静かに階段を上がってくる音がする。 ドアの前で足音が止まり、代わりにこんこん、と優しくノックの音が響いた。 返事を待たずに開いたドアの向こうから現れた母親の姿を、ヒカルはベッドで横たわったままぼんやりと見ていた。 「ヒカル、起きてる? ……具合どう?」 「うん……だいじょぶ」 言葉と裏腹に、ヒカルの声はひどく弱々しく、おまけにしゃがれていた。 額には貼るシートタイプのアイスノン。とろんとした目に赤らんだ顔、そして苦しそうな荒い呼吸。 昨日の夜、ヒカルは39℃の熱を出した。 アキラに強引に外へ連れ出された昨夜。 馬鹿みたいに怒鳴り合ったあれから、どのくらい時間が経ったのか分からないほど、ただひたすら抱き合って泣いていた。 涙がいつしか止まった後も、お互いに体重を預けあって、土手の上で何をするでもなくぼーっとしていた。恐らく、何十分なんて生易しい時間ではなかったに違いない。 アキラに引っ付いていた身体が、やけに熱くて寒いことに気がついたのはいつ頃だったのだろう。 ヒカルが自分の身体の異変に気づいてから少し遅れて、アキラもヒカルの様子がおかしいことに気づいたようだった。 その時はすでに、ヒカルは顔を火照らせて歯の根もかみ合わないほどガタガタと震えていて、血相を変えたアキラがヒカルを抱えるように来た道を駆け戻った。 無理もない。寒空の下、アキラは薄手とはいえしっかりコートを着込んでいたが、ヒカルは部屋着のままで無理やり連れ出されたのだから。 おまけにここのところの寝不足と栄養不足。加えてずっと感じていた緊張がアキラに根こそぎ剥ぎ取られた。心と身体の弱った部分から、病気が入り込むのを止められなくても仕方ない。 アキラは飛ぶようにヒカルの自宅に戻り、二人を心配してずっと待っていたらしい母親に酷く余裕のない様子で何度も何度も謝って、ヒカルを部屋へと運んでくれた。 ヒカルの熱に驚いた母親が、アイスノンやら体温計やら慌しく看病の準備をし始めた傍で、アキラがせっせと部屋中に散らばった棋譜を片付けていたのを、ベッドに押し込められたヒカルはぼんやり眺めていた。 久方ぶりに綺麗になった室内で、アキラはやはりヒカルの母に頭を下げ続けた。ヒカル自身あまり覚えていないが、アキラを怒らないでくれ、と母親に懇願したような気がする。アキラは一生懸命なだけだから。ちょっと極端で、バカだけど……。 そんな喧噪の中、いつの間にか眠りに落ちた。無理に飲まされた栄養ドリンクと薬のコンボが効いたのか、夢も覚えていないほど深い闇に引き込まれ、目が覚めた今はすっかり明るいのを通り越して薄暗い夕方になっていた。 あの大騒ぎが、つい夕べのことだったなんて信じられない。 ヒカルは熱で未だはっきりしない頭を持ち上げて、部屋に現れた母親に向かって身体を起こそうとした。母親が身振りでそれを留める。 「いいわよ、あんたまだ熱下がってないでしょ。」 「大丈夫だって……ちょっとぼーっとするだけ」 ヒカルに近づいた母親は、まずヒカルの額に手を当て、それから自分の頬に手をやりふうっとため息をついて、起き上がれるのなら、と切り出し始めた。 「実はね、今下に塔矢くんが見えてるの。上がってもらっても大丈夫?」 「塔矢が?」 ヒカルは潤んだ目をぱちぱちと瞬きさせた。 ひょっとしたら、携帯に連絡をくれていたのだろうか。今の今まで眠っていたヒカルは、出るどころか着信があったかさえも知らない。アキラのことだから、返事を待切れなくて押し掛けてきたのかもしれない。 今が日暮間近ということは、仕事を終えてから真っ直ぐ来てくれたのだろうか。昨夜、何度も何度も謝っていたアキラの姿を思い出してヒカルは苦笑した。 「いいよ。呼んで」 「分かったわ。でもまだ長話は駄目よ」 そう言って背を向けた母親に、ヒカルは慌てたように声をかけた。 「あ、お母さん! ……塔矢のこと怒ったりしないでよ」 振り向いた母親は、肩を竦めて微笑を浮かべる。 「はいはい。怒ってなんかいないわよ。寧ろ感謝してるわ」 あんたの顔から硬さがとれたから。 母親が静かに部屋を後にし、来た時と同じように優しい音を立てて階段を下りていく。 