ヒカルは指先に触れた固いものが「それ」だと気付き、思わず飛びつくように身を乗り出していた。 蔵の二階部分はそれほど広いわけではない。床をくまなく探せばきっと見つかると思った碁盤は、思いのほかすぐ傍にあったようだった。 懐かしい碁盤は煙のせいでよく姿が見えないが、両手で包んで感触を確かめる。 このまま置いておいたら焼けてしまう。 持って行かなくては、と力を込めかけたヒカルは、ふと何故自分がここにいたのかを考えた。 (……「アイツ」がここに来た) もう一人の自分。淋しく冷たい部屋で暮らす一人ぼっちのヒカル。 (……、碁盤を見に来たのか……?) ――何のために? 思考はそこで閉ざされた。 煙が回り、熱風が身体を吹き付けてきて、ヒカルは考えている場合じゃないと今の状況を思い出す。 そうして、周りにアキラの姿が見えないことに気づいた。 「……塔矢?」 煙で前が見えない。 「塔矢!」 呼びかけに返事はない。 さっきまですぐ近くにいたはずなのに―― ヒカルの額にさっと影が落ちる。 とうや、ともう一度力の限り叫ぼうとして、大きく肺に煙を吸い込んでしまう。喉がぎゅうっと自発的に収縮するようで、ヒカルは堪えきれずに派手に咳き込んだ。 熱い。さっきから煙ともうひとつ、流れる汗が視界を遮る手助けをしている。 密封されている蔵の内部が燃えているせいか、ここにいるだけで皮膚が焦げ付きそうだ。 早くここから抜け出さなくては。でも、アキラがいない。 ひょっとして先に出口へ向かっただろうか? もうすでに外に出ているかも…… (――いや!) アキラが自分を置いて一人で行くはずがない。 きっとまだ近くにいる。 煙に巻かれてお互いを見失っているだけだ。 (塔矢) 払っても払っても、煙は開かない。 (塔矢) 煙に爛れた喉が苦しくて、声がうまく出てこない。 (塔矢――!) 左手に触れたままの碁盤を見捨てることもできない。 ふいに、この場にそぐわない風が吹いたような気がした。 熱気の中にふわりと涼やかな空気が通り過ぎる。 思わずその心地よさに身体の力を抜いたヒカルは、風のおかげで薄らいだ煙の向こうに人影を見つけ、思わず碁盤から手を離して飛びついた。 「うわっ!」 「……塔矢!」 驚きの声を無視して首にかじりつく。 間違いないアキラの感触にヒカルは安堵の息をつき、きつくその身体を抱きしめた。 「何処に行っていたんだ! 急にいなくなるから……!」 「ごめん、探し物してたんだ。早くここから……」 言いかけたヒカルは、まだ身体に触れる優しい風の存在が残っていることに気づいて振り返る。 この風は何処から……? ヒカルがたった今いた場所、ちょうど碁盤の辺りから流れてきた涼やかな一陣の風は、煙と炎に囲まれていた蔵の中でぼんやりと浮かぶ微かな光から吹いてきている。 ヒカルは、その優しい光を認めて目を見開いた。 「……佐為……!?」 ヒカルの口から出てきたその名に、アキラがはっと瞬きをする。 ヒカルが凝視している方向を見るが、何かぼんやり靄のような光が見えるだけで、人影のようなものは見えない。 眉を顰めて目を凝らすアキラを、ヒカルが「見えないのか?」と尋ねるように険しい顔で覗き込んだ。アキラは黙って首を横に振り、何も見えないことを伝える。 「佐為……、お前、お前……」 ヒカルは声を詰まらせながら、うまく言葉を紡げないでいるようだった。アキラにしがみついたままの腕に無意識に力が込められて、何も見えないアキラはヒカルを強く抱き返すことしかできない。 その時だった。 『「ヒカル」を――助けてくれてありがとう』 聞いたことのない優しい声が頭の中に響いてきた。 