奇蹟 2




 フードを被って身を隠したエドガーを抱き抱えてチョコボを駆った数時間、何度も途中で降りて何も入っていない胃の中のものを吐くエドガーを支えながらようやく到着したサウスフィガロで、マッシュは人目を避けながらある一軒の家の戸をノックした。
 中から現れた老人が戸口に立つマッシュとそのマッシュの腕の中でぐったりしているエドガーを認めて大いに驚き、二人を中へと招いてくれた。
 老人はマッシュが幼少時の専属医として城に常駐した医師で、今はその職を引退しサウスフィガロの片隅でひっそりと町医者を営む生活をしていた。マッシュはもちろんエドガーの体調もよく診ていたこの医師ならば信頼できると、マッシュは頭を下げる。
「ご無沙汰しています。お元気そうで良かった、先生」
「これは驚きました……マシアス様、ご立派になられて……、そちらはエドガー様……? お加減でも悪くなされたか」
「それが……」
 兄をソファに横たわらせ、マッシュは老医師にここ最近の兄の体調について説明を始めた。すでに城の医師たちには何度も診せたがこうなった原因が分からないことを付け加え、どうかエドガーの力になってほしいと懇願する。
 老医師は首を捻り、確かに苦しそうにしているエドガーを眺めて難しい顔つきになった。
「他の医者が原因が分からないと言っているのが気になりますが……まずは診察してみましょう」
「お願いします、先生」
 その時、キッチンから老医師の妻が二人を持て成そうと盆に飲み物や料理を乗せて現れた。ふわりと漂う食欲をそそる匂いに、エドガーのみが顔を顰めて鼻と口を手で覆う。兄の異変を察したマッシュが寄り添うと、エドガーは小さな声で辛そうに零した。
「申し訳ない……その、においが……」
 老医師が眉を寄せる。妻に料理を下げるよう指示し、とにかく一度診察をとマッシュに目配せしてエドガーを診察室に促した。


 診察の間部屋の外に出されていたマッシュは、エドガーの容態が心配で落ち着きなく時間を過ごす。気遣ってくれる老医師の妻に申し訳なく微笑みながらも、心中は不安でいっぱいだった。
 医者として確かな腕を持ちながらも、マッシュが城を出た時に職を辞した老医師。彼ですら兄の不調の原因を掴めないのなら、もう打つ手がなくなってしまう。
 あんなに連日吐いてまともに体を起こすことすら難しくなっているのに、悪いところがないはずがない。その理由が見つからないのは何故なのか──焦りは募るが医者ではないマッシュにはどうすることもできなかった。
「──……!」
 診察室のドアからエドガーの声が漏れ、マッシュは弾かれるように頭を上げた。何と言っているかまでは分からなかったが、戸惑うような兄の声が確かに聞こえた。
 何か問題でも見つかったのだろうか。それは治るものなのだろうか。もし、万が一のことがあれば自分は一体どうすればいいのか。
 永遠にも感じる長い時間を耐え、ようやく目の前で開いた診察室のドアの向こうに現れた老医師の表情は厳しく浮かないもので、不安に取り憑かれたままのマッシュは招かれた扉の向こうへ震える足で踏み込んでいった。



「今……何て」
 震える唇からやっとのことで絞り出したマッシュの問いに、老医師は苦々しく呟いた。
「間違いございません。……ご懐妊なさっておられます」
 途端、すっと身体の血が抜けたように椅子に腰掛けたエドガーの上半身が大きく倒れ、横に控えていたマッシュが咄嗟に支える。マッシュは掴んだエドガーの肩が小刻みに震えていることに気づき、その頭を胸で支えて大きな手で庇うように抱いた。
「先生……それ、間違いないって……、え? 待ってくれ、だって兄貴は」
 半ば意識を失ったようになっているエドガーの代わりにマッシュが尋ねると、医師は難しい顔をしたまま首を横に振って答える。
「エドガー様のお身体は確かに男性です。しかし通常の男性にはあり得ないことが起こっております。……先程無礼を承知で確認させていただきました。すでに三ヶ月頃の状態かと」
「さ、三ヶ月って……え? え? 懐妊? ほ、……本当に?」
 マッシュは動揺を隠せず、整理しきれない頭を空いた手で乱暴に掻き毟りながら忙しなく瞬きを繰り返す。
 一方、マッシュの慌てる声をぼんやりと聞いていたエドガーは、現実から目を逸らさんと瞼を閉じていた。
 ──まさか、……まさか。これは長い夢の途中で、目覚めれば何事もなかったかのように元の生活が待っているのではないか。
 産まれた時から自分が男であることは間違いがない。どこにも女性じみたところはなく、機能も男性として不足はなかったはずだ。
 それが何がどうして、医師の言う「あり得ないこと」が起こったのか──そもそもこの不調が起こったのはいつからだったか。
 二ヶ月ほど前は特に異変はなかったはずだ。あの頃は眠気も熱っぽさも感じることもなく、自らセッツァーの飛空艇に乗って瓦礫の塔の跡地にまで出向いたのだから──エドガーはまた込み上げる吐き気を堪えながら、ふいに瓦礫の塔で頭に流れ込んできた不思議な声を思い出した。

