Jealousy




 傷口の汚れを拭き取った後、下着を身につけたエドガーが拾い上げたシャツは無残に破れていた。やれやれと肩を竦める様を、ベッドに腰掛けていたマッシュが申し訳なさそうに見つめる。
「本当に……ごめん……謝って済むことじゃないのは、分かってる……」
 項垂れるマッシュへ、やや眉を下げて微笑んだエドガーは、荷物から着替えを取り出しながら口を開いた。
「気にするな、とは言わんが。身体のことなら大丈夫だ、そんなにヤワじゃない……。いろいろと誤解があるようだから、ゆっくり話をしたいんだが」
 新しいシャツを羽織って窓を振り返るエドガーに釣られて、マッシュも顔を向けたカーテンの隙間からは陽の光が射していた。
 もう夜明けを迎えたのか、と呆けた顔で淡く射し込む光を眺めるマッシュに対し、手早く新しい服を身につけたエドガーはきびきびと灯りを消してカーテンを開け放つ。
 ほんのり白んだ空が室内を控えめに照らし、迎えたばかりの朝はマッシュの目には痛いほど眩しく映った。目を細めたマッシュの隣にゆっくりと腰を下ろしたエドガーは、すっかり乱れた髪を手櫛で整えて一纏めに握り、髪留めをつける。
 そうして振り返ったエドガーの涼やかな眼差しをまともに見ていられなくて、マッシュは顔を逸らしてまた頭を垂れた。
「……さて。何から話そうか」
 穏やかな吐息混じりにエドガーが呟く。マッシュは大きな背中を丸め、横目でチラリとエドガーを見た。
「ごめん……」
 謝罪ばかりを繰り返すマッシュを苦笑で振り返ったエドガーは、ほんの少し意地悪く眉を持ち上げて問いかけた。
「……調べてみて、分かったのか? 彼が俺に触れたかどうか」
 カッと顔を赤くしたマッシュは、唇を噛んで首を横に振った。エドガーは軽く頷き、だろうな、と呟く。
「お前が想像したようなことは何もしていない。酒場で話して、酔った彼を部屋まで送り届けてその後も少し話をした、それだけだ」
「……でも、それならなんで、髪を解いて……」
 不服そうに口を挟んだマッシュが顔を上げると、待ち構えていたかのようなエドガーの微笑みがそこにあった。思わず視線を泳がせかけたマッシュは、しかし何処か悲しそうなエドガーの瞳から目を離せなくなった。
「……ベクタに恋人を残していたそうだ。幻獣の攻撃で首都が壊滅状態になった上、世界崩壊の混乱で行方知れずらしい。……背中に届く長い金髪の持ち主だと」
 マッシュはハッとして口を開ける。
「俺は面影を貸して懺悔を聞いていただけだ。こんな時代だ、誰だって何でもいいから縋りたくなる……」
 呆然と話を聞いていたマッシュは、いやしかしと首を振った。
「じゃ、じゃあ何で、俺が聞いた時に「そうだ」って言ったんだよ!」
「そうだ、とは言ってない。そうだと俺が答えたら、お前はどう思うのか聞いたんだ」
「なら、何で黙って俺のを……!」
「お前、俺の説明を聞くどころじゃなかっただろう。あの時のお前の顔を見たら何を言っても無駄だと思った」
「そ、んな……」
 エドガーは垂れた前髪を乱雑に掻き上げ、自嘲気味に口元を歪めて目を細めた。何処か遠くを見るような目だった。
「……即位直後に散々周りが詮索していたのは知っているさ。「そう」だと思い込んで誘ってきた下衆もいた。否定するのも馬鹿馬鹿しいと思って放っておいたのを、さっきは心底後悔したよ。お前までが真に受けるとはな……」
 ハッと鼻で笑ったエドガーの目が淋しげに揺れたのを見過ごせなかったマッシュは、小刻みに震わせた唇を恐る恐る開いた。
「そ、それじゃあ……」
「俺はこれまで男に抱かれたことなど一度もない。帝国の人間にも、勿論さっきのあの男にも、な」
「……一度も?」
「お前が初めてだ」
