Jealousy




 ほとんど寝てはいないとはいえ、いつも通りの時間であることを理由にマッシュは宿の外で身体を動かし始めた。
 朝焼けが眩しい空の下で冷えた空気を吸い込むと、腐っていた心が少しずつ解れていくような気がしてくる──マイナス思考を追い出さんと無心で汗を流し、今の自分に出来ることはこれしかないのだと何度も胸に言い聞かせる。
 エドガーは彼の為すべきことを果たすべく最大限の働きをしているに過ぎない。それはマッシュが頼りないからではなく、適材適所を把握しているだけのこと。
 今後の旅に有益な情報を得ることは重要だと理解はできても、それを得る方法も活かし方もマッシュには分からない。役立つものは拳のみ。それを兄は責めたりしないし、頼りにしていると言ってくれもした。
 だからこれは蚊帳の外ではない。今はまだ出番が来ていないだけなのだ。──何度も何度も言い聞かせる。
 気づけば空は青みを帯びて太陽が高く上がり、街の人々がチラホラと道を往来し始めている。そろそろ兄を起こさねばと動きを止めたマッシュは、すっかり汗で濡れた身体を清めるために宿の中へ戻って行った。

 浴場でさっぱり汚れを洗い流したマッシュは人気の少ない廊下を進み、自分とエドガーに割り当てられた部屋に向かっていた。
 世界が崩壊してから旅をするのは必要に迫られた人間がほとんどとなり、大体は住処をなくした者、家族や友人の安否を訪ねる者など呑気な理由ではない。道中の魔物も増えた。そのため以前に比べて旅人の姿は減り、この宿屋にも泊り客は多くはない。
 だから廊下の前方で不意に開いた客室の扉から二人の男が出て来た時、珍しさも伴ってマッシュは彼らの顔を確認した。そして何処かで見た顔だとハッとする。
 昨夜エドガーがコンタクトを取った男と共に酒場にいた顔だ──となると彼らもまた帝国兵──マッシュは横目で更に数秒彼らの顔を見定めて、エドガーが話したという大柄の男ではないことを確かめた。
 二人の男はその隣の部屋の前に立ち、控えめにドアをノックする。マッシュは歩みを狭め、なるべく不自然に思われないようゆっくりと彼らに近づいた。少しして開いたドアから出て来た寝ぼけた表情の男が一人、それもまた例の男ではない。が、やはりあの時酒場にいた男の仲間の一人に間違いなかった。
「おはよう。なんだ、酷いツラだな」
 ノックをした男が、現れた相手に揶揄い混じりの声をかける。
「夜明けもまだだって頃に中将に起こされたんだ。今日の昼に出立予定だったのを明日に延ばすってよ。そんだけ言って自分は朝飯もいらんから昼まで寝るって部屋に戻ってったんだぜ、あれからうまく眠れなくなっちまったよ」
「明日に延ばす? この何にもない街でどうしろってんだ」
「アレだろ、昨日……中将が会ってたの、フィガロの国王だろ」
 彼らの背後を通り過ぎる時に聞こえて来た言葉で、マッシュは一瞬足を止めかけた。しかし探っていることを気付かれてはならないと、何も気にしていないフリをして前だけを見てゆったりと歩く。
「あれ本当にフィガロ王なのか?」
「間違いねえよ、俺ぁ昔何度かフィガロ王がうちに来てたのを見たことあるんだ。まあ、あの頃より大分面変わりしてるがね」
 後ろから聞こえてくる会話の一音も漏らすまいと耳をそばだてたマッシュは、廊下の角を曲がったところでサッと壁に背をつけて立ち止まった。そして息を殺して影から三人の様子を伺う。
「面変わりって?」
「即位し立ての頃はまあ人形みてぇに綺麗な顔してたぜ、今より身体も小さくてな。皇帝がご執心だったのも無理ない……あれなら俺でも試してみてぇや」
 下卑た笑いがドッと上がるのとは裏腹に、マッシュの身体からは血の気が引いていく。
「あの噂、やっぱり本当なのか」
「だろうよ、でなきゃあんな子供が小国を維持できるはずがねぇ。上の連中は大体たらし込まれてたってよ。中将だって夕べ咥え込まれたんじゃねえか?」
「文字通りな」
 違ぇねえ、と笑った三人が恐らくは朝食を摂りに食堂へ立ち去る背中を、角から顔だけを出したマッシュが射殺さん勢いで睨み付けた。
 飛び出して殴りかかりたい衝動を必死で抑え込む。ここで騒ぎを起こすのは不味いということは分かるので思い留まったが、握り締めた拳が行き場をなくしてただ震えるのを見ているだけの自分に憤りを感じた。
 殴って黙らせるのは簡単だった。力で有無を言わせないことはできる。しかし兄を侮辱された事実は消えず、マッシュが暴れることで穏便に事を済ませるべく動いている兄の努力が無駄になる。
 しかし本質はそんなことではないのかもしれない。見下ろした自分の足までもが微かに震えていた。思いがけない話を聞いて明らかに動揺し、はっきり衝撃を受けた胸が握り潰されたかのように痛くてたまらない。彼らは何と言ったのか。
 マッシュが城を出た時、自分の無力さを恥じる程には子供だった。とは言え、あの時国を任せたエドガーもまた、今思えばマッシュと同じ年の子供ではなかったか。年若い彼が国を護るためには想像を絶する苦労が伴っただろう。その全てを彼らは愚弄した。
 許せないという気持ちは強いのに、怒りにやや勝る動揺がマッシュを更に戸惑わせる。彼らは何と言った? ──まるで兄が娼婦であるかのような口振りではなかったか?
 そんなはずがないと否定する心の隣で、空白の十年を怖れる自分が怯えている。兄は確かに美しかった、自分だってそういう目で見ていたではないか。そして国のためなら兄は手段を選ばないのでは? 盗賊に扮していたあの時のように。
 ガンガンと痛む頭の中で、否定の言葉を可能性が出し抜いて行こうとする。何度叩き潰しても「もしかしたら」が消えて行かない。いいやまさか、だけど、でも。
 自信を持って兄の名誉を守れるほどに、マッシュは離れている間の十年間を何も知りはしなかった。そして、真っ先に燃え上がった想いが怒りなどという純粋な気持ちではなく、濁った嫉妬心であることに心がたまらなく乱された。