 ──貴方の望みを叶えましょう──

 エドガーが目を開く。
 あの時、確かに声の主はそう言ったように聞こえた。
 望みを叶えると。あの悪しき空間から魔石を解放した、たったそれだけのことでありがとうと礼を囁いた虹色の欠片。
 ──まさか。自分の望みとは……

 がくがくと不自然に身体を震わせたエドガーの異変に気付いたのか、マッシュが顔を覗き込んでくる。恐らくは指先と同じくらい青白いのだろう。
「兄貴、大丈夫か」
 焦燥が募るマッシュの目を見ると言葉が詰まる。しかし、もしも今考えたことが当たりであるなら、マッシュにも大いに関係がある。
 あの日の夜、確かにエドガーはマッシュに抱かれたのだ。
「……マッシュ……、……もしか、したら……」

 そこでエドガーは初めて、マッシュと老医師に瓦礫の塔で見た不思議な魔石の欠片の話を伝えたのだった。
 



 ***




 起きてから何度目か分からない嘔吐で痛む喉に顔を顰め、エドガーはソファの上で身を捩る。
 少しでも復調すればすぐ机に向かえるように、私室ではなく執務室で横になってはいるのだが、胃の不快感はやり過ごそうと思ってもなくなる気配が全くない。
 老医師の診察を受けてから数日が過ぎていた。未だに自分の身体に起こっている現実が受け止めきれず、実感も当然ない。あるのはこのどうにもならない吐き気と身体の怠さのみ。
 酒に呑まれた時と違い、吐いても吐いても楽にはならない。胃の中のものを吐き切ってしまえば後は胃液しか出せず、酸が喉を焼くのかもうずっと喉の痛みも続いていた。
 仕事をしなければと気力を呼び起こすのだが、身体を起こすのもやっとの状態で何ができるとマッシュに怒られてしまった。そのマッシュは今エドガーの代わりに会議に参加してくれているのだが、マッシュのいない空間がこんなにも心細く感じるのは初めてのことだった。
 ──これは妊娠による悪阻だと聞かされても納得できるはずがない。この身体は間違いなく男である。マッシュを受け入れはしていたが、子を身籠もるなど考えたこともなかった。
 確かに世継ぎがいればと安易に考えた瞬間はあった。それも適当に選んだ女性相手ではなく、マッシュの存在を思い描いたのも事実だ。
 それが叶ってしまうなどと誰が予想するだろうか? 浅はかに思考を放った自分が悪いのか。目先の問題に向き合わずマッシュとの情事に耽った自分が愚かだったのか。
 こうしている間にも腹の中で子は育っている。自分の中にもう一人、新たな命が存在している──それはエドガーにとって想像することが困難な、ただ漠然と恐ろしく受け入れ難い事実だった。
 この子供が成長し続けたら、一体どうすればいいのか。考えようにもまた胃の中を掻き回されるような吐き気が訪れて、エドガーはやっとの思いで嘔吐のために身体を起こすのだった。



 *



 日に日に衰弱していくエドガーの横に常に寄り添うマッシュだったが、できることと言えば吐いたものの処理や嘔吐中に背中をさすることくらいで、何もできない自分に苛立ちを感じ始めていた。
 エドガーは食べ物はおろか、水を口に含むだけでも吐き気を呼ぶようで、丸一日かけてコップ一杯の水も飲み切れない日々が続いた。美しかったブロンドから艶が消え、頬が薄っすら痩けて来たというのに、老医師は出せる薬はないと申し訳なさそうに繰り返すのみだった。
 とてもまともな生活ができる状態ではないのに、エドガーは滞っている公務の心配をして傍に仕えるマッシュに気遣いばかりする。今も胃液を吐くのに準備が間に合わず、衣服を汚したエドガーがマッシュを押し退けようとしていた。
「……汚れるぞ……」
「構うな」
 離れようとするふらふらの体を無理に抱き寄せ、背中を何度も撫でる。ほんの少し楽そうな顔になるエドガーが、浅い呼吸のまま目を閉じて意識を飛ばそうとしているのが分かり、マッシュはエドガーの体に無理がかからないよう体勢を変えて受け止めてやった。
 こんなことくらいしかできない自分がもどかしかった。──エドガーをこんな体にしたのは自分だと言うのに。
 老医師の元を訪ねたあの日、マッシュは兄の身体がこうなったかもしれない原因の出来事を初めて耳にし、その不思議な内容の真偽はともかく、エドガーが世継ぎについてそこまで頭を悩ませていたのかと改めて思い知りショックを受けた。
 重役たちから口うるさく言われているのは知っていた。魔導師を討つためのあの長い旅の間、エドガーが何度も死の危険を掻い潜ってきたことは城中に伝わっている。無茶をする国王にもしもの事がある前にと、城の人間も平和になった今がチャンスとばかりに圧力をかけたのだろう。
 しかしエドガーには自分がいる。国のことを考えるならそろそろそれなりの血筋の妃を迎えるのが筋なのだろうが、エドガーはそれを躱し続けていた。その都度何も言わずにマッシュに身体を預けるものだから、マッシュもまた何も言わずにエドガーを抱き止めていたのだ。
 それがこんなことになるなんて。もっと早くこれからのことについてエドガーと話し合っていれば、兄をここまで追い詰めることはなかったのでは? マッシュは唇を噛む。
 だって、もしも──エドガーの腹に宿ったという命が、男女と同様に愛の営みでできたというのなら、──それは自分の子供ではないか。
 責任の半分が自分にあるというのに苦しんでいるのがエドガーばかりという現実に、マッシュはどうしても自分を許すことができなかった。