 ぐらりと眩暈で視界が揺れ、マッシュは右手で頭を押さえる。やがて両手で頭を抱えたマッシュは、エドガーを信じ切れなかった自分を恥じた。
「兄貴……、俺を、俺を殴ってくれ」
「……マッシュ」
「いや、殴るだけじゃ足りない……、俺を、殺してくれ……!」
 マッシュの言葉にエドガーが眉を顰める。
「俺、兄貴の役に立ちたくてずっとずっと修行して来たのに、兄貴は俺の力なんかなくても一人で何だって出来て……、城が浮上できなくなった時も、今回も……俺は敵をぶっ飛ばすくらいしか脳がねぇし、もし即位したのが俺だったらフィガロなんてとっくに潰されてた……」
 エドガーが何か言おうと口を開きかけたのを、マッシュが大きくかぶりを振って遮った。
「おまけにあんな無茶苦茶なことして……俺にはもう兄貴を護る資格なんか……!」
「マッシュ」
 膝に温もりを感じてマッシュが僅かに顔を向けると、エドガーがマッシュの脚に触れながら慈しむような眼差しは真っ直ぐに、小さく首を横に振っていた。
「お前には分からないかもしれないが。お前の存在がどれだけ俺の助けになり、救いになっているか……俺がどれだけお前を頼りにしているか、言葉で表すのは難しいくらいだ」
「でも俺、何も、」
「俺だって人間だ……迷ったり悩んだり、立ち止まりたい時だってある。お前の真っ直ぐな目、朗らかな笑顔……離れている間も、こうして出逢えた後も……俺を支えていたのは、いつだって……マッシュ、お前の存在だったよ」
 告げた後に微かに笑みを見せたエドガーは、それから少しだけ照れ臭そうに目を伏せて、軽く尖らせた唇でぼそりと呟く。
「それにな。いくら力で敵わないとは言え、意に沿わない相手に黙って好き勝手させるほど俺は大人しくはないぞ」
 どきんとマッシュの胸が音を立てた。
 緩やかに下方に向けて右、左と彷徨ったエドガーの青い目が、意を決したようにマッシュに向けられる。その心の奥まで見透かすような強い視線にマッシュは怯み、息を呑んだ。
「お前が俺を抱いたのは何故だ。ただの肉欲か。……それとも」
 きっぱりした眼差しでありながら、その奥に微かな怖れがチラチラと顔を覗かせている。
 覚悟を決めただろうエドガーもまた不安があるのだと気付いたマッシュは、怖気付いていた心を奮い立たせ、改めて自分のしたことを恥じながらくしゃくしゃの顔で向き合った。
「……大切にしたかったんだ。子供の頃からずっと……兄貴は俺の一番で、憧れで、兄貴のために強くなりたかった……。傷つけるための力が欲しかったんじゃない。なのに」
 一度大きく息を吸い込むと、その呼吸が震えているのが胸の動きでよく分かった。目を逸らさずに聞いてくれているエドガーのために、マッシュはぎこちなくも言葉を紡ぐ。
「他の誰かが兄貴に触れたかもしれないって思ったら、頭に血が昇っちまった……。めちゃくちゃ悔しくて、あんなに大切だったのに、俺がめちゃくちゃにしちまった。大切なんだよ。誰よりも、……今だって……」
 絞り出した声で辿々しく伝えた言葉をエドガーがどう受け取るのか、怯えて上目遣いになったマッシュに対し、エドガーはゆっくりと口角を上げて泣き出しそうに眉を下げながら、安堵に溢れた笑みを浮かべた。
「……それを先に言え」
 掠れた小声ではあったが、責めるのではなく何処か嬉しそうな声色で囁いたエドガーは、隣のマッシュに身体ごと凭れて肩に頭を擦り寄せた。
 少し前に乱暴に掻き抱いた身体を預けてくれたことに胸を詰まらせ、マッシュは躊躇いながらも伸ばした腕で背中を抱いた。
 嫌がる素振りもなく、更に身を寄せてきたエドガーが自分を受け入れてくれたことをようやく信じることができたマッシュは、もう片方の腕も伸ばして今度こそ愛しさを込めて、胸の中にエドガーを包み込んだ。



