奇蹟 〜epilogue〜




 背筋を伸ばして真っ直ぐ前方を見つめ、しゃきしゃきと歩く姿にすれ違う人々が自然と道を開け頭を下げる。自分よりも明らかに上背のある大人たちが崇敬の態度を見せることに偉ぶる様子はなく、背中の半分程まで伸びた長い金髪を小さな青のリボンで結んだ少年は、青く澄んだ目を輝かせてお辞儀を返して歩いた。
 砂漠の国フィガロを統治するエドガー・フィガロの愛息子であるレグルス・フィガロは、父王と揃いのマントを靡かせ足取りも軽やかに長い廊下を進む。予定の場所に向かうのに少し遠回りの道を選んだのは理由があった。
 兵士たちの訓練場の入り口で足を止め、扉にそっと手をかける。隙間から覗き込んだ場内では、鍛え上げられた体躯の大きな男が自主鍛錬に汗を流していた。
「叔父上」
 レグルスが声をかけると男は振り向き、扉から顔を出すレグルスを見つけて破顔する。そのこめかみから流れた汗が頬を伝って顎先から床に落ちる前に、レグルスは駆け出して男の元に飛び込んで行った。
「こら、汚れるぞ」
 笑いながらレグルスを受け止め、両脇に手を差し入れてひょいと高く持ち上げた男はレグルスの叔父、マッシュ・フィガロ。レグルスの父エドガーの双子の弟である彼は、レグルスが最も敬愛する憧れの存在だった。
「なんだ、もう稽古の時間になったか?」
「いいえ、稽古は二時間後です。父上からお話があると言われて、向かう前に寄り道しました」
 レグルスはにっこり笑い、マッシュに向かって手を伸ばす。マッシュが掲げていた腕を下ろすと、その首が汗に濡れているのも構わず、レグルスは齧り付くように抱きついて耳元で「とうさま」と囁いた。
 エドガー王は妃を娶らず、そしてレグルスには母がいなかった。母についての詳細を話されたこともなかった。城の記録にも残っておらず、城内の人間の噂話で母は自分の誕生と共に亡くなってしまったと知らされ、顔も見たことがない母を恋しく思ったことがないと言えば嘘になる。
 しかし父であるエドガーとその弟のマッシュが、常に惜しみない愛情をレグルスに注いでくれたことは幼い身にも充分に理解できていた。父と叔父と自分の三人の間でのみマッシュを「とうさま」と呼ぶことを許されて、レグルスは呼び名の通りもう一人の父としてマッシュのことをこれ以上ないほど慕っていた。
 マッシュは格闘家としてのレグルスの師でもあった。日々厳しい修行で肉体を磨き上げるマッシュのように強くなることを目指しているレグルスは、同時に機械工学の才にも恵まれており、父から直々に世継ぎとしての英才教育を受けている。
 そしてその面差しは父や叔父の幼少時に瓜二つと称され、砂漠の国で尊ばれる太陽と水の象徴とされる金髪と碧眼を見事に受け継いで、父譲りの機転と叔父譲りの実直さで城の人々から愛され、すくすくと成長して十四になった。
 幼い頃から当たり前に傍にあった生活に疑問を持つことはなく、言われたことは何でもこなさねばと努力を惜しまない性格でもあったレグルスは、つい先日行われた成人の儀でも期待通りにアントリオンを仕留めて帰還した。
 そしてこの日、レグルスは話があるからと珍しく父の私室に呼ばれており、約束の時間まで大好きな叔父と戯れて、にこやかに別れてから父の元へと急ぎ足に向かった。