 フラついた足で帰り着いた部屋で、マッシュが起こそうとしていたエドガーはすでにベッドを出て身支度を整えていた。明け方に眠ったとは思えないほど涼やかな表情で開いたドアを振り返ったエドガーは、マッシュを認めて柔らかく微笑む。
「遅いぞ。二時間過ぎてしまった」
「あ……、ご、ごめん」
「そんなに修行が捗ったか? ふふ、頼もしいなお前は」
 腰掛けていたベッドから優雅に立ち上がる仕草より、何気ないエドガーの言葉がマッシュの胸に突き刺さった。不自然に顔を強張らせたマッシュを不思議そうに眺め、エドガーは小首を傾げた。
「どうした? 俺の顔に何かついているか」
「い、いや……」
「起こすのが間に合わなかったことか? 気にするな、たまたまいいタイミングで目が覚めたんだ。腹が減ってるだろう、食事に行こう」
 マッシュの傍まで来たエドガーが宥めるように軽く肩を叩く。そして向けられる普段なら嫌味など微塵も感じない笑顔が、今のマッシュには素直に受け入れられなかった。
 マッシュの喉が小さく上下する。様子のおかしいマッシュに気づいたエドガーが瞬きをするのと、マッシュが口を開くのはほとんど同時だった。
「あの、さ……」
「……、何だ?」
「夕べ……、……」
 エドガーは相槌を打たずにじっとマッシュの次の言葉を待つ。
 目を泳がせたマッシュは、エドガーの真っ直ぐな視線を受け止められずに顔ごと逸らしてしまった。
「……、夕べ、ちゃんと飯、食ったのかなって……」
 エドガーは軽く目を細めて笑い、勿論とばかりに肩を竦めてみせる。
「酒場で幾つか摘んださ。とはいえ少々足りなかったかな。お陰で空腹だ。さ、早く食事に行こう」
「……ん」
 背中をやや強めに押されて足を縺れさせながら、マッシュは努めて浮かべた作り笑いでエドガーに続く。
 廊下に出てドアを閉め、やや離れた一人部屋のセリスの元へと向かい、少し意識してその場の会話を引き延ばして。
 それから忘れ物をしたと嘘をつき、二人を待たせて一度部屋に戻った。そうしてできる限り時間をかけて辿り着いた朝の食堂に、先程の三人の男達の姿は見当たらなかった。
 マッシュは心から安堵した。あの男達がどんな目でエドガーを見るか、想像するだけで気が触れそうなほど頭に血が昇るのだった。


