Jealousy




「しかし、世界も随分と変わってしまった」
 恐らくは水で薄められているのか、味も香りも気の抜けたような安酒をちびりと口に含んだエドガーは、溜息にも似た深い吐息混じりに呟いた。
 ささくれの目立つ使い古された丸テーブルは肘を置くとガタガタと揺れる。卓上のグラスを倒さないよう気遣いながら、エドガーの対面に座るマッシュも同意するように軽く首を振ってみせた。
「街だけじゃない、山が丸ごと消えたりしてるからな。セリスに会うまであちこち見て回ってきたけど、何処も酷い有様だったよ」
「生き残った人々も裁きの光に怯えて過ごす日々だ。何としてもあの邪悪な魔導師の凶行を止めねばならない」
 エドガーの厳しい眼差しにマッシュも大きく頷く。
 酒場という場所でありながら本来漂うべき陽気さはここには感じられず、決して多くはない客はそれぞれ鬱々とテーブルを囲んで、酔えもしない薄い酒に逃げ場を求めているように見えた。
 世界が崩壊したと言われた日から凡そ一年を経て、散り散りになった仲間を探すべく旅を続けていたマッシュが、盗賊に扮したエドガーを見つけたのはつい先週のこと。
 先に合流を果たしていたセリスと共に、名前を偽っていたエドガーを追った。地中に埋まって動けなくなっていたフィガロ城を浮上させたのち、盗賊からフィガロの国王に戻ったエドガーは、再びマッシュたちとの旅に加わった。
 この一年、無事を信じていながらも安否の分からなかった兄の存在を忘れることなど一秒もなかったマッシュは、エドガーとの再会で喜びに高鳴らせた胸を、別の意味で痛めてもいた。
 あの日、世界の崩壊と共に飛空艇から投げ出されたマッシュは、エドガーの腕を掴むことができなかった。目の前で真っ二つに折れた飛空艇から落ちる兄を救うことは叶わなかった。
 城を出てから十年、兄の力になるべく厳しい修行に耐えて来たと言うのに、肝心な場面で役には立たなかった──そんな自分自身への憤りを抱えていた旅の途中、ようやく出逢えた兄は素性を隠してマッシュにすら正体を明かそうとしなかった。
 兄には兄の考えがあると理解はできる。しかし、一年もの間捜し求めていた存在に初めて見るような顔を向けられたあの衝撃は、今でもはっきりと思い出されて息苦しさを蘇らせる。
 時に、肉親としての情を越えた感情をエドガーに抱いているマッシュにとって、こうして向かい合って穏やかに酒を酌み交わしている時も、それはふとした瞬間に胸の中を重苦しく淀ませる辛い記憶となっていた。
「……セリスはよく眠れているだろうか」
 ふと、エドガーが独り言のように零したその言葉で、ハッと意識を目の前の存在に取り戻したマッシュは、作り笑いを浮かべながら頷くとも首を傾げるともつかない動きで頭を振った。
「ツェンで会ってすぐの頃は夜中何度か魘されてたみたいだったよ。それもだんだん落ち着いて……今は宿の部屋でぐっすりじゃないかな」
「元将軍とは言えまだ十八の少女だ。悪夢のような世界での一人旅は辛かったろう……。他の仲間たちも気がかりだ。情報を集めねば──」
 話し途中のエドガーの頭がふいに後方に引っ張られ、険しい表情が驚きのそれに変わる。マッシュも何が起こったのかと瞬きをすると、エドガーの背後を通りかかった店員のブレスレットが髪に引っかかったようだった。
 申し訳ありませんと頭を下げる年若い少女に、エドガーは軽く手を上げ大丈夫だと示して微笑みかける。顔を真っ赤にして去っていく店員を優しい目で見送ったエドガーは、解れた髪を直すために髪留めを外し始めた。
「もう夜更けだと言うのにあんなに小さな子が働いているとは。……酷い世の中になったものだ」
 どこか寂しそうな微笑に変化したその眼差しに見惚れたマッシュは、うまく返事ができずにただ頷いた。
 はらりと広がる金糸のような髪は、寂れた酒場の乏しい明かりの中でも眩しいほどに輝きを放つ。髪を纏め直すために長い金髪を下ろしたエドガーは相も変わらず美しく、盗賊に扮していたのが嘘のように華やかだった。
 それだけにマッシュは気が気ではなかった。他人に関心を持つ余裕がない空気が漂う酒場とは言え、髪を下ろした兄の姿は衆人に晒したくはない。早くその髪を一纏めにして欲しいと焦り始めた時、ガタンと椅子を倒したような耳障りな騒音が聞こえて来てマッシュは眉を顰める。
 しかし音の出所を探す必要はなかった。やや離れた位置のテーブルを陣取っていた数人の集団のうち、一人の男が椅子を跳ね除けるように立ち上がってツカツカと大股でこちらに向かってくる。大柄で精悍な顔立ちの見たことのない男だった。
 血相を変えた男は迷いなくマッシュとエドガーが囲むテーブルに近付き、男に背を向ける格好で腰掛けていたエドガーの肩を不躾に掴んで振り向かせた。
「なっ……」
 声をあげたのはマッシュだった。目の前で髪を下ろしたままの兄が乱暴に肩を掴まれた光景に唖然と口を開ける。
 エドガーも驚きに目を見開いて男の顔を仰ぎ見た。が、すぐにその目が僅かに細められ、眉がピクリと揺れる。男もまたハッとしたように目を丸くし、困惑に眉を寄せた。
「おい、お前!」
 テーブルに手をついて立ち上がるマッシュを、エドガーが手で制する。向けられる手のひらと静かにしろと訴える横目の視線に、不服たっぷりのマッシュは声を詰まらせた。
 エドガーは男を見据えたまま、低いながらもはっきりした声で尋ねた。
「……誰かとお間違えかな」
 男は戸惑ったように軽く後ずさり、エドガーの肩から手を離す。
「……あ、ああ。人違いのようだ……」
 しどろもどろに答えた男は気まずげに視線を泳がせ、会釈のようなそうでないような素振りで頭を振ってから元の卓へと戻っていく。がりがりと乱雑に頭を掻く後ろ姿を睨みつけたマッシュは、すぐに心配そうな目をエドガーに向けた。
「なんだあいつ。兄貴、大丈夫か」
「何てことない。……顔に見覚えがある。帝国の軍人だろう」
「何だって?」
 思わず声が大きくなったマッシュに対し、立てた人差し指を唇に添えたエドガーは、視線だけをチラリと後方に向けて声を潜めて続けた。
「人違いというのは本当のようだが、どうやら向こうも俺の正体に気づいたな。あそこに集まっているのは全員帝国兵と見た……。世界の崩壊後の帝国の動きが把握できていなかった。何かしら情報を持っているかもしれない」
「情報って、兄貴」
「彼らの滞在にしばらく合わせよう。セリスには内密にな、帝国兵に彼女の存在を知られるのは良くない……」
 相談に似た口調でありながらとんとんと話を進めるのは、すでにエドガーの中で決定事項となったからに他ならなかった。戸惑うマッシュを置いてきぼりに、エドガーは説明を続ける。──彼らがこの時間に酒場にいるということは、宿も取っているはずだろう。いつこの町を離れるか分からないから、明日なるべく早くコンタクトを取る。そしてできるだけ情報を引き出す。──おおよその内容はこのようなものだったが、呆けた表情で形ばかり頷くマッシュの頭にはうまく入っては来なかった。
 それよりも、その美しい金髪を早く束ねて、解かれたままの姿を他の人間の目に触れさせないで欲しいと、そんなことばかり気になって仕方がなかった。