 ノックの後の「どうぞ」という穏やかな声を受け、レグルスはそっと扉を開いて失礼しますと頭を下げる。普段よりもルーズな服装のエドガーがソファにゆったりと腰掛け、レグルスを認めて微笑んだ。
「おいで。掛けなさい」
 扉を閉め、言われるがままエドガーの向かいのソファまでやってきたレグルスは、ちょこんと腰掛けて父を見る。
 顔立ちは叔父と同じだが、朗らかなマッシュに比べて王たる威厳が加わったエドガーはレグルスにとって優しくも畏敬の存在であり、こうして対峙すると無意識に緊張を感じることもある。父からの言葉をやや硬い面持ちで待つレグルスにエドガーは柔らかく目を細め、そんなに緊張するな、と声をかけた。
「今日はフィガロ王として呼んだんじゃない。俺の個人的な話なんだが」
 レグルスはホッと息をつく。エドガーが自分のことを俺と称するのはごく親しい人間の前だけで、それこそ叔父と自分の三人でいるような時でしか口にしない呼び方だったため、今回も何か砕けた笑い話か何かだろうかと肩の力を抜いた。
「先日のアントリオン狩り、見事だったぞ。お前は槍術だけでなく拳も使えるから死角がないな。立派な成人の儀だった」
「ありがとうございます!」
 偉大な父に褒められるのは素直に嬉しく、レグルスは笑顔で頭を下げた。そんなレグルスを穏やかに見つめたエドガーは、それでだ、と続ける。
「無事に儀式も終わり、お前もフィガロの王族として一人前と認められた訳だ。……そろそろ、話しておこうと思ってな。お前の母親のことを」
 どきんとレグルスの胸が大きく音を立てた。
 全く予想していない話題が持ち出され、準備も何もされていない心が動揺して声を失う。
「お前もいろいろと噂で聞いているかもしれんが……あれは、出鱈目だ」
「えっ……」
「聞いたことがあるんだろう、俺が身分違いの女性にお前を産ませて死なせてしまったと」
 レグルスは何と答えるべきか戸惑う。上目遣いにエドガーを見ると、父は変わらずに優しい眼差しをレグルスに向けていた。
「お前の母親は死んじゃいない。いつかは話さなければと思っていた……レグルス。」
「……はい」
 レグルスは姿勢を正す。心臓が早鐘を打ち、父の穏やかな声を掻き消すのではと思うほど耳障りな音を立てていた。
「お前の母親は」
 レグルスの喉がごくりと鳴る。
「俺だ」

 ──耳を疑い、レグルスは数秒後に薄っすら唇を開いて首を軽く傾けた。

 目の前の父はいつも通りの飄々とした様子だが、レグルスを揶揄うような素振りではない。じっと自分を射抜く青い眼差しに狼狽え、頭の中にたくさんの疑問符を浮かべたレグルスは、やっとのことで声を絞り出す。
「……ちち、うえ。すみません、よく……聞こえませんでした……」
「ん? だから、お前の母親は俺だ」
 聞き違いではなく同じ台詞を繰り返すエドガーは真顔だった。
「……仰っている意味が、分からないのですが……」
「分からないか。まあそうだろうな。要するに、お前を産んだのは俺だということだ」
 ますます分からない──すっかり混乱したレグルスは返すべき言葉が見つからず、ただ開きっぱなしの口を戦慄かせる。
 父は男性ではなかっただろうか。そんな当たり前のことを今一度レグルスは考えた。いや、間違いなく男性だ、小さい頃何度か風呂に入っている──。
 エドガーは何か考えるように顎に手を当て、マッシュも呼ぶべきだったか、と呟いた。そして更にとんでもないことを言い出した。
「細かく話すと長くなるんだが、実は俺はマッシュと恋仲でな。兄弟だし男同士だし、世継ぎの問題に悩んでた頃に少々不思議な力に縁があって……お前を身籠ることができたんだ」
 レグルスの頭の中に破壊力のある様々なワードが飛び込んでくる。マッシュと恋仲と確かに父はそう言った。マッシュとは、あの尊敬する叔父と同じ名前のような気がする。処理が追いつかないレグルスを知ってか知らずか、エドガーは淡々と語り続けた。
「苦労もあったが、なんとかお前を産むことができた。流石に対外的に俺が母だと公表する訳にはいかないからな、父親として育てたが……お前の母はこの俺で、お前の本当の父親はマッシュだ」
 自分の理解を超えた話を受け入れ切れず、まるで頭から煙が燻るような感覚に襲われたレグルスは、体の力が抜けていくのを堪えることができなかった。くたりとソファの背凭れに崩れたレグルスを見て、エドガーが慌てて立ち上がる。
「おい、レグルス。しっかりしろ」
 刺激が強かったか、と独り言のように零すエドガーに抱き起こされながら、朦朧とした意識の中で今まで信じてきたものがガラガラと崩れていく音を聞いたような気がした。
 やがてエドガーに呼び出されて現れたマッシュが事の次第を知り、二人は稀に見る大喧嘩を繰り広げることになるのだが、それを夫婦喧嘩と受け止めるだけの余裕はまだ幼いレグルスは持ち得ていなかった。





Fin.