 その夜の夕食はエドガーも一緒で、しかしあまり量は摂らずに済ませている様子を見て、セリスに勘繰られないようにするためだとマッシュはすぐに見当をつけた。
 思った通り、部屋に戻ったエドガーは外出の支度を始めた。目立たない服装に地味な髪留めをつける兄が再び「遅くなる」と告げたのを聞いた時、マッシュは黙っていることができなかった。
「……俺じゃダメなのか」
 首にスカーフを巻き終えたエドガーが振り向き、眉を寄せる。
 マッシュは口にしてから「誰にとって」自分ではダメなのか、我ながら曖昧な問いかけだと顔が熱くなるのを感じた。
「無茶を言うな。お前は彼から何を聞き出すべきかもよくは分かっていないだろう? こういう仕事は俺の役目だ。お前ではダメだよ」
 サラリと答えたエドガーに他意がないことは分かる、いやそう信じたいと唇の端を小さく噛んだマッシュは、何を言うべきかすぐには言葉が出て来ずに不自然な数秒の間を作った後、
「……気をつけろよ」
 それだけ呟くのが精一杯だった。
 エドガーは静かに微笑み、当然とばかりに頷いて軽く手を上げる。
 出発の合図を見せてマントを翻したエドガーの背中がドアの向こうに消えるのを見届けたマッシュは、乱雑に頭を掻き毟ってそのまま髪を握り締めた。
 ……一人だけで動くのは俺が頼りないから? 本当は俺なんかいなくても何でも一人でできてしまうから? ──俺ではダメだから?
 あの男と何を話す? 昨夜あんなに遅かったのは何故だ? 二晩続けて会う必要はあるのか? ……本当に話をしていただけ?
 頭の中がぐちゃぐちゃだ──ベッドに体重を丸ごと預けるようにぼすんと腰を下ろしたマッシュは、両手で項垂れた頭を抱えて暴れる思考を持て余す。