ヒカルはアキラの腕の中でびくりと身を竦め、それから徐々に強張った力を抜いて、夢でも見ているみたいに呟いた。 「……そうか……、お前、俺の佐為じゃ……ねえんだ……」 「コイツ」の佐為なんだ。 淋しげな呟きを、しかしヒカルは微笑を浮かべて口にした。 声は応えない。 それでも、ヒカルは満足そうな表情で、ぼんやり渦を巻く靄に向かって頷いてみせた。 『さあ、もう充分です。お帰りなさい、あなたたちの世界へ――』 柔らかく不思議な響きで声がそう告げた瞬間、煙と炎に閉ざされていた場所に眩いほどの光の道が現れた。 ここは二階だったはず――そう常識的に考えようとしたアキラの腕を、ヒカルは強引に掴んで迷わず走り出した。 バイバイ、と小さな囁きがヒカルの口から漏れたような気がする。 優しい声に背を向け、探していたという碁盤も振り返らず、アキラの手を取って一心不乱に光の向こうへ―― まるで蔵自身が吐き出したように転がり出てきた二人は、一気にクールダウンした外の空気に気を取られてそのまま地面に倒れこんだ。 そうして背後を振り返ると、今しがた二人が出てきたらしい扉はひとりでに閉まり、ふわりと煙の残像を残して蔵は沈黙する。 抱き合ったまま地面に横たわり、首だけを持ち上げて蔵を見上げていたアキラとヒカルは、そろそろとお互いの顔を見た。 煤けて黒い肌、服の端々が焦げ、髪は乱れに乱れて酷い格好になっている。 思わず同時に吹き出すと、身体の奥から力の芯が抜けていくような気がした。指先から、足先から、どんどん感覚が失われて行く。 「……ひでえ顔」 「……キミもね……」 全身が怠い。強烈な眠気を感じる。 今までも何度か味わったことのある感覚だった。 いよいよ「その」時が来たのだと、アキラもヒカルも確信していた。 「俺ら……戻れる、かな……」 「分からない……、でも、もう……」 最後の力を振り絞って身を起こしながら、アキラはしっかりとヒカルの顔を見た。 ヒカルも、今にも閉じてしまいそうな瞼をこじ開けてアキラを見つめ返す。 「後は……「彼ら」に任せよう……」 「そう、だな……」 眠くてたまらない。 もう、意識を保つのがギリギリだ。 遠くから声が聞こえる。アキラの名前を呼んでいるのは芦原だろうか。下りようとする瞼を必死で持ち上げると、隙間から緒方たちがこちらに向かって駆けてくるのが見えた。 そうだ、みんな来ていたんだった――アキラががくりと折れそうな首を何とか持ち上げようと力を入れた時、同じくふらふらと身体を揺らしていたヒカルが眠そうな顔でにやりと笑った。 「最後の仕上げ……しようぜ」 「仕上げ……?」 「ああ。「コイツら」がもう言い訳できないくらい、うんと」 見せ付けてやろう―― 悪戯っぽい囁きにアキラは「了解」と微笑み、ほとんど眠りかけていた身体の底力を振り絞って力強くヒカルを抱き寄せた。 そうして薄く開いていたヒカルの口唇を自らの口唇で深く塞ぎ、滑り込ませた舌でヒカルの舌の根ごと絡めとるような濃厚な口付けを交わす。 薄く開いた視界の向こう、追いついてきた緒方も芦原も伊角も和谷も、全員ぎょっとした顔をしていて、アキラはキスをしたまま笑った。 アキラのキスに応えながら、ヒカルもまたふふっと楽しげな吐息を漏らす。 ――確かに覚えているのはそこまでだった。 薄れていく記憶の中、目を完全に閉じるその寸前に、抱き合ったまま驚いて目を見開き、真っ赤な顔でお互いを見つめている「アキラ」と「ヒカル」の姿が見えたような―― 闇の中で煌いた幻のひとつだったかもしれないけれど―― |