魔法の消えた世界で






 肌に感じる日差しが柔らかくなった三月の午後。
 ヒカルは面持ちに緊張を隠せず、いつになくきっちりと正座を整えて、仰々しく頭を下げていた。
「きちんとお見舞いに伺えなくてすいませんでした。今日はわざわざ時間を作ってくださってありがとうございます」
 ヒカルの向かいで同じく正座を崩さない行洋は、和服のせいかどっしりとした貫禄はあるものの、表情は穏やかだった。
「その節は君にも世話になった。とても心配してくれていたとアキラから聞いているよ。さあ、顔を上げてくれ。私は今日を楽しみにしていたのだから」
 ヒカルは下げていた頭をゆっくりと戻し、優しい眼差しの行洋を認めて少し照れ臭そうに笑う。慣れない堅苦しい挨拶に無理をしていたのを、見抜かれてしまったようだ。
 障子越しに温かい太陽の光が降り注ぐ静かな部屋には、ヒカルと行洋の二人しかいなかった。傍らに碁盤と、アキラの母・明子が運んできてくれたお茶。他に余分なものがほとんどない落ち着いたこの部屋は、行洋の私室だった。
 元旦以来で顔を合わせた行洋は、病後のせいか顔がほっそりして見える。少し痩せたようだが、顔色はいい。寧ろ、ヒカルのこけた頬はまだ戻っておらず、どちらかというとヒカルのほうが病人めいて見えるかもしれない。
 何より、行洋の内から迸る生気の力は、病人のそれではない。来月すぐにでも棋士としての活動に復帰するということだが、それに頷けるだけの体力と気力はすでに回復済みのようだ。
 元気になってよかったと、ヒカルはほっと肩の力を抜く。
 もしも行洋に万一のことがあったら、全てに後悔したまま二度と碁石を持てなかったかもしれない。
 今、ヒカルは一人の棋士として行洋の前に座っている。佐為の代わりではなく、進藤ヒカルとして。
 二人だけで対局を行うと告げた時、アキラは少し不服そうだった。しかしヒカルに何か思うところがあるのを感じ取ってくれたのか、表情に不満は残るものの意外とすんなり引き下がってくれた。
 初めて向かい合う塔矢行洋。今はまだ柔らかい表情を湛えているが、ひとたび碁盤に向かえば棋士の顔に変わるのだろう。
 どこまでついていけるのか、ヒカル自身測りきれない。
 行洋と打つことで、自分の中で何か答えが出るのかさえも。
(佐為……見ててくれよ)
 囲碁を愛した幽霊が認めた、この世で最強の棋士。
(――いけるとこまで食らいついてやる――)
 行洋が碁盤をそっと二人の間に押し出した。
「では、始めようか」
「はい、お願いします!」









 指が、碁石を掴むことを諦めた。
 このまま打ち続けても、三目半の差が広がりこそすれ縮まることはないのだと、認めざるを得なかった。
 ヒカルは指に挟もうとした黒石を碁笥に落とし、そうして頭を下げた。
「……負けました」
 敗北を告げる自分の一言が、酷く重い一言だとヒカルはぼんやり思っていた。
 やるだけやった。精一杯、できるところまで食いついた。今のヒカルができるだけの力を出し切って、世界でもトップクラスの棋士に必死で立ち向かった。
 結果は負け。それは当たり前なのかもしれない、あの佐為ですら勝ちを確約されていない相手なのだから。
 負けて悔いの残る碁だった訳ではない。寧ろ、やりきった自分に清々しさを覚えるほど、気持ちは穏やかだった。
 だからこそ、余計に分からなくなる。
「……いい碁だった。楽しかったよ」
 ヒカルが頭を上げると、対局中とは打って変わって優しげな表情の行洋が口元を綻ばせていた。
 行洋の言葉に、自分の碁の出来について少なからず不安を感じていたヒカルがほっと息をつく。
 行洋は、静かな眼差しでヒカルを見下ろしながら、ふと何かを思い出したように続けた。
「……不思議なものだな。進藤くんとの対局はあの新初段以来――もう三年ほど前になるだろうか。確かに長い時間が空いたとはいえ、今日の対局は……まるで初めての相手と打ったようだった」
「――!」
「少し検討をしようか」
 ヒカルは身体を強張らせたまま、すぐに頷くことができなかった。
「進藤くん?」
 険しい表情で自分の膝元を睨んでいるヒカルを訝しく思ったのか、行洋が声をかける。
 どくん、どくんと心臓が大きく脈打ち始めた。
 行洋は、ヒカルの中に佐為の影を見ただろうか……?