 *



 今夜も遅くなると前置きしたと言うことは、また部屋に戻るのは明け方近くになるのだろうか。進みの遅い時計の針を睨み、昨夜とは違ってベッドにすら入らずに腰掛けたまま時を過ごすマッシュの表情は暗く、身体を動かしていないため頭ばかりが余計な思考をフル回転させている。
 エドガーにとって自分とは何なのか──産まれた時から一緒だった双子の弟として、可愛がられて愛されてきた自覚は勿論ある。守られるだけの立場から、護りたい力になりたいと城を出た後も必死で心と身体を鍛えた、つもりだった。
 しかし現状はどうだろう、兄は何でも一人で成し遂げられて、この身が役立つのは戦闘の時くらい。戦いにしても剣術や槍術に長けているマシーナリーの兄は余程でない限り苦戦することもなく、守られっぱなしということはまるでない。
 自分ときたら、使えない身体を持て余すだけでなく品のない噂話にこんなにも心を乱される始末だ。兄を完全に信じ切っているのなら、あんな下衆の勘繰りなど一笑に付せるだろう。
 それができないのは、自分の中にも邪な想いがあるからだ。
 一番身近な人だった。幼い頃の淡い憧れだと思っていた。離れてからも想いは募り、再会して思い知らされた。自分ははっきり兄を欲している。
 自分の知らないところであの人が誰かのものになっていたとしたら? その可能性を今まで想像しなかった愚鈍な自分にも腹が立つが、あの髪に肌に触れた人間がいるかもしれないと思うととてもまともな思考ではいられなくなる。
 兄は今、果たしてただの会話による情報収集を行なっているだけだろうか?
 あの帝国兵が噂していたようなことが万が一あったとしたら?
 いや、今回だけではない──兄は人心掌握が上手い。話術が優れているだけではない、人を惹きつける魅力が兄には溢れている。
 あの見るからに荒くれ者ばかりだった盗賊の集団を、容易く束ねることができていたのは何故だ? いくら兄が強いとは言え、腕っ節だけで盗賊どもの言うことを聞かせるほどではないはずだ。
 国を守るために、地中に埋もれた城を救うために、そして今は魔導士を討つために、言葉通り身を捧げて来たのでは? これまでの兄が何をしてきたのか、想像が悍ましくエスカレートしていくのを止められない。
『お前ではダメだよ』
 別れ際のエドガーの言葉が蘇ったところで、マッシュは堪えきれずに立ち上がった。
 じっとしていてはいけない、本当に腐ってしまう──とにかく頭を一度空っぽにしなければと部屋をうろつき、ついでに便所で用を足して来ようとのろのろと部屋を出た。


 日付が変わって二時間ほどの深夜、他の客室からは物音ひとつ聞こえない廊下を静かに歩き、足取り重く便所から部屋へと戻るマッシュは廊下の角を曲がろうとして、その足を止めた。
 廊下の先を進む人影がひとつ、いやふたつ。重なって見えるその影は、一人がもう一人の肩を借りて支えられているからだと分かった。
 その支えている側の背中に揺れる長い金髪を見て、マッシュの顔が硬く強張る。足を止めるだけでなく壁に身を隠したマッシュは、大柄の男を引きずるように抱えて運ぶエドガーの背中を凝視しつつ、二人が角を曲がったところで足音を殺しながら距離を詰めた。
 再び角から息を潜めて様子を伺うと、さほど離れていない部屋のドアの前で二人は立ち止まっている。項垂れるように頭を下げていた男が緩慢な動きで頭を上げ、エドガーに何か合図をした。すると躊躇うことなくエドガーはノブを握り、ドアを開いた。
「ほら、しっかりしろ」
「……すまん」
 エドガーの呼びかけに掠れた低い声で答えた男は、そのままエドガーの肩を借りて部屋の中へと入って行った。二人が部屋に消えると扉はすぐに閉まり、そこからエドガーが出てくる気配はない。
 マッシュはフラつく足で扉の前までよろよろと歩み出て、青い顔を向けて突っ立った。数秒期待を込めて待った。酔った男を部屋に送り届けるだけならそろそろ出てきても良いものを、扉の傍から物音すら聞こえてこない。
 客室の扉はどれも薄いが、小声での会話が漏れ聞こえてくるほどではない。中で何か話をしているのか、酔っ払いの介抱に時間がかかっているのか、それとも他の何かがあるのか。
 この扉を開いて中に乗り込もうかと手を持ち上げかけるのだが、その行動でエドガーの昨夜からの働きを全て無にするようなことがあったとしたら。役に立たないだけでなく、存在が邪魔にすらなってしまえば、マッシュはこの先どう一緒に旅を続けて行けば良いのか分からなくなってしまう。
 しかしもしも中で恐れていることが起こっていたら? 考えるのも悍ましい妄想はマッシュから冷静な判断を奪って行く。このドアを開くか。やめるか。ただ立っているだけなのに額にびっしり汗を浮かべたマッシュは、噛み締めた奥歯から醜く軋んだ音が鳴るのが耳障りで顔を顰めた。