしたのかとアキラも立ち止まり、ヒカルが見ている方向へ首を回した。ごく普通の景色の一部である、車道。しかしその中央には帽子が落ちている。風で飛ばされたのだろうか――アキラが推測を始める前に、それは起こった。
 子供が、帽子に向かって車道に飛び出してきた。
「危ない!」
 咄嗟にアキラは声をかける。すぐ傍の交差点をかなりのスピードで曲がってきた車は、速度を落とす気配がない。
「まずい、見てねぇ!」
 ヒカルはそう叫ぶと同時に飛び出した。アキラの顔から血の気が引く。
「進藤、待て!」
 子供に向かって駆け出すヒカルを追い、アキラもまた車道に飛び出した。
 ヒカルが子供を抱きかかえる。アキラはそのヒカルを突き飛ばす。
 耳を裂くブレーキ音。
 後は……、後は、意識が闇に落ちた。