奇蹟 8




 次に目が覚めた時、少し離れた場所で控えていたのはセッツァーだった。
 背凭れのない椅子に腰掛け、腕組みをしてぼんやりと床の一点を睨んでいたセッツァーだったが、エドガーが首を動かした気配に勘付いたらしく顔を向けて立ち上がる。
「起きたか」
 近づいてきたセッツァーがエドガーの顔を覗き込み、軽く口角を上げた。
「大分顔色良くなったじゃねえか」
 エドガーは微かに笑い返した。声を出そうとしたが喉に何かが引っかかったように息だけが漏れて噎せる。
 セッツァーはサイドテーブルに置かれていたコップを手に取り、刺さっているストローの飲み口をエドガーに向けた。口に含むとカラカラの口内にまさしく液体が染み渡るようで、中身はただの水だと言うのに仄かな甘味まで感じる程に餓えていたのだと思い知らされる。
 はあ、と息をついた時に自分の呼気が潤ったことを実感したエドガーは、今度ははっきりした声でセッツァーに尋ねた。
「……マッシュは?」
 第一声がそれかとセッツァーが鼻で笑う。
「爆睡してる。お前の意識が戻るまでほとんど寝てなかったからな、あいつ」
「そう、か……」
「ああ、子供も元気そうだぜ。お前んとこの神官長サマが張り切って面倒見てる。後はお前が回復してくれりゃ、俺もここから離れられるんだがな」
「すまんな、巻き込んでしまって……」
 セッツァーはコップをテーブルに戻し、全くだと肩を竦めた。
「ようやく産まれたかと思ったらてめえは死にかけてるし、血だらけの赤ん坊持たされた目の前でマッシュは腕掻っ切ってるし、何処の地獄に迷い込んだかと思ったぜ」
「羨ましい、私より先にあの子を抱いたとは」
「……そんだけ言えりゃ大丈夫だな」
 口調の割に優しい目でそう返したセッツァーは再び椅子に腰を下ろし、時計を見上げた。
「お前も目ぇ覚ましたことだし、そろそろマッシュを起こしに行くか。なんか欲しいもんあるか?
食えそうなら食っといた方がいいぞ」
「……レグルスに逢いたい」
 エドガーの言葉にセッツァーは呆れたようにまた鼻で笑って、ハイハイと投げやりに頷いてから座ったばかりの椅子から腰を上げる。そのままドアへと向かい、ノブを握りながら振り返ってニヤリと笑った。
「……高くつくからな、今回は。覚悟しとけよ」
 エドガーは黙って微笑む。
 恩着せがましさのないセッツァーの態度にエドガーの気持ちは軽くなり、彼がいなければ自分もこの世に留まることができなかったのだと、友人の存在に改めて感謝した。




 目覚めてから直接食べ物を摂取し始めたことが大きかったのか、その後のエドガーの回復は著しく、身体を起こせるようになってからはフランセスカの指導で赤ん坊の抱き方を覚え、自らミルクを飲ませる姿も様になり始めた。
 マッシュはオムツ替えに奮闘し、うまくつけられずにシーツをびしょびしょにしてしまうこと数度。抱いている最中に服を濡らされてしまうこともあって、慌てて着替えにいくマッシュの背中を見送りエドガーは楽しげに笑った。
 妊娠中に編んでいた靴下を履かせてみると、左右で大きさが違っていてエドガーは苦笑する。大きすぎるせいで左足だけいつも脱げてしまう靴下の足口にマッシュが毛糸を通してくれて、リボンのように結ぶことで問題を解決した。初めての割に上手に編めているとマッシュに褒められ、エドガーは編み物を趣味に加えようかと考えて微笑んだ。
 日に日に赤ん坊の顔が変わる。皺だらけだった頬に少しずつ張りが出てきて、薄っすらとしか開かなかった瞼が随分はっきり開くようになってきた。
 しかしふにゃふにゃの身体は相変わらずで、おっかなびっくり抱くマッシュの手付きがどうにも危なっかしい。マッシュ曰く潰してしまうのではないかと不安になるようだが、日頃弟の手がどれだけ優しいか知っているエドガーにとってはその言い訳がおかしくてたまらなかった。
 毎日が驚きの連続で、それ以上に笑いが絶えなかった。少し前まで腹の中にいた存在が目の前にいることが不思議で、些細な仕草の全てが愛おしい。それはマッシュも同じのようで、赤ん坊を見つめる目尻の下がり具合にエドガーはやはり笑ってしまう。
 分かりきっていたことだが、マッシュはきっと良い父親になる──大きな身体で小さな子供を宝物のように抱く姿を見つめ、エドガーは確信した。

