Maybe Tomorrow






 キキィ、と耳を劈く高音に意識が引き戻される。

 全身が痛むとアキラは思った。体勢が苦しい。地面に横たわっているようなそんな感覚――
 何処からか子供の泣き声が聞こえる。撥ねられた、救急車だ、なんて怒号も響く。
 やけに硬いと思ったら、この地面はコンクリートだろうか? ごつごつして頬が痛い。腕もすりむいたのかヒリヒリする。
 その腕の先に絡まっている暖かい存在は……

 アキラはそっと目を開く。
 目の前で、同じように地面に横たわっていたヒカルがそろそろと瞼を持ち上げていた。
 しばらく放心したように見つめ合い、数秒の間を経て、二人はがばっと身を起こす。そして、コンクリートに転がったせいだろうか、全身に走る鈍い痛みに顔を顰めた。
 痛みを堪える顔のまま、再びお互いを見る。
 何か言いたいが、うまく言葉が出てこない。そんな顔だった。
 ざわざわと二人を囲むざわめきが大きくなる。不自然にタイヤが曲がったまま停車している車。転がっている子供の帽子。ヒカルが抱えて突き飛ばしただろう子供は大泣きしているようだが、あれだけ騒ぐ元気があるならきっと大丈夫だろう。
 ヒカルが、ぽつりと呟いた。
「……俺、すげえ夢見たって言ったら……信じる?」
 アキラは苦笑いし、肩を竦めてみせた。
「奇遇だな。ボクも物凄い夢を見た」
 二人は目を見合わせ、そして笑った。
 夢のような出来事。
 だけど確かに身をもって体験した、不思議な世界のもうひとつの未来――


「進藤、進藤っ!」
 身体の砂埃を払いながら立ち上がった二人の元へ、棋院の方角から誰かが駆けてくる。
「和谷」
 ヒカルは少し身構えて呟いた。
 和谷はフェンスをひらりと飛び越え、人垣を掻き分けてヒカルの元に突進してくる。
「大丈夫かよっ! 今、棋院にいたら人が撥ねられたって……! 金髪とおかっぱの二人だっつうからまさかと思ったら……!」
「和谷……」
「おい、大丈夫なのかよ!? 怪我は!?」
「お前、俺のこと殴ったりしない?」
「はあ? 何言ってんだ? 頭打ったのか!?」
 ヒカルに掴みかかって怒鳴る和谷を尻目に、ヒカルが突然大笑いし始めた。
 ぎょっとして後ずさる和谷の気持ちはよく分かるのだが、アキラもまたヒカルと一緒に大笑いしたい気分だったから、馬鹿みたいに笑うヒカルをとめようとは思わなかった。
「あ〜良かった〜! 戻ってきた〜〜!」
「お、おい、進藤、お前ホントに頭打ったんじゃ……」
「良かった〜! ただいま塔矢、おかえり塔矢!」
 そう言って飛びついてくるヒカルを抱きとめ、アキラはぽんぽんと優しく背中を叩いてやる。
 ――戻ってきた。
 人だかりのど真ん中、救急車のサイレンの音を遠くに聞きながら、二人は我に返った和谷に引き剥がされるまでそうして抱き合っていた。