 *



「……つまり生き残った帝国兵を束ねる存在は今はいない。彼らはそれぞれが日々を生きることに精一杯で、帝国の再建を扇動できる立場の人間はほぼ、魔大陸と運命を共にしたようだ」
「……そう……」
 宿にて夕食を終え、エドガーとマッシュが使っている部屋に呼ばれたセリスは、ここ二日でエドガーが得た調査結果を聞いて神妙な顔つきになり、言葉少なに目を伏せた。
「帝国に限らず各地で焼け出された人々が住処を求めている。戦況が落ち着いたら難民が溢れることになるだろう……これ以上同じ立場の者を増やす訳にはいかない」
 きっぱりと結んだエドガーにマッシュとセリスは強く頷き、改めて旅の目的を果たすために力を尽くすことを誓い合う。
 立ち上がったセリスは、じっとしていられないといった様子で二人を急かした。
「のんびりしていられないわ。早く他の仲間を探しに行きましょう! ケフカを倒すにはみんなの力が必要よ」
 その言葉に不敵な笑みを見せたエドガーは、軽く眉を上げて「最後にとっておきの情報がある」と焦らすように持ちかけた。
「この町の酒場に、週に一度男がやって来るそうだ。誰とも話さないらしく名前は分からないが、長い銀髪で顔には目立つ傷跡が幾つもあるらしい」
「それって……」
「セッツァー!」
 セリスとマッシュが声を弾ませるのを機嫌よく受け止めたエドガーは、軽やかにウィンクをして二人に提案する。
「最後に現れてからそろそろ一週間経つようだ。恐らく明日辺り、賭ける価値はあると思うんだが──どうする?」


 おやすみと挨拶を交わして自分の部屋へと戻るセリスを見送り、閉じた扉の内側でマッシュは小さく息をついた。
「どうした。溜息なんかついて」
 目敏く背中にかかる声にぎくりと身を竦ませつつ、バツが悪そうに振り返ったマッシュは眉を垂らす。視線の先ではベッドに腰掛けたエドガーが、寝支度を始めようと髪を編み直していた。
「……あんまり、この部屋に長くいたくないなって」
 緩く編まれた長い髪が綺麗だと見惚れつつ、そうと気取られないようにマッシュは目を逸らす。視界の端ではエドガーが首を傾げているのが見て取れた。
「滞在が延びたのが不服なのか」
「……だって、悪い思い出作っちまったから」
 昨夜無理矢理エドガーを組み敷いた映像が脳裏にチラつく。この部屋で乱暴した事実は消えず、胸にしこりとなって残るのかと思うと、マッシュは早くここから逃げ出したい気分になっていた。
 エドガーの返事がないことに不安を覚え、マッシュがチラリと目を向けると、薄っすら微笑んだエドガーが黙って自分の隣の空間に手を置き、マッシュを誘うようにポンポンと叩いていた。
 一瞬戸惑ったが、それでも示されるまま近づいたマッシュが隣に腰を下ろすと、エドガーが耳に顔を寄せて「じゃあ、やり直そう」と囁いた。
 驚いて目を丸くするマッシュの横で、仄かに頬を染めたエドガーがいじけるように唇を尖らせる。
「お前、昨日キスもしてくれなかっただろう」
「えっ……、そ、そう、……かも」
 昨夜はただ無我夢中で、エドガーを手中にしたいという思いのみで動いていた──嫌な記憶を掘り起こし、またも自己嫌悪に陥りかけたマッシュの腕を引っ張って、エドガーにしては珍しく甘えるような声で文句を言う。
「キスひとつしないから、本気で身体目当てなのかと思ったぞ」
「そ、そんなことは……!」
「だから、やり直そう? マッシュ。今度は、ちゃんと……愛してくれ」
 微かに眉根を寄せた上目遣いの瞳は、いじらしくマッシュを見上げて震えていた。
 ごくりと喉を鳴らしたマッシュは、余裕なく強張らせた表情で頷き、ぎこちなくエドガーの肩を掴んで顔を近付ける。

 今度こそ、愛を込めて──後悔に塗れた景色を塗り潰さんと、マッシュは鍛えた両の腕で焦れったいほど優しくエドガーを抱き締めた。