HORNY




「陛下、例の行商が見えておりますが……」
 執務室に顔を出した腹心の言葉にぱっと顔を輝かせたエドガーは、ペンを放り投げるように手から離して「分かった」と返事をした。
 例の部屋へ通せ、と指示をすると彼は若干不服そうに目を細めたが、食い下がることはなく「御意」と口にして速やかに下がって行く。
 数ヶ月に一度、フィガロ城に顔を出す旅の行商。
 元々は世界の崩壊後にエドガーが盗賊の頭として各地を回っていた時に知り合った間柄で、商品を集めるルートが多岐に渡っているらしく、常に新しく珍しい品々を揃えている謎の多い初老の男。
 城に戻ってからも顔を合わせる機会があり、それ以来近くに来た時は是非寄ってくれと頼んだ言葉の通り、男はしばしば顔を出すようになった。それもエドガーがまんまと食いつきそうな物珍しい商品を抱えて。
 いかにも胡散臭い風貌の男を正門から堂々と迎え入れる訳にも行かず、裏から通して目立たない部屋で商談をするのだが、それが腹心の部下は心配で仕方がないらしい。
 気持ちはよくよく分かるが、エドガーは人を見る目に絶対の自信を持っていたし、何より彼が取り出す商品がどれも興味深いものなので、純粋に来訪が楽しみだったのだ。
 それに、今回は特別待ち侘びている理由もあった。
「ご無沙汰しております、エドガー陛下」
 椅子から立ち上がりはしたものの、敬うと言うよりは媚び諂うような口調で行商の男がにこやかに頭を下げる。
 その様子にエドガーは気を悪くすることもなく、まるで盗賊に扮していた時のように気さくな調子で右手を上げて応えた。
「やあ、元気そうで何より」
「陛下もご健勝で」
「見ての通りだ」
 軽やかにウィンクしてみせたエドガーは、僅かに目を細めて男が持つトランクに視線を走らせる。男もそれに気づいたようで、にんまりと唇の両端を持ち上げてトランクの側面をぽんぽんと叩いてみせた。
「ご依頼のもの、お持ちしましたよ」
「そうか!」
 思わず声を弾ませたエドガーは小さく咳払いをして、やや腰を屈めて小柄な男に顔を近づけ、声を潜めて尋ねた。
「本当に安全なものだろうな?」
「勿論ですよ。危険なものを陛下にお渡しするはずがない」
「副作用の心配は?」
「精が尽きて翌日どっと疲れるのは否めないでしょうなあ。何しろ即効性に優れておりますから。効果は絶大。多少の無茶が許される時にお使いになるのがよろしいかと」
 さらりと答えた男はトランクをエドガーから中身が見えない角度で開き、そこから無色透明の液体が入った手のひらに収まる小瓶を取り出した。
 差し出されるがままにそれを受け取ったエドガーは、指先で小瓶のくびれを摘んで目の高さまで持ち上げる。軽く振ると中で液体がぽちゃぽちゃと揺れた。
「軽くお楽しみならティースプーンに一杯程度。多くても三杯までに留めておくのをお勧め致しますよ。次の日に起き上がれなくなる」
「このまま飲めばいいのか?」
 エドガーは小瓶に嵌め込まれたピンのような蓋を抜き、鼻を近づけた。微かに花のような不思議な香りがふわんと漂ってくる。
「味に若干の癖がありますから、飲み物に混ぜた方が飲みやすいでしょうな。香りの強い酒にでも混ぜればまあ少量なら気づかれやしませんよ。ご自身でお飲みになる場合はどちらでもお好みで」
「即効性と言ったが、具体的にどのくらいで効果が出るんだ?」
「まあ、身体に入って数分……量が多ければ数十秒で汗が出るくらいには体温が上がります。数時間は持続するかと」
「重ねて聞くが、本当に危険はないだろうな?」
「誓って」
 エドガーは小柄な男の窪んだ瞳を射抜くように上から見下ろした。
 男は絶えず薄ら笑いを口元に浮かべていたが、エドガーと合わせた視線を不自然に揺らすことはない。
 エドガーは男から目線を逸らしてフッと笑い、懐から小袋を取り出した。差し出したそれを、男は待ってましたと言わんばかりの満面の笑みで受け取り、無遠慮に中を覗いて満足そうに頷く。
「へっへ、ご安心ください陛下、こんだけサービスしてくれる上客を謀ったりしませんよ。私もまだ命が惜しいもんで」
「立場上、万が一があっては困るのでね。……有意義に使わせてもらうよ。ところで、他に掘り出し物はないのかい」
 素早く小瓶を懐に隠し入れたエドガーがさらりと話の焦点をずらすと、男はにいっと歯を見せて笑い、閉じかけていたトランクを大きく開いた。