ヒカルはまだぼんやりした頭を持て余し、アキラが上がってくるまで耐えられずに、ぽすっと大きな音を立ててベッドに背中から倒れる。 熱のせいで思考ははっきりしないが、気持ちは穏やかだった。 あれだけ余裕のなかった心が、無理にしがみついていたものから手を離した途端に楽になってしまった。佐為が消えた時以来だろうか、それともアキラと想いを通じ合わせた時以来だろうか、あんなに泣いたのは。瞼が重くて熱いのは、熱のせいだけではないだろう。 それでも、迷っていた。 これからどうすべきか。どんな碁を打っていくべきか。 アキラはヒカルが必要だと言ってくれた。果たしてこのまま佐為の碁を諦めて良いものだろうか? (だって……俺はまだ……) 何故、佐為の碁を自分のものにできなかったのか、その理由も分かっていないのに…… こんこん、と部屋をノックする音が聞こえた。 考え事をしていたせいだろうか、階段を上がってくる音を聞き逃してしまった。 「どうぞー」と声をかけたつもりだが、掠れていてドアの向こうには届いていないのかもしれない。少しの間を置いて、やや躊躇いがちにドアがゆっくり開いた。 現れたアキラのスーツ姿を見て、ヒカルはほんのり目を細めた。 「大丈夫か?」 心配そうにベッドへ近寄ってきたアキラのために、また上半身を起こそうと腕に力を入れたヒカルだったが、やんわり肩をアキラに押し戻される。 「寝ていろ。まだ熱があるんだろう? 顔が赤い」 「お母さんと同じこと言うなよ……。なに、今日指導碁だった?」 「ああ、父が懇意にしている方だったから断れなくて。それより、具合は……あまり良くないみたいだな」 アキラはベッドの傍らに膝をつき、上から暗い顔でヒカルを見下ろした。大丈夫だとヒカルが笑ってみせるが、アキラの表情は晴れない。 「ボクのせいだ。あんな薄着のキミを夜中に連れ出したりするから……キミのご両親になんてお詫びしたらいいか」 「よせって、気にすんな。俺にはいいクスリだよ、きっと……」 ヒカルは毛布の端から手を覗かせ、アキラに向かって伸ばした。アキラはその手をそっと取って、優しく握り締めてくれる。熱い手が暖かい手に包まれて、ヒカルの口元がふっと綻ぶ。 アキラは空いた右手で、ヒカルの髪を撫でてくれた。大きな手のひらに甘やかされて、ヒカルは気持ちよく目を閉じる。 袖口から仄かに香るアキラのニオイ。このニオイにとことん弱い。 優しい香りが、ヒカルの全てを許してくれるように感じる。佐為になりたかったことも、佐為になりたくなかったことも、何もかも。 「……ありがとな……」 自然とそんな言葉が出てきた。 「……何故、礼なんか?」 アキラの穏やかな声が耳に心地よい。 「お前、怒ってくれたから。俺、怒られないと分かんないんだ……甘ったれだから」 アキラがふふっと笑う気配がした。 「……もう、saiになるのはやめる……?」 「……うん……、……なれねえもん……」 追いかけても追いかけても、懐かしい佐為の空気が身体に馴染まなかった。 一度はこの身体を共有したはずなのに、佐為の碁を打とうとすると息苦しくて辛かった。 棋力が適わないだけではない。佐為の碁を、ヒカルの心と身体が拒んだのだ。それが分かってしまった今、もう再び佐為を目指すために上を向く気にはなれない。 なれねえもん。――自嘲混じりに呟いたヒカルの髪を、アキラは柔らかく撫で続けてくれる。 「キミには、キミの碁がある……。saiには、saiの碁が……。それぞれの碁にそれぞれの良さがある。saiのために、キミが消える必要はない。……ボクはキミと歩きたい」 「うん……。俺も、お前と打ちたい……」 目を閉じたままだったヒカルの口唇に、ふと柔らかいものが押し当てられた。それがそっと離れてから、ヒカルは静かに瞼を開く。 「……うつるぞ」 「構わないよ」 目の前で微笑むアキラの長い睫毛に見蕩れてしまった。 優しさの中に、確かな強さを持つ。昨夜、髪を振り乱して大騒ぎした、あの激しさを内に秘めて。 抱き締めて欲しかったけど、まだ熱が高いからねだるのはやめにした。――体調が戻ったら、うんとくっついてやろう。こうなったら思いっきり甘えてやる。