(言うなら、今しかない)
 緊張と躊躇いで口唇が震えるが、ヒカルは今日、行洋にある報告をしなければならないと思っていた。そして、行洋ならばその話をきっと聞いてくれるとも。
 ヒカルは意を決して、足の下に敷いていた座布団から身体ひとつ分左に下り、畳に両手をついて真剣な表情を行洋に向けた。
 突然身体を低くして自分を見上げるヒカルに、行洋が驚いた顔を見せる。
「先生……、俺、先生に言わなければならないことがあります」
「進藤くん」
 ヒカルはぐっと肩に力を込め、硬い表情を解せないままに口を開いた。
「先生……saiのこと、覚えてますよね……」
「……saiか……」
 行洋の口元が微かに引き締まる。
 そんな行洋の目を見ながら、ヒカルは決心が揺らがないうちにと、自分を奮い立たせてその目を逸らさないように顎を引いた。
「saiは……もう、いません」
「……」
 行洋の目が一回り大きく広がった。
 ヒカルの言葉を噛み砕くように、ぱち、ぱちと大きく瞬きを見せた目が、少しの間を経て神妙に歪む。
「それは……、亡くなった、ということかね」
 ほんの数秒ヒカルは迷い、しかし頷いた。
 言葉に違和感はあるが、それもまた事実なのだから。
 行洋の眉根が厳しく寄せられ、その口からふっと切なげな吐息が漏れる。
「そうか……。それは……残念だ」
 行洋の押し殺すような声に、ヒカルはぐっと口唇を噛む。
 ヒカルはそのまま深く頭を下げた。
「すんません……っ! 俺、もう一度佐為を先生と打たせてやりたかったんですけど……!」
「進藤くん」
 それからがばっと顔を上げ、驚いたままの行洋の表情を正面から見つめた。
「アイツ、それが適わないままいなくなっちゃったから……、だから、だから俺、佐為の代わりに……佐為の碁を、先生と打とうと思ったんです」
 行洋が眉を寄せる。
 追求を恐れたヒカルは、行洋が口を挟む暇もないほどに早口でまくし立て始めた。
「俺、ずっとアイツと一緒にいたんです。俺の碁は、アイツに全部教わったんです。アイツがいる時、俺はいつも息するみたいに自然にアイツの一手を理解してた! だから、誰より佐為の碁を知ってる俺が、佐為の代わりになろうと思って……佐為の碁を必死で追いかけたのに……」
「……」
「……できなかった……」
 ヒカルは再び頭を落とし、苦しげに顔を歪めて、それでも行洋に向かって必死にその顎を持ち上げた。
 行洋は相変わらず驚きで瞳を広げたままだが、ヒカルの話を聞こうとする真摯な空気はしっかりとヒカルを包んでくれている。
 ヒカルはその確かな優しさに感謝しながら、胸の奥から込み上げてくるものをぐっと堪える。
「できなかったんです。俺、佐為になろうとした。でも分からなかった。アイツは碁を打つのが大好きで、俺もそんな佐為の碁が大好きだったのに、アイツの碁が分からなくなってた。俺、佐為になりたかったんです。佐為になれば、先生や、他にも佐為を待ってるいろんな人が、喜んでくれると思って……!」
「進藤くん……」
「あんなに一緒にいたのに、分からないんです! 身体で感じられた佐為の碁が、今の俺には分からない! ……俺にしか……、一番近くにいた俺しか、佐為の碁を引き継げないと思ってたのに……」
 震える声をぐっと飲み込むと、息が詰まりそうだった。
 気を緩めちゃいけない――ヒカルはきつく目を瞑る。今にも目尻から溢れてきそうな涙を堪える。悔しくて、哀しい。もう二度と感じられない佐為の気配。優しい声と扇子のひらめき。
 あの美しい黒と白の石の並びを、誰も再現することができない。佐為になりたくて、佐為になりたくなかった。それ以前に、佐為になれなかった。
 その理由が、今もやっぱり分からないままで……
「――進藤くん」
 何かを問いかけるような行洋の呼びかけに、ヒカルがはっと目を見張る。
 行