 さて、これをどう仕込むか──

 入手したばかりの、怪しげな液体が満ちた硝子の小瓶を手の中で弄びながら、執務室の椅子にどっかり腰を下ろしたエドガーは上向きの目線で考え込む。
 一ヶ月ほど前、行商の男に密かに依頼した『気分が高揚する夜の薬』。
 冗談混じりでありながら、エドガーの目が殊の外真剣だったのを抜け目なく読み取った男は、きっちり所望のものを用意してやって来た。
 エドガーはこれを自分に用いるつもりはなかった。使う相手は勿論、弟であり恋人でもあるマッシュである。
 何故こんなものを要したのか、それはひとえに夜の生活に不満があるからだ。
 狂える魔導士を討つ旅の途中に想いを確かめ合い、城に戻って初めて迎えた夜。身体の相性の良さは流石双子、辿々しくも幸せに満ちた時間をこれから何度も過ごすのだろうと期待にときめいていた胸は、それから日に日に鼓動の速度を落とすことになった。
 本来ならば蜜月期であろうと言うのに、マッシュがさっぱり手を出して来ない。
 まさかあの数回で満足し切ってしまったのだろうかと疑うくらい、夜に私室で二人きりのシチュエーションであってもほぼほぼおやすみのキスで終わりになる。
 それとないアピールでは気付かれもせず、かと言ってストレートに抱いてくれと言えるほど厚顔ではない。
 マッシュから求めてくることがほとんどない、いや皆無であることがエドガーは大いに不服であったし、何より不安だった。
 ──あいつ、本当は俺にあまり興味がないのでは?
 もどかしく歯噛みするが、当の本人は夜以外はいつも通り、人懐っこい笑みで優しさを絶やさずに傍にいてくれる。
 好きだよ、と言葉と唇を交わしたのだから、マッシュの気持ちは自分にあるはずだと信じたい。
 性的に淡白なだけなのか、それとも数回の夜で自分が何かを失敗したのか、しかし本人に直接尋ねられるほどこの身に自信がある訳でもない。
 もしも控えめな性欲が原因であるのなら、こうした薬の助けを借りてその気になったりはしないだろうか? ──結果、手に入れたのがこの小瓶だった。
 気分が昂り、熱っぽくなる薬。身体の火照りを散らすために、マッシュが手を伸ばしてくれたらそれ以上は何も求めない。
 淡い期待半分、疑い半分。効果がどの程度なのかは怪しいものだが、万が一うまくいったら儲けものかなと、エドガーはこっそりと小瓶を引き出しに隠し入れた。