 ***





 翌朝、慣れ親しんでいたマンションの大きなダブルベッドで抱き合ったまま目が覚めても、どこか二人は疑心暗鬼気味にお互いの顔をひとしきり見つめた。
 やがて紛れも無く自分たちが共に暮らす部屋だということを信用すると、心から安堵のため息を漏らして微笑みあう。
 二人は上質なスプリングが心地良いベッドから名残惜しげに身体を下ろし、アキラはキッチンでモーニングコーヒーを用意し、ヒカルはリビングのソファに凭れて普段通りの朝を過ごす。
 ソファでどこかぼんやりと宙を見上げているヒカルに、アキラは淹れたてのカフェオレを差し出した。
「サンキュ」
 カップを受け取ったヒカルの隣にアキラも腰掛け、しばし二人は無言で温かい飲み物を流し込む。
 こうして今まではごく当たり前だった朝の風景を並んで見ていると、あの出来事は本当に長い長い夢だったのではないかと思えてくる。
 しかし、やけにリアルだった向こうの世界の自分たちの痕跡と、最後に身を持って感じた炎の熱さは、決してただの夢なんかではなかったとアキラの背中をぶるりと震わせた。
 ふと、ヒカルが両手でカップを包んだまま、どこか一転を見つめているのに気がついた。
 ヒカルはじっと自分の左手首を見ていた。アキラも思わずその場所に目を向けると、視線に気付いたのかヒカルは顔を上げて呟く。
「……傷、なくなった」
「……うん」
 ヒカルの左手首に残っていた傷痕は消え、薄ら血管が浮かぶ白い肌は滑らかだった。
 アキラはテーブルにカップを置いて、そっとその手首に触れた。優しく握り締め、熱を伝えるように手のひらで包み込む。
 ヒカルも右手でカップを置き、アキラに左手首を取られたまま、少しだけ険しい顔をして静かに口を開いた。
「……ただの夢じゃねえよな」
「……ああ……」
「俺たち、確かに違う世界にいたんだよな」
「ああ」
「あいつら、うまくいったかな……」
「……どうだろうね……」
 アキラはヒカルの手首を握り締めたまま、背凭れに体重を預けて先ほどのヒカルのように空を見上げた。
 つい昨日までこの身体はもうひとつの不思議な場所にあったのだ。
 向こうの「アキラ」は心も身体も頼りなくて、でもヒカルを想う気持ちだけは何よりも強かった。
 彼は真摯にヒカルと向き合うことができるだろうか? 心の翳りを振り払い、ヒカルの存在をしっかりと信じることができるだろうか。
 ヒカルが必要で、愛しているのだと伝えることができるだろうか――
 アキラが「アキラ」に思いを馳せていると、隣のヒカルが独り言のように呟いた。
「あのさ。あのお蔵の火事……あれさ、……お前を待ってたんじゃないかと思うんだ」
「え?」
 振り向くアキラにヒカルは真顔で続ける。
「あの火、なんか変だったろ。中だけ焼けててさ。俺、なんであんななる前に逃げなかったのかなって考えたんだけど……ひょっとしたら、あの火で俺のこと足止めしてたのかなって……」
「足止め……?」
「お前が来るまで、俺がお蔵から出ないようにさ」
「……誰が?」
「……それは……」
 ヒカルは口ごもる。
 少し戸惑ったようなその顔を、アキラは見ないフリをしてあげることに決めた。
 覚えている。あの蔵の中で、最後にヒカルが靄に向かって呼びかけた名前。
『佐為――!?』
 確かに耳に残ったあの名前を、アキラが忘れるはずもない。
 しかし、未だ心の準備が出来ていないだろうヒカルに問い詰める気はなかった。
 アキラは今の質問を取りやめて、話を進める手伝いをすることにした。
「あの火については分からないけど。……でも、キミがボクを待っていたというのは本当かもしれない」
「え?」
「正確には向こうの「キミ」だけど。火の中で、確かにボクを呼んだ……」
 アキラの声に顔を上げ、切なく顔を歪めたヒカルを思い出すと胸が少し痛くなる。
 「アキラ」を待っていただろうに、代わりに現れたのが自分であることが申し訳なく感じるほど、あの瞳は「アキラ」を切望していた。
(……だから、「ボク」が手助けをしてくれたのかもしれない)
 記憶にない声も映像も、きっと「アキラ」が示してくれたもの。
 彼だって、本当は自分でヒカルの元に駆けつけたかったに違いない。
 二人がもう少し素直に自分の気持ちを伝えることができたら、あんなふうに傷つけあうだけの関係から抜け出せるのではないだろうか。
 そんなアキラの考えと、ヒカルもまた同じだったらしい。
「……アイツら、ほんのちょっとズレちゃったんだよな」
「ああ……」
「あと少し勇気出したら、絶対うまくいくはずなのに」
「……そうだね……」
 アキラとヒカルがそれぞれ受け取ったパズルのピースを、うまく繋ぎ合わせることができたらひょっとしたら。
 でも全てのピースが揃った訳ではない。「彼ら」が自分で隠し持つピースも必要不可欠だ。
「なんか、怖かったな。中途半端に知ってる世界とリンクしててさ。もしかしたら、こんな未来もあったのかなって」
「もしかしたら、か……。「もしも」だなんて、ありえないと分かっているからこそ口にできたんだろうな。いかに楽観的だったか、思い知らされた気がする」
「うん……、でも、どんな未来でも、信じられたよ。お前がいたから」
 アキラは弾かれたようにヒカルを見た。
 ヒカルはアキラを見つめる静かな瞳に、もうひとつの世界の中で何度となくアキラを励ました力強い光を湛えて、頼もし気に微笑んだ。
「お前がいる世界が、俺の生きる世界だ。何があっても、それだけは変わらない」
「進藤」
「後悔だけはしたくなかった。ムチャクチャやっちまったから、アイツら困ってるかな」
 白い歯が覗く笑顔に、アキラも釣られて頬を緩ませる。
 ずっと握っていたヒカルの手首から手を離し、代わりに腕を伸ばして肩を抱き寄せた。嬉しそうに目を閉じたヒカルが、ことりとアキラの鎖骨に頭を預ける。
「困ってるかもしれないね。相当引っ掻き回して来たからな」
「あれくらいやんなきゃ踏ん切れねーんだよ。あ、社にはもっかい礼言いたかったな〜」
「そうだな。彼には世話になった。」
「社とも仲直りできるといいな、向こうのお前。……でも、きっと大丈夫だよ。俺、向こうのお前に念押ししてきたんだ」
「ボクに?」
「うん。約束、したんだ……」
 遠い昔の物語のように、不思議な出来事を語る気持ちは穏やかだった。
 本当にあんな世界が存在したのか、そして何故あの世界に呼ばれたのかは分からないけれど、もしかしたら何もかもが必然だったのではないかとも思える。そして。

『さあ、もう充分です……』

 きっともう二度とあの世界に呼ばれることはないような気がするのだ。

 ――もしかしたら。
 当たり前にやって来ると信じていた明日が訪れず、見たことがない太陽が昇る世界で途方に暮れることがあっても、本当はそんなことは大したことではないのかもしれない。
 確約のない明日を、どうやって生きて行くかは自分次第。僅かな希望でも、信じる未来と大切な人の存在が強く後押ししてくれる。後悔するな、光に向かって突き進めと。
 それでも道に迷ったら、誰かに手を差し伸べてもらったって構わない。
 気付かないうちに自分も誰かの道標になっているかもしれない、そんな世界で。


「……なあ、今度休みかぶったら……行きたいところ、あるんだ」
「どこ?」
「……じいちゃん家のお蔵」
「……」
「お前に、見せたいものがある……」
「……、うん……」


 迷いながら戸惑いながら見えない明日を生きて行こう。
 隣には愛する人がいる。











**END**








ようやく完結しました!
長い間見守って下さった皆さん有難うございます。
いつも行き当たりばったりで9話ずつ書いていたので
途中かなりぐだぐだになってますが、楽しかったです。
書き上げられて良かった!本当に有難うございました!
(2007.07.02/55〜63UP)

(BGM:Maybe Tomorrow/レベッカ)