 *



「マッシュ、エドガーは?」
 宿の敷地内の小さな庭で基礎鍛錬に汗を流すマッシュに、荷物こそ持ってはいないが身支度を整えたと見られるセリスが声をかけた。
 マッシュは額の汗を手の甲で拭い、「情報収集だって」と短く答える。マッシュの傍まで来たセリスは驚いて目を見開いてから、不服そうに顔を顰めた。
「何の? 昨日この町は三人で見て回って、特に仲間の手がかりもなかったじゃない」
「……何か思うところがあったらしいよ。しばらく留まりたいってさ」
「らしいって、貴方のお兄さんでしょ」
「兄貴の考えは兄貴にしか分かんねえんだ」
 軽く腰を捻って身体を解しながらそう告げるマッシュに、セリスも納得できる点があったのか諦めたように溜息をついた。
「……できれば早く他の仲間を探しに次の町へ急ぎたいところだけれど。エドガーが無駄なことをするとは思えないものね。」
「ああ。悪いな、事後報告で」
「何を調べてるのか知らないけれど、新しいことが分かったら私を除け者にしないでよ。……少し散歩でもしてくるわ」
 気をつけてなと声をかけたマッシュに微笑んで髪を翻したセリスを見送り、マッシュは再び身体を動かし始める。
 じっとしていると余計なことを考えてしまいそうだった。セリスに説明しながら、納得していないのは他ならぬマッシュ自身だった。
 昨夜、酒場で例の男たちが席を立つのを見計らい、さり気なく後をつけた二人は、彼らが同じ宿に部屋を取っていることを突き止めた。宿無しでなくて幸いだったと笑ったエドガーは、男たちが起き出す前から支度を始めて昨日の大柄の男と接点を持つきっかけを作るべく準備をしていた。
 必要があれば呼ぶと指示されたマッシュは、現時点では不要の存在と言われたも同然だった。
 確かにマッシュが男たちから欲しい情報を引き出す手管を持たないことは自覚している。頭脳戦でエドガーの望む通りに動くことはまず無理だと重々承知の上で、それでも役に立てないことは純粋に悔しかった。
 盗賊に扮したエドガーの姿を思い出して唇の端を噛む。頭の回転が早く行動力もある兄は、大抵のことなら自分一人で成し遂げられる力を持っている。いくら口で頼りにしていると讃えられても、本当に自分は必要な存在であるのか、考え込むと悪い方向に思想が転がり落ちそうで、頭を空っぽにするべくマッシュはひたすら汗を流す。
「……除け者、か……」
 城を出てから十年。再会し、離れてまた一年。
 培った力の全ては兄のため。偉大な王の隣に立つために絶えず努力をして来た日々を、自ら否定するような思考に陥りたくはなかった。