 *



 一日を横になって過ごすことが多くなった。身体の不調がなくなることはなく、エドガーはほとんど仕事どころではなくなって私室から出ることも叶わなくなった。
 時折サウスフィガロから老医師が様子を見に赴いてくれるが、悪阻に効く薬などはなく彼の力でもこの嘔吐を止めることはできないと繰り返される。
 ただ、子供だけは順調とのことだった。その、目には見えないが確かな存在がエドガーを更に追い詰めていく。
 口煩い爺やたちがもっと高明の医師を呼ぶべきだと何度か押しかけて来たが、全てマッシュが追い払ってくれた。原因不明の病に倒れた国王に万が一のことがあったらと、彼らはエドガーの王という入れ物がなくなることを懸念して騒ぎ立てる。だから早く世継ぎを作っていればと苦々しくほぞを噛んでいるのだろう。
 この腹に世継ぎになり得る子供がいると分かったら、彼らはどんな反応を見せるだろうか。
 身体の変化で顕著なのはとにかく不愉快な吐き気ばかりで、もうひとつの命が共に在るなどと考える余裕がない。エドガーはまだ受け止めきれずにいた。こうしている間にも成長を続ける腹の中の子をどうすべきか、全く答えが出ないのだ。
 このまま大きくなり続ければ、最終的には一人の人間がここから出てくる──それは産まれた時から男性であるエドガーには理解し難い、あまりに未知で恐怖の存在でもあった。
 だからと言って、宿った命をどうにかした方が良いのかと考えることは酷く苦しいものだった。実感は無くとも確かにここに小さな命がある、と腹に触れると実に奇妙な擽ったい感覚がエドガーを包むのだ。
 他でもない、マッシュと自分が血を分け合う子供がいる。起こり得るはずがなかった妊娠に戸惑っているのはマッシュも同じだろうに、弟は全力で自分を支えようと奮闘してくれている。マッシュはどう思っているのだろうか? エドガーの中に宿ったのが自分の子であることを、マッシュはどう受け止めているのだろう。
 じっくりと話し合わなければと思うのだが、この内臓を搾られるような強烈な吐き気が考える時間を奪っていく。もう吐きたくない、と何度も堪えるがついに戻してしまったその時に、傍にマッシュがいないととてつもない不安に襲われて心が潰れてしまいそうになる。
 早くこの苦しみから解放されたい。いつしかエドガーはそれだけを願うようになっていた。細かなことに思考を巡らせることを諦めて、ひたすら進みの遅い時計の針をぼんやりとした目で追い続けた。