 ***




 いい酒が手に入ったんだ、と声をかけるとマッシュは屈託無い笑みをくれた。
 何の含みも持たない純粋な笑顔。寝巻き同然のラフなシャツ姿で部屋にやって来たマッシュを纏う空気から、今夜もその気ではないことを察したエドガーは密かに落胆する。
「何かつまみになるものでも用意しておけば良かったな?」
 エドガーがそう口にしながら予め準備していた二人分のグラスが乗るトレイに向かうと、背後からマッシュのカラリとした声が聞こえて来た。
「いや、一、二杯もらったら戻るからいいよ。明日も早いしな」
「……そうか」
 ──ああ、やはり。
 マッシュから求められない事実に胸がドンと重苦しくなったエドガーは、直前までの迷いを捨て、マッシュに背を向けたまま酒瓶の影に忍ばせていた小瓶を手に取った。
「兵たちへの武術指南は順調なのか?」
 声色を変えず、指先の不自然な動きを悟られないように。静かに小瓶の蓋を外し、音を立てずにそっと置く。
「ああ、みんな真面目について来てくれてるよ。まだすぐバテちまうのもいるけど、始めたばっかりの頃に比べたらかなり体力もついてきたし」
 マッシュに差し出す予定のグラスへ、小瓶の中身をティースプーンで一杯、二杯、三杯……、そこで一瞬止めた手を、さりげなく動かしてやや溢れ気味な四杯目も注ぎ込んだ。
「それは何よりだ。スタミナは重要だからな」
「そうだな。怪我しないように基礎からみっちりやってるから、みんなタフになってきたよ」
「頼もしいな」
 薄く笑って、エドガーはトレイを両手で掴み、ようやくマッシュに顔を向けた。
 エドガーの穏やかな微笑みを何の疑いもない目で迎えたマッシュも、警戒心なくにこやかに頬を緩めている。
「さ、どうぞ。少々強めでな、……熱くなるかもしれないな……」
 ローテーブルに小さな音を立てて置かれたトレイから、手のひらで上から包むように持ち上げたグラスをマッシュの前にコトリと寄せた。
 マッシュは真っ直ぐに手を伸ばし、軽く目の高さに持ち上げていただきますと呟いてから、グラスを唇に近づけた。
 エドガーの喉が小さく上下する。豪快にがぶりと一口含むかと思われたマッシュの手は、しかし微かに傾けたところで動きを止めてしまった。
 エドガーの心臓が竦む。マッシュはグラスの縁に唇を僅かに触れさせたまま、ピクリとも動かなくなった。
 そして青い目を瞼に隠すようにゆっくりと二度瞬きをして、グラスを顔より低い位置に下げる。
 もう一度瞬きをした目が開いた時、マッシュの視線は真っ直ぐにエドガーを射抜いていた。
「……あのさ、兄貴」
 普段と変わりのない穏やかな声が呼びかける。
 エドガーは動揺を悟られないよう軽い笑顔を作って首を傾げてみせたが、僅かなぎこちなさが滲み出た。
「俺さ。おっしょうさまのところで修行してた頃、よく山籠りしてたんだ。数日から数週間、長い時には何ヶ月も」
 突然何を話し出したのかと、エドガーは素の表情で眉を寄せる。訝しがるエドガーに構わず、マッシュは顔色を変えないで淡々と続けた。
「それだけ長く山に籠るとなると、大事なのは食力確保だ。何ヶ月分も食材持って行けないからな。大半は現地で調達しないといけない。その時に大事なのが、食べられるものとそうでないものを判断できる力だ」
 どきんとエドガーの胸が音を立てたかのように収縮した。
 極力表情を乱さないように努めるが、静かな口調で話を続けるマッシュの澄んだ瞳からえも言われぬ圧力を感じて、自然と背中が湿っぽくなっていく。
「何度か酷い目に遭ったよ。適当に取った木の実で腹壊したり、キノコで丸三日熱出したり。その都度頭と身体に何が危険か叩き込んで、勿論最初は見た目で判断するけど、それ以上に直感って言うのかな、だんだん嗅覚が鋭くなっていくんだ」
 マッシュの言わんとすることを徐々に理解し始めたエドガーは、薄っすら汗ばんできた額を拭うこともできず、黙って話を聞いていた。声が出なかったという方が近いかもしれない。
 良からぬことを企んでいた心の奥を見透かすようなマッシュの視線が、エドガーを捕らえて逃さなかった。
「色、形、におい、触った感触、それから──予感、そういうの引っくるめて口に入れても安全なのか気づくようになる。下手すると命が危ないからな、ダメなものが分かるように本能が鍛えられたのかもな……。だから──、ちょっとでも何かがおかしいものは、すぐ気づく」
 マッシュはそこで言葉を区切り、手の中のグラスをもう一度顔の高さに掲げた。
 目線はエドガーに向けたまま、じっとりと見つめられたエドガーは下唇を小さく噛んだ。
「この酒……他に何、入れた?」
 エドガーは険しい眉を隠し切れず、ゆっくりと瞼を伏せて細く深い溜息を漏らす。
 マッシュの目は確信している。しらを切り通すことはできても、信用してもらうことは不可能だろう。
 もしもエドガーがこのまま真実を隠蔽すれば、失望したマッシュが黙って部屋を出て行くだけだ──観念したエドガーは、伏せた瞼を持ち上げてマッシュに目を向けた。
 マッシュの青い瞳は咎める訳でもなく、ただ静かにエドガーを見守っているように見えた。
「……、……催淫剤、の、ようなものだ」
 いつしか口内はカラカラに乾いており、情けなく掠れた自分の声にエドガーの顔が自嘲気味に歪む。
 マッシュの目が僅かに広がったようだった。
「……身体が熱っぽくなって軽い興奮状態になる、と……。ちょっとしたツテがあって入手した。勿論身体に害があるようなものじゃない……、ただ、……ソノ気になりやすい、と聞いて、試してみたくなったんだ」
 マッシュが真顔で瞬きを繰り返している。夢にも思わなかったというようなマッシュの反応がエドガーに強く羞恥を感じさせ、居たたまれなさにマッシュから目を逸らした。
「……さいいん、ざい……? なんで、そんなもの……」
 唖然としたマッシュの独り言に近い呟きが耳を容赦なく刺し、エドガーの頬が熱を持つ。
 緊張に縮んでいた胸は今や鈍い痛みを生み始め、浅はかな行動を内から責めているように感じた。
 エドガーは口内の肉を噛み締めてから、ぽかんとしているマッシュに顔を背けたまま辿々しく言葉を吐き出した。
「……お前が、まるで俺を求めて来ないからっ……、薬の効果ででも、少しはそういう気分になってくれないかと思ったんだっ……!」
 今度ははっきりマッシュが目を見開いた。
 裏腹に眉を顰め目を細めたエドガーは、最悪の形で計画が失敗したことを認めた。そして、この後のマッシュの反応を怯えて待たなくてはならなかった。
 呆然と硬直しているマッシュはグラスを持ったままピクリとも動かず、ここが自室でなければエドガーはその隙に部屋を飛び出していただろう。
 呆れられるか、罵声が届くか──息苦しい時間は永遠に続くようにも思われたが、ふとマッシュが腕を上げた動きが視界に入り、エドガーの肩が大袈裟に揺れた。