奇蹟 1




 机上にはずらりと並んだ小さな肖像画が数枚、どれも淡い色彩で着飾った女性が描かれている。それらと対峙し椅子に腰掛けているエドガーを囲むように、城の重役が三人、表向きだけはにこやかに先程から同じ言葉を何度となく繰り返していた。
「ですから、まずはお逢いになるだけでも。どの方も血筋の確かな評判のお嬢様ばかりです。肖像画では本来の美しさは分かりますまい、是非一度お逢いになって」
「確かに麗しいご婦人ばかりのようだ。御目通りしたいのは山々だが、残念なことにこれでも忙しくてね……倒壊した家屋の復旧や帰る国を亡くした移民たちへの対応、不明者の捜索に失われた交通手段の確保。キリがない。貴方方はご存知ないようだが」
 微笑んだ表情とは裏腹に刺々しく早口で答えたエドガーは、じろりと三人を順に睨め付けた。多少のことでは怯まない古狸たちを前に遠慮は無用と判断し、わざとらしく時計を何度も見ながら相手をしているのだが、彼らの図太さを焦らせるほどではないのが口惜しい。
「問題が山積みなのは百も承知です。しかし世界崩壊後に一年も国王不在で持ち堪えたこの国には優秀な臣下が揃っておりますぞ。陛下に多少のお時間をお作りすることなど造作もありますまい」
 エドガーの眉が僅かに寄せられた。暗に城を長く空けたことを追加で責められ、やりにくくなったと気づかれないよう小さく唇を噛む。
「どの女性も素晴らしい方ですよ。品も教養もあって王妃となるに相応しい。陛下もきっと気に入る方がいらっしゃるはずです」
「それともすでに御心に決められた方がおありか。であればその方を妃にお迎えください。エドガー様が選ばれた方なら間違いはなかろう」
「いや回りくどいことは言いますまい。要するにお子を成していただければ良いのです。この際身分はこだわりません、お気に召したのなら城下の町娘でもどなたでも宜しい。フィガロの血統を残していただかねば」
 口々に喚き立てる老人たちを前にはっきりとエドガーは溜息をつき、広げられた肖像画をやや乱暴に掻き集めてひとまとめにして、トンと底辺を卓上で揃えた。
「言いたいことは分かった。しかし先に伝えたように、こう見えて私は忙しい身だ。今も大切な公務を果たすために協力を頼んだ友人を待たせている。話はまた次の機会に聞こう」
「陛下」
「帰城は二日後だ、それまでその話は優秀な臣下たちにでも聞かせてやってくれ」
 有無を言わせず立ち上がり、三人の包囲網を強引に突破すべく肩を怒らせて足を進めた。エドガーは再び時計に視線を寄越し、ポーズなどではなく本当に時間が押していることを悔やんでドアへと向かう。
 背中にかかる声が灯りに集る虫のようだと、払い除けるようにマントを翻して執務室を出た。


 応接間にて、迫る出発時刻に対しマッシュとセッツァーの表情に若干の焦りが見え始めた頃。
 待ち侘びたドアの開く音に同時に振り返った二人の目に映る、眉間の皺を隠そうともせずに疲れた表情そのままで現れたエドガーは、渋い表情でまず詫びを告げる。
「遅くなった。すまない」
「いいけどよ……、大丈夫か、お前」
 セッツァーの問いかけにエドガーはなんて事ないと首を横に振り、マッシュに目配せして準備の完了を確認した後、顔を引き締めて背筋を伸ばした。
「では、行こうか。瓦礫の塔へ」