 *



 エドガーが公務を休んで三週間が過ぎた。
 公には病が長引いていると老医師にも口裏を合わせてもらって発表しているが、それまで健康体だった国王が長く臥せっている事態に国は少なからず混乱を見せていた。
 うるさ方は執拗にエドガーに会わせろと詰め寄ってくるが、マッシュが全ての窓口となり兄への面会を遮断していた。取り次ぎは全て自分が行うと宣言したことで、城の内部に王家に対する不信感が産まれているのも承知の上だった。
 王の代わりに公務をできる範囲でこなすマッシュだが、エドガーの傍を離れる不安も多く仕事は捗らない。あの常に自信に満ちていた兄が、人が変わったように怯えて震えている。無理もない、ここ一ヶ月エドガーが吐かない日はなく、最近では胃液で喉が傷つけられたのか血を吐くことも増えた。眠りも浅く、ベッドに横になり日々が過ぎるのを待つだけの生活では心が荒んでも仕方がないだろう。
 老医師には全てを話し、再び城に来てもらった。医師はエドガーとマッシュの関係について追求することはせず、絶対に口外しないことを誓ってくれた。事態がこうなった以上他の医師に相談することは難しく、老医師を信頼する他なかった。
 しかしいつまで隠し通せるのか──エドガーの身体の中の命が成長すれば、誰の目にも明らかに体型が変わるだろう。そしてもしもその命が産まれたら、どう説明すればいいのか。
 考えてもどうにもならず、せめてエドガーの苦痛を少しでも取り除けたらと尽力するのだが、それが役に立っているのかいないのか。
 エドガーの短い眠りの間に素早く書類を大臣の元へ届けたマッシュは、部屋に戻ると苦しげに上体を起こしているエドガーを見つけて驚いて駆け寄った。
 フラつく上半身を支えて骨張った肩を抱き、痩せた背中を優しく撫で摩る。
「兄貴、無理するな」
「……マッシュ……いた、のか……よかった」
 マッシュを認めてほっと表情を緩めたエドガーだったが、すぐに苦痛に歪んで寄り添うマッシュの胸に額を押し付けてきた。
 小さな声で、こわい、と呟いた声をマッシュは聞き逃さなかった。
「……兄貴」
 動揺を押し殺して優しく声をかけると、エドガーはそれまでマッシュが聞いたことのなかった弱々しい声でぽつぽつと言葉を漏らした。
「……身体が、自分のものではなくなっていくようで……、怖い。怖くてたまらない……」
 それが、マッシュが初めて聞いたエドガーの弱音だった。



 *



 時計の針を追うだけの日々を過ごしてどのくらい経ったのか。エドガーはベッドの中で背中を丸め、すっかり乱れた髪にも構わずにひたすら秒針を眺め続ける。一日があまりに長く、マッシュのいない時間が心細くて仕方がない。
 それでも吐き続けて血まで吐いていた頃に比べて、少しずつなら水分を取れるようになり、体調によっては水々しい果実ならほんの数口含むことができるようにもなっていた。身体が少しずつ新しい存在に適応してきたとでも言うべきなのだろうか、戸惑っていたのは心だけではなかったのかとエドガーは苦々しく口角を上げた。
 この身体にもうひとつの存在がある。そのことを完全でないにしろ少しずつエドガーは受け入れ始めていた。初めはとにかく身体が辛くて何も考えられなかったが、これが新たな命の存在の主張なのだと納得するほどには理解できるようになっていた。
 つい先日、時期としては四ヶ月を超える頃だろうと老医師に説明された。通常であれば臍の緒ができて母体から栄養を吸収することができるようになるのだと言う。自分の摂取したものが腹の中の命に伝わるという、これまで想像もしなかった状態がエドガーを少しずつ変化させた。
 子供のために少しでも食べた方が良いだろうか──そんなことを自然と考えるようになっていた自分にエドガーは驚き、起き上がる時も腹を気にするようになっていることに気づいて動揺する。
 とにかく苦痛に耐えるだけの時間が少しずつ終わろうとしていて、その先を考える段階に来ているのだとエドガーは一人唇を噛んだ。
 ……この子をどうすべきか。世界崩壊後、実質的に世界の第一人者となってしまったエドガーは、国王であり、男性であり、マッシュの兄である自分と、子供を身籠もった自分をどう並べるべきか迷い続けた。
 このまま過ごせば世間の目を誤魔化すことができないほど体型が変わる。真実を公表すればとんでもないことになる。折角これから復興に向けて纏まろうとしていた世界が、ゴシップひとつで再び混乱に陥る可能性もゼロではない。綻びを突くものはいつだって何処にだって潜んでいる。
 しかし腹の子にそんなことが分かるはずもない。不調を理由に先延ばしにしていたが、ここまで時間が過ぎる前に新たな命を亡くす方法もあったのだ。それを口にすることはエドガーにはできなかった。不意とはいえ、全く望んでいなかった訳ではない。寧ろ無意識の希望のままに降りてきた存在に、自分の身体の一部ではなく他者として愛着を感じるようになってきていた。医師が診察する度に順調だと言われて安堵している自分を誤魔化すことができなくなっていた。
 あらゆる問題を投げ打って、もしもこの子が産まれてきたら、自分やマッシュと同じ金色の髪に青い眼をしているだろうか。想像すると胸がじんわり暖かくなった。
 ここにいる。腹に触れて目を閉じると、恐らくはまだ手のひらにも満たない大きさの存在が脈を打つのが伝わってくるような気がして、エドガーは不思議な心地良さに眠気を感じた。
 次に目が覚めた時にはマッシュが傍にいてくれることを願いながら。