 ほとんど一日中姿を見せなかったエドガーが宿に戻って来たのは日暮れも近い頃。
 宿の食堂で夕食を取ろうとしていたマッシュとセリスに顔だけを見せ、これからまた出かけるからと忙しなく立ち去る寸前、エドガーはマッシュの耳元に一瞬顔を寄せて早口で囁いて行った。
「直接話す機会を持てた。今夜は遅くなる」
 返答のために慌ててマッシュが振り返った時には、すでに兄の後ろ姿しか視界に映らなかった。
 昼間にきっちり成果を出したのだという感嘆と、エドガーを一人だけで行動させる不安と、やはり必要とされなかった失望とで一気に感情が複雑に絡まった胸を押さえながら、唇を噛んだマッシュは黙ってその背を見送った。



 眠りに落ちることに諍いながら、微睡みから現実へ逃れたり引き戻されたり、寝不足で朦朧としつつもうすぐ夜明けを迎えるかという頃に、扉はようやく開いた。
 宿のベッドで一晩中ごろごろと横になっていたマッシュは、そのささやかな音で一気に覚醒して飛び起きた。恐らくは意識して音を忍ばせていたエドガーは、起き上がった影を見て戸口で驚いた顔をしていた。
「……おかえり」
 明るくなりかけている室内でさぞや酷い顔が浮かび上がっていることだろう──まともに眠れず夜を過ごしたマッシュは頭をがりがりと掻いて、まだふわふわと寝ぼけた思考を無理に目覚めさせようとした。
「……ただいま。起こしてしまったか」
 静かにドアを閉めたエドガーは、外出用に巻いていたスカーフを外しながら控えめな笑みを見せた。
「随分かかったな」
 寝起きの低い声がぶっきら棒に聞こえるかもしれないとマッシュはエドガーの反応に注意したが、エドガーは気にする素振りもなく参ったと言いたげに両手を軽く掲げて苦笑を漏らす。
「心を開いてもらうのに少々骨が折れた。軍人の忠誠心は侮れん」
「帝国兵なのは間違いないのか」
「将官クラスではあるな。周りにいた連中は部下のようだ。幻獣の首都攻撃時に他所に駐屯していたらしい……帝国の残留兵は思ったよりは少なくないのかもしれない」
「歳は?」
「見た目よりは若いな、四十手前くらいか。生まれも育ちも帝国と聞いた。やはりセリスの存在を気付かれないようにしなくてはならない」
 話しながら髪を解いて緩く編み直し、手早く着替えてブーツを脱いだエドガーは、自身に割り当てられたベッドの毛布をめくってマッシュに背を向ける格好で潜り込む。
 そして首を浮かせて顔だけをひょいとマッシュに向け、鼻先と睫毛くらいしか見えない状態で「少し寝る」と告げた。
「二時間経ったら起こしてくれ」
「……ああ……」
 マッシュが答えるとエドガーはぱたりと枕に頭を落とし、すぐに動かなくなった。やがて肩がゆったりと上下し始め、その規則的な動きに驚くほど早く眠りについたことを察したマッシュは、エドガーとは裏腹にベッドを抜け出て眠る兄の前にそっと立つ。
「……おやすみ」
 囁きが耳には届いていないことを知りつつ、何か声を掛けずにはいられなかった。どうかエドガーの夢に先程まで話していた男が出て来ないようにと、惨めったらしい願いを込めて。