 一ヶ月ぶりのファルコンの甲板にて地上を見下ろすエドガーの隣に並んだセッツァーは、物憂げに瞼を伏せるエドガーに対して揶揄うように声をかけた。
「苦労してんなあ、王様」
「労わりの言葉には聞こえないね」
 振り向きもせず答えたエドガーにハッと短く笑ったセッツァーは、縁に腕を置き隣のエドガーの顔を覗き込む。
「連日見合いの話持って来られてるんだって? マッシュから聞いたぜ」
「三十路も近いからな。うるさ方が早く世継ぎを見せろとさ」
「作りゃいいじゃねえか、それくらい」
「生憎私は自分の子供に、君の母親を世界一愛していると言えない父親にはなりたくないのでね」
 淡々と告げたエドガーに対し意外そうに目を見開いたセッツァーが、ちらりと甲板の先端近くで倒立しているマッシュに意味深な視線を向ける。
「……んなこと言ってもどうしようもねえだろが。今や世界のリーダーになっちまったお前が子孫も残さずジジイになる気かよ」
「別に血は重要じゃない」
「周りはそうは思わねえだろ」
「……君まで城の爺やたちと同じようなことを言うんだな」
 ボソリと呟いた言葉を拾えなかったのか、聞き返すように眉を寄せ首を傾げたセッツァーに向かってエドガーは軽く肩を竦めた。
「……まあ、どうにかするさ。──見えて来たぞ、セッツァー。離陸の準備をしなくていいのか?」
「おっと」
 縁から腕を離したセッツァーが操舵に向かうのを見定めて、エドガーは僅かに首の角度を変えて黙々とトレーニングに励むマッシュの姿に視線を投げた。そして苦々しく眉を寄せる。
 ──仕方がないではないか。 心に決めた相手はそこにいる。最早この心は動きようがなく、自分も愛した相手も男であることが覆るはずもない。
 妻を娶れ、血筋を絶やすなと煩く騒がれることが城に戻ってからもうずっと続いていた。先の闘いで王が自ら前線に立ったことが余程気に食わなかったのか、父の代から居座る重鎮たちは寿命が縮んだ、老い先短い老人たちを安心させろとフィガロ王政の行く先を案じているようなことを口々に捲したてる。
 父王が母を見初めたのは修道院だった。孤児の母クリステールに一目惚れしたという父ステュアートが王妃としてクリステールを迎えると言い出した当時、恐らく城では反対の声が上がっただろう。結果的に父が愛を貫いたお陰で、現国王であるエドガーがどんな身分の女性でも構わないからとりあえず子を作れ、などという暴論に悩まされることになるとは考えもしなかったに違いない。
 この秩序の乱れた世界の中、血に縛られ過ぎては国家として永く存続させることが難しくなってくる。しかし二百年続いたフィガロ王家の政治を簡単に終わらせることはできない。気の遠くなるような準備が必要になる──エドガー自身、何が国にとって最善であるか測りかねている状態だった。
 自分の代でどこまでやれるのか。準備が追いつかず、王政を踏襲せざるを得ないだろうか。では世継ぎをどうするか。考え込むと頭も胃にも不快な痛みが襲ってくる。
 せめてこの身が子を成す身体であれば、近親の業くらいは受け入れて罪を犯しただろうか──マッシュを見つめながらそんなことをぼんやり考え、馬鹿なことを半笑いで目を閉じる。
 溜息は風に掻き消された。



 降り立ったそこは元瓦礫の塔と呼ぶべきか、かつて聳えた塔の頂上に君臨した魔導師を打ち破った後は、完全にただの廃物の山と化していた。
 跡地の調査と称してセッツァーに飛空艇の準備を依頼し、決戦より一ヶ月経った今この地に訪れた真の理由は、他でもないシャドウの安否の確認のためだった。
 闘いが終わった当時、シャドウが不在であることに気づいてから飛空艇を塔に戻そうと試みたが、崩壊に巻き込まれる危険が大きく諦めざるを得なかった。
 すぐに調査の手を向ける予定があらゆる事後処理に追われてエドガー自ら動くことは難しく、ようやく時間の都合をつけた今、あれからすでに一ヶ月もの時が経過していたのだった。
 残骸がバラバラに積み上がったその地は埃臭く靄がかかり、たくさんの魔物が葬られたせいか空気が澱んで息苦しさを感じる。エドガー、マッシュ、セッツァーは同行したフィガロ兵と共に辺りを隈なく捜索したが、いなくなったシャドウの手がかりになるようなものは見つからない。
 数時間が経ち、成果がないままの状態が続くことに苛立ちを感じたエドガーが潮時を悟り始めた時、ふと瓦礫の奥に鈍く光るものを見たような気がして眉を顰めた。
 手にしていた槍で邪魔な金屑を掻き分けると、開けた空間に淡く光るガラスの欠片のようなものが現れた。エドガーはその見覚えのある虹色の光に目を見開き、まさかと手を伸ばす。──これは魔石の欠片。まだ光が残っている──
 手にした石はエドガーの手のひらで鈍く輝き、ぱっと一瞬眩く光った。

 ……ああ、ありがとう。邪悪な空気に囲まれて空に還れなかった……

 エドガーの頭の中に男とも女ともつかない声が響く。声の出所を探すが、周囲に人がいる訳ではない。エドガーはもう一度まじまじと魔石の欠片を見つめた。

 ……これで仲間のところに……お礼に……最後の力で……貴方の望みを……

 光が大きく輝いた瞬間、砂の粒ほどに細かく砕けた欠片はさらさらと風に流れて、空に吸い込まれるように掻き消えた。
 エドガーは手のひらを差し出したまま呆然と何もない空間を眺める。
 今のは、一体。全て消えたはずの魔石が、微かな魔力がまだ残っていたとは。
 慌てて辺りをくまなく探すが他にそれらしいものは見当たらず、やはり今のが本当に最後の魔石の欠片だったのだろうかと表情に影を落とす。
 この世界から魔法は完全に消え、求める仲間の姿も見つからず、ここまで来て収穫は何一つ得られなかった──エドガーは一度瞼を閉じて深く息を吐き心を鎮めてから、顔を上げて撤退の号令を出した。




 汗の滲む背中に縋るように腕を回して、まるで逃がさないとでも言いたげにきつく抱き締めた体は熱く、胸と胸をぴたりと合わせて心臓を打ち合えば、まるで本当にひとつになってしまう気がして。
 エドガーは体を貫くマッシュのものがもっと自分の奥に入るよう、腰を浮かせて両脚をマッシュの下半身に絡みつけた。
 マッシュが小さく呻く。その色づいた低い吐息にエドガーの体はぞくぞくと震え、金色の頭を掻き抱いて乾いた唇を吸う。マッシュの舌が応え、半開きのエドガーの口内で上下に並ぶ歯列の間に潜り込み、奥に隠れていた舌を誘って探りながら絡め合った。
 マッシュはそのままエドガーの背の下に手を差し入れて上半身を抱き起こし、自分の胸に凭れさせた。繋がった部分がより深く打ち込まれ、悩ましげに眉を寄せたエドガーが仰け反らせた喉にマッシュの歯が立てられる。
「ああっ……」
 下から突き上げられ体ごと揺さぶられてエドガーは喘ぎ、漏れ出る声を抑えられない開きっぱなしの口から何とか呼吸を取り込もうと、空気を噛むようにがくがくと顎を震わせた。リボンごとエドガーの後頭部を掴んだマッシュに引き寄せられ、エドガーはマッシュの首に齧り付くように腕を回して快楽の波がピークにあることを悲鳴じみた嬌声で訴える。
「も、ダメ、だ、あっ……ああ──」
 精を吐き出した刺激で不規則に痙攣する身体をマッシュに任せ、がくりと頭を垂れたエドガーは自分の中にもまた熱い精が注ぎ込まれるのを感じて、逆上せたような目をどろりと蕩かせて荒い呼吸が落ち着くまで余韻に浸った。
 やがてのろのろと頭を上げ、マッシュの鼻先に自分の鼻を擦り寄せると、マッシュが優しい口付けをくれる。ちゅ、ちゅ、と音を立てながらお互いの唇を食んで、緩く抱き合ったままマッシュの体が後ろに倒れ、二人はベッドに転がった。
 マッシュの汗ばんだ胸に頬を乗せて目を閉じると、大きな手がエドガーの髪を優しく撫でる。その暖かさに少しうとうととしかけた時、ふとマッシュがぽつりと口にした。
「今日……何か、あった?」
 エドガーがぱちりと目を開く。少し気まずげに目を泳がせたが、マッシュの角度からは表情は見えていないはずと知らぬフリで振る舞った。
「……何故?」
「様子が、変だから」
