「花咲みの君へ」の続き


 ドアの前で呼吸を整え、砂埃で薄汚れた全身を軽く手で払い、その手を緩く握り締め、逸る気持ちに釣られないようゆっくりとノックをした。
「どうぞ」
 ドア越しの穏やかな声に頬が緩む。思わず勢い良く開いてしまったドアの先に、ほんの少し驚いた顔のエドガーがこちらに向けた眼差しを優しく細めた様を見て、マッシュもまた目尻を下げた。
「ただいま、兄貴」
「ああ、おかえり」
 出立前よりも仄かに日焼けした笑顔で、マッシュは二ヶ月ぶりに会った兄に隠しようのない愛しさを込めた視線を注ぐ。
 執務机に座って微笑むエドガーはそんなマッシュを眩しげに見つめ、もっと近くに来るよう両手を広げて促した。
「御苦労だった。視察は問題なく終えられたようだな」
 旅装束のままだったマッシュは、エドガーの元に歩み寄りながらフード付きのマントを外す。マントの皺に入り込んでいた砂がパラパラと落ちるのを気にしながらも、エドガーの傍らに立ったマッシュは大きく頷いた。
「うん、とにかく二ヶ月ずっと暑かったのを除けば問題なかったよ」
 エドガーが高らかに笑う。
「良い色に焼けたな。我が国よりも天候が厳しいとは恐れ入った」
「暑さは慣れてると思ってたんだけどな。でも、全部予定通り済ませてきた。報告書はこの後荷物を整理したら……」
「ああ、それは急がなくていいから」
 マッシュの言葉を遮り、エドガーが机の上に肘を立てて両手を組む。そこに顎を乗せ、上目遣いにマッシュを見るエドガーの含み笑いで、兄が何かを催促していることに気づいたマッシュは照れ臭そうに頭を掻いた。
「その……、暑い国だったし、移動距離も長かったから。そのままは持って来られなかったんだけど……」
 歯切れ悪く前置きをするマッシュを急かすでもなくにこにこと眺めるエドガーは、マッシュの言葉一つ一つに嬉しそうに頷いた。そして青い瞳の奥を期待に光らせ、マッシュがぎこちなく探る手の動きを瞠っている。
 マッシュは小さく息を呑んで、思い切ってポケットから長方形の小さな紙片を取り、エドガーに差し出した。その頬は赤い。エドガーが眼差しを一層細めて、マッシュの手から紙片を受け取る。
 鮮やかなピンクの花弁が押し花となって貼り付けられた、栞だった。
「これだけしかなくて、悪い……」
 気まずそうに謝罪を口にするマッシュに対し、エドガーは優しさに溢れる瞳でじいっと栞を見つめて唇を綻ばせる。小さく漏れた笑い声には艶があり、ついマッシュの胸がときめきに音を立てた時、エドガーは軽く首を横に振って再びマッシュを見上げた。
「充分さ。……で、この花の名前は?」
 マッシュが目を泳がせる。
 にこやかに圧をかけるエドガーは、黙ってマッシュの返事を待っている。
 観念したマッシュは、先程よりも赤くなった頬を誤魔化すように軽く唇を尖らせて、ボソリと小声で呟いた。
「……ブーゲンビリア」
 エドガーが一際大きく頷き、引き出しから取り出した手のひらサイズの本をめくり出す。
 マッシュは楽しげにページをめくる兄の姿を横目で伺いながら、照れ隠しに小さく背中を丸めた。
 失くしたと思っていた花言葉集がエドガーの元にあると分かったあの日の後も、それはずっとエドガーの手にあった。
 全て暗記していると答えたのが悪かった──マッシュは溜息に近い吐息を漏らし、エドガーが花言葉集を持ち続けたいと言った時に異議を唱えなかったことをほんの少し後悔する。
 あれ以来、マッシュが国内外問わず出かける際にはエドガーは必ず花の土産を所望するようになった。渡したそばから目の前で意味を調べられるのはちょっとした拷問だ。秘めた想いも何もあったものではない。
 即暴かれてしまうのだから、あまりにあからさまな花言葉は避けようと思っても、しかし気持ちに嘘などつけず。
 一目で花の名前が分からない押し花にしたところで、何の花か白状させられては同じこと。ブーゲンビリアのページを見つけたらしいエドガーが満足げに頬を緩める様を見て、マッシュはむず痒そうに口元を覆った。
「ふふ。そうか、ブーゲンビリアか。ふふふ」
 にんまりと笑うエドガーは、もじもじと大きな身体を揺らして突っ立っているマッシュが目を合わせようとしないことに苦笑して、優しく「マッシュ」と声をかけた。
 顔の下半分を手で隠したマッシュがちらりとエドガーを見る。エドガーは笑みを乗せた唇を薄く開き、囁くように呟いた。
「お前がいない間部屋が静かでな。せめて見た目だけでも華やかにしようと花を用意させた。お前の帰城に合うように」
 マッシュは伏せがちだった瞼を持ち上げ、二度瞬きをする。見れば机上に小さな鉢植えが乗せられていた。以前は無かったその花が何の花なのか気づいた時、マッシュの顔はその日一番の赤色に染まった。
「……分かるだろ? 花言葉」
 掠れ気味に念を押されて、嘘のつけないマッシュは小さく頷く。
 鉢植えに鎮座するオレンジがかった紅赤の小花の名は花麒麟。花言葉はすぐに思い出せた。あまりにストレートなその内容に、自分が兄に贈ることはないだろうと思っていたそれをまさかエドガーが用意するだなんて。
 座ったまま椅子ごと身体をマッシュに向けて顎を上げるエドガーの前で、まだ帰城直後の埃っぽい身を気にしたマッシュが狼狽えながらもう一度服を払い始めたのが焦ったくなったのか、エドガーはスッと立ち上がってマッシュの正面から目を合わせた。
「余計なことは気にしなくていい。お前が持って来たのはブーゲンビリアだろう? 他のものに目をやる余裕があるなんていい度胸だ」
 戯けた口調ではあるがしっかり開かれた青い瞳の色は雄弁で、その青の中に情けなく戸惑う自分の姿を見たマッシュは、意を決して両腕を伸ばす。
 エドガーは唇に微笑みを湛え、長い睫毛を伏せた。震える毛先に見惚れて目眩を感じながら、マッシュはそっと艶やかな唇に口付ける。
 ブーゲンビリアの花言葉は『貴方しか見えない』──嘘偽りのない素直な想いを胸に抱き、愛しさを込めて食んだ唇を静かに離すと、子供っぽささえ感じる無邪気さを伴って破顔したエドガーがマッシュの胸に飛び込んで来た。
 旅の汚れを厭わない様子にマッシュは眉を下げて微笑み、今度は躊躇わずに愛する人を強くきつく抱き締める。

 小さくも鮮やかな色彩が情熱的に映える花麒麟の花言葉は『早くキスして』。

(2019.10.05)