ずっと我満してたんだから…… 「進藤……今日は、話があって来たんだ」 「え?」 うっとり細めていたヒカルの目がぱちりと大きく開いた。 何か、改まるような話なのだろうか。思わず上目遣いで身構えたヒカルに、アキラは軽く苦笑して首を横に振った。 「そんな仰々しい話じゃない。実は……少し前にキミ、父と打ちたいって言ってただろう」 「あ……」 ヒカルはバツが悪そうに眉を垂らした。 昨日の今日で、その話題は少し気まずい。 そんなヒカルを宥めるような目で見て、アキラは続けた。 「父が入院中にそのことを伝えてあったんだが。今朝、父から了解の返事をもらった」 「え……」 「……昨日のこともあるから、本当は伝えるべきか迷った。でも、父は四月になったらまた日本を離れる気でいるんだ。「キミ」が……父と打つ機会を次に持てるのはいつになるのか分からないから」 「……塔矢……」 少し早口でそう告げたアキラは、父である行洋と「ヒカル」との対局を勧めていた。 本当は、佐為として行洋と打つつもりだった。佐為の碁に触れ、もう一度打ちたいと言ってくれた行洋に、再戦の願いを叶えさせてあげたくて。 でも、もうヒカルは佐為にはなれない。ヒカルは「ヒカル」として打つしかない。それで果たして行洋は満足してくれるだろうか? ……思えば、ヒカルは行洋と対局したことがない。 目を閉じれば、昨日のことのように浮かんでくる。 行洋との新初段シリーズ。ネットで行われた佐為と行洋の対局。 一番近い場所で、佐為と行洋の碁を見てきたけれど、ヒカル自身が行洋と打ったことは一度もなかった。 行洋と打つことで、ヒカルが学ぶことは星の数ほどあるだろう。 しかし行洋は。対局相手がヒカルでは不足ではないだろうか……? ヒカルのそんな不安を感じ取ったのか、アキラは微かに口角を持ち上げ、大丈夫だと囁いた。 「キミとの時間は、父にとっても有意義になるだろう。息子のボクが言うんだ、間違いない」 「……それ、盲目って言うんじゃねぇ」 「ボクは碁に関しては常に瞠目しているつもりだ」 心外だ、というような口調のアキラに、ヒカルは思わず吹き出してしまった。全く、頼もしい男だ。 ヒカルは軽く目を伏せて、覚悟を決めたように一度だけ瞬きした。 ――先生には、話しておくべきかもしれない―― 「……先生の都合いい日、いつ?」 「キミに合わせると言っていたよ」 「バカ、俺に先生を合わせられるわけねえだろ。打ってもらえるだけでも有難いんだ。せめて俺を呼びつけろ」 ヒカルの乱暴な物言いに、アキラが声を出して笑った。 「分かった、キミの熱が下がったら、父の都合を聞いておこう」 「ああ、頼むよ」 しかしアキラの笑いが止まない。 ヒカルはむっとして、くすくすと微かに肩を震わせるアキラを睨んだ。 「いつまで笑ってんだよ」 「いや……、やっとキミらしくなった、と思って」 アキラは笑いながら、愛しいものを眺める目でヒカルを見つめ、ふと微笑みの形で口を閉じた。 「……キミが戻ってきてくれてよかった」 甘ったるい声でそんなことを言われて、ヒカルは元々熱で赤かった顔を更に赤らめる。思わずアキラから顔を逸らしたヒカルの耳に、 「ヒカル」 低く優しい囁きが届いて、ヒカルの胸がどきんと竦んだ。 つい、振り返って見てしまったアキラの顔が、こちらが恥ずかしくなるくらいに目尻の下がった幸せそうな顔で…… 「……って、たまに呼んでもいい?」 病気の熱とは違う熱が、ヒカルの爪先から頭の天辺まで駆け巡っていく。 かつて佐為が呼んでいたものとは違った、ヒカルの胸の弱い部分をくすぐる甘い囁きに、ヒカルはどうにも我満できなくなって、怒ったように顔を顰めてそっぽを向いた。 「……、たまにな!」 きっと、アキラはだらしないくらいに締まりなく微笑んだに違いない。 そんな顔を見てしまったら、ヒカルの顔までだらしなく崩れてしまいそうで――ヒカルは顔を逸らし続けた。 それから三日間、ヒカルの熱は下がらなかった。 その三日の間に手合いにひとつ不戦敗をつけることになり、一月以来ずっと続いていたヒカルの神がかりな快進撃は、初めて黒星を記することになったのだ。 もうすぐ二月が終わる。 |
ああバカップルに戻っちゃった……