 直球を投げてくるマッシュの「らしさ」に微かに苦笑したエドガーは、少し意地の悪い気分になって顔を上げずに尋ねてみた。
「お前。……俺が結婚するって言ったらどうする」
 一瞬の間があり、それはとても短い時間であったにもかかわらず、エドガーが自分の愚かな問いかけを深く後悔するほどには長く感じる時間だった。
 思わず何か取り繕うためごまかす言葉を挟もうとしたその前に、マッシュが静かな、穏やかな声で呟く。
「……兄貴は、俺に何て言って欲しい?」
 エドガーは頬が熱くなるのを感じた。この優しい弟は何があっても自分を責めることはない。その優しさにつけ込んで卑怯な質問をしたのは自分だ。
「俺は全部、受け入れるよ」
「マッシュ」
「兄貴が決めたことなら全部」
「……マッシュ。今のは狡い言い方だった……すまん」
 マッシュの胸に頬を擦り付けて話を遮り、そのまま腕を伸ばしてしがみつけば、呆気ないほど簡単にマッシュがエドガーを抱き返して、欲しかった温もりを与えてくれる。
 愛する人の心はここにあるのに、それだけでうまくいかないのは何故なのか。
 言葉の通り、マッシュはもしエドガーが妻を娶ると言っても反対することなく黙って受け入れてしまうのだろう。そして妃となる女性と産まれてくる子供のためにエドガーに触れることはなくなるだろう。それでも静かに自分を愛し続ける弟の姿が容易に想像できてエドガーは唇を噛む。
 煩わしい悩み事など捨て去ってしまえるものなら楽だろうに、それができない自分は結局、命を懸けて愛するこの男のためですら全てを投げ打つことができないのだと、出口の見えない迷路の道端でまた座り込む。




 ***




 瓦礫の塔に訪れて二週間ほど経った頃から、エドガーは昼夜問わず強烈な眠気に襲われることが増えた。
 疲労のせいかと夜間の睡眠をしっかり確保してもなお睡魔は手を緩めず、会議中に何度か船を漕いで大臣に突かれることも一度や二度ではなくなった。
 加えて体が熱っぽく感じ、どこがと指定はできないものの何となく全身が怠い。いよいよ旅の終わりから続いていた激務のツケが来ただろうかと、その時はまだそれ程気に留めることはなかった。

 さらなる異変が起きたのはそれからもう二週間ほど経ってからだった。



 洗面台で嘔吐したエドガーが肩で息をする間、心配そうにずっと背中を撫でていたマッシュがここしばらく体調不良が続く兄を心配そうに覗き込む。
「……兄貴……大丈夫か……?」
 マッシュの問いに答える余裕すらないエドガーは口元を手のひらで覆い、口内に残る吐瀉物の不快さに顔を顰めながら、洗面台の縁に体重を預けて頭を垂れる。胃の中のものは吐き切ったはずだが胃が捻れるような苦痛は減らなかった。
 少し前から体の不調は増えるばかりで治る気配もない。何人かの医師に見せたが、どこも悪くない、病の原因は分からないと揃って首を傾げる。
 では何故公務も儘ならないほど嘔吐が続くのか。熱っぽく重だるい身体に力が入らないのか。ふいに起こる目眩や立ち眩みで血の気が引くのか。
 今やエドガーがどこに行くにもマッシュがぴたりと傍を付いて回り、兄の体調を気遣うのが常となった。エドガーもまたマッシュの助けがなければまともな生活ができなくなりつつあった。