 エドガーが歩けるようになった頃にようやく城に戻っていったマッシュから、仕事と状況説明に追われていると伝書鳩が届き、苦笑しつつエドガーは腕の中の子供にパパは大変だ、と語りかけた。
 体力が戻って来ているとは言え、昼夜問わず欲求を泣くことで主張する赤ん坊との生活は産後のダメージが残る体には辛い部分も多いのだが、それを補って余りある子供への愛しさがエドガーの胸を暖めてくれていた。
 泣き声、表情、どれを取っても可愛らしくて堪らず、いつまででも眺めていたくなる。これ程に愛おしい存在がマッシュの他にあったという事実に驚きながら、いつまでもここでのんびりと暮らすことができないことを重々承知していたエドガーは、これからについてをいよいよ本格的に考えねばならなかった。
 マッシュに城を任せて別荘に移ってからすでに三ヶ月以上が経過し、特にここ最近はマッシュが頻繁にこちらに出向いているのを知られている状態で、どのように説明して城に戻るべきか。
 フランセスカと医師が味方になってくれるとは言え、城の人間を納得させられるだけの材料になるかどうか──
「……小細工は無用かな」
 エドガーは呟き、腕の中の我が子の小さな手にそっと触れた。差し出されたエドガーの指をきゅっと握り締めた細い指の力強さにエドガーは顔を綻ばせ、柔らかい髪に鼻を寄せてふんわり甘い匂いにうっとりと目を伏せた。




 ***




 フィガロの国内のみならず、そのニュースは世界中を駆け巡ることとなった。
 長く病に臥していたフィガロ国王が静養先から帰城を果たしたが、その腕には生後間もない赤ん坊が抱かれていた──


 臣下たちから質問責めに遭ったエドガーは、一貫して同じ言葉を繰り返した。
「私の子だ」
 実に平然と言い放つエドガーは悪びれず、左手の薬指にシンプルな指輪を光らせ、目に入れても痛くないといった様子で小さな天使を見せびらかす。
「それは何度もお聞きしました。我々が知りたいのは陛下と誰のお子様なのかということです」
「私の子だと言ったら私の子なんだよ。それで充分だ。見てごらん、この見事な金髪と美しい青い瞳。紛れもなく私の血だ」
「陛下!」
 お話にならない押し問答は臣下たちが根負けすることで毎度終わりを迎え、エドガーは決してそれ以上を語らなかった。対外的にも子供の存在を隠すことなく王の血を引く子供であると国王自ら宣言したため、騒ぎを国内のみで収めることは難しくなった。
 話が広がったおかげで、エドガーの思惑以上に周りの人間の口を挟む余地がなくなっていったことは幸運だった。うるさ方が美人ばかりを集めた肖像画を押し付けてくることはもうなかった。
 やがて、これまで病床にあったのはエドガーの身分違いの恋人で、彼の母と同じく出産で命を落としたのだろうと言う噂がまことしやかに流れ始めた。エドガーもそれを否定しなかったため、噂は事実であるかのように語られることとなった。
 あの女好きの軟派な王が一途に誰かを愛し、数ヶ月もの間城を出て付きっ切りとなった上、その相手との一粒種を大切に守ろうとしている──そんな噂があっという間に国内外に広がり、様々な尾鰭がついて各地で大げさに吹聴されたため、当然のように反感の声も上がった。しかしそれ以上に、かつては世界を救った王の意外な人間臭さに多くの人々が好感を示したのはエドガーにとっても驚くべき反応だった。
 レグルス・フィガロと名付けられた子供は、エドガーが政務に勤しむ昼の間は神官長であるフランセスカに預けられているが、仕事の合間にエドガー自らベビーカーを押して中庭を散歩したり抱き上げてあやす姿が頻繁に見られており、夜は夜で王の寝室にベッドを構えて眠っていることが女官たちの口から口へと伝えられた。
 乳母に任せっきりにしない親の鑑だと主に城内外の女性たちから支持を集め、またその兄と子を支えるために常に付き従うマッシュの姿も麗しい兄弟愛として美談となり、かくして新しい命はフィガロ城に居住の権利を得たのだった。





 ごそごそと何かが動く気配で目を覚ます。
 寝ぼけた頭を起こして薄闇の中にぼんやり光るランプの灯りの出所を目で追うと、大きな影がゆらりと揺れた。
「……マッシュ」
 呼びかけに影が動き、振り向いた顔をランプが照らす。申し訳なさそうな表情のマッシュがレグルスにミルクを飲ませていた。
「ごめん、起こしたか」
「いや……、すまんな、またお前にやらせてしまったか」
 目が覚めたエドガーはするりとベッドから抜け出して、マッシュの太い腕の中で一心にミルクを飲む我が子を傍から見つめる。
 レグルスの誕生から二ヶ月が過ぎ、エドガーもマッシュもミルクを飲ませることは勿論オムツ替えもすっかり手慣れて危うさがなくなっていた。数時間おきに泣く夜間は目が覚めた方が起きて相手をしていたが、昼間の仕事で疲れているエドガーよりマッシュがその役を担うことが多かった。
 とはいえエドガーもやはり産みの親であり、どれだけ疲弊していようともレグルスの世話を疎かにはしなかった。昼に時間ができれば可愛い我が子の顔を見に来たり、沐浴も女性より手が大きいせいかフランセスカが感心するほど上手く熟せるようになっていた。オムツ替えでは何度か小水の噴水を食らって大騒ぎしていたが、それもまた楽しくてたまらないといった様子で大笑いをして一日を賑やかに過ごした。
 満腹になってうとうとし出したレグルスを優しくベビーベッドに下ろしたマッシュは、目を覚まさないかしばし様子を見守り、無事寝かしつけが成功したことをエドガーに目配せして笑う。こればかりはマッシュの方が上手で、エドガーがどんなに息を殺して静かに静かにレグルスを下ろしても必ず泣かれてしまうため、内心悔しい思いをしているエドガーだった。
 すやすやとささやかな寝息を立てるあどけない表情を見下ろしながら、エドガーとマッシュはおもむろに目を合わせて微笑み合った。そして音を立てないようにベビーベッドから離れ、自分たちのベッドに隣同士に腰掛ける。
「寝ないのか?」
 マッシュの小声の問いかけにエドガーは少し考える素振りを見せ、目が冴えてしまったと肩を竦めた。
「お茶でも淹れようか」
「いや、大丈夫だ。……そうだ、言い忘れていたが、昼間最後の診察を受けた」
 マッシュが驚いて瞬きをする。
「先生来てたのか? 挨拶もできなかった」
「町医者の仕事が忙しそうでな。まあ俺たちのためにしばらく休業させてしまったせいなんだが」
「それで、どうだった?」
「うん、それがなあ、何もないんだそうだ」
 エドガーの言葉にマッシュは眉を寄せて首を傾げた。
「……どういう意味?」
「そのままだ。子供がいた形跡が何もなくなっているんだとさ」
 マッシュはまだ分かりかねると言った様子で混乱した表情を作るが、エドガーはそんなマッシュに構わず何処か他人事のようにぼんやりと続けた。
「言われてみれば確かに何もなくてな。俺にもあの子が何処から出て来たのかもう分からなくなった」
「そ、それって……」
 口ごもるマッシュをちらりと横目で見たエドガーは、にやりと口元のみ笑いかけた。
「確認してみるか?」
 ランプの僅かな灯りでもマッシュの顔が赤くなったのが分かる。エドガーはマッシュに顔を近づけ、耳元で「もうセックスしてもいいって」と囁いた。
 マッシュはぎょっとして、エドガーが近寄った分だけ後ろに仰け反る。
「う、そだろ。先生がそんなこと言うはず……」
「言ったって。もうただの男に戻ってるし、体調もすっかり良くなったしって」
「……ホントに?」
「ホント」
 悪戯っぽい表情ながらも真っ直ぐにマッシュを見つめるエドガーの瞳は真剣で、マッシュはごくりと喉を鳴らす。チラッとベビーベッドに視線を向け、眠っているレグルスに動きがないことを確認し、怖々とエドガーの肩に手をかけたマッシュは、薄っすら笑みを浮かべている唇に触れるだけのキスをしてその身体を抱き寄せた。
 しかしそれからなかなか動こうとしないマッシュに焦れ、エドガーが顔を上げて睨みつけると、マッシュはボソリと口を開く。
「……また、デキたりしない、よな?」
 躊躇いながらそんなことを零すマッシュを見て、エドガーは不服そうに眉間に皺を寄せた。
「……ないだろ。砕けた魔石がそう何度も働いてくれるとは思えない」
「だと思うけどさ、万が一」
「……何だお前、怖いのか」
 エドガーのからかうような口調にマッシュがムッと唇を尖らせる。
「当たり前だろ。俺、もう兄貴をあんな辛い目に遭わせるのごめんだぜ」
「お陰で可愛い子が産まれたじゃないか」
「そりゃ可愛いよ、レグルスは可愛いけど。兄貴死にかけたんだからな?」
「また死にかけたらお前が助けてくれよ」
 不敵に笑ったエドガーはそのまま強引にマッシュに口付けて、厚みのある胸を押し倒した。転がされて困り顔の頬を膨らませ、もう、と怒ったように呟いたマッシュに伸し掛かってその顔を見下ろしたエドガーは、うっとりと目を細めて夢見がちに囁く。
「愛してるよ」
 そうして今度は深く唇を重ねると、マッシュの手がエドガーの後頭部に伸びて指に髪を絡め取られる。そして背中に回された腕に強く引き寄せられ、抱き込まれた身体を呆気なくひっくり返されて、今度はエドガーが腕を伸ばしてマッシュの頭を抱き締めた。
 およそ一年ぶりに重ねた身体は事後の余韻もそこそこに空腹を訴える泣き声で引き剥がされてしまうのだが、思わず緩んでしまう頬を抑え切れない二人は顔を見合わせて笑い、愛しい我が子を抱き上げるためにベッドを降りる。
 二人しかいなかった夜の時間に当たり前のように三人目が存在し始めた生活は、微かな不安とささやかな期待と、たくさんの希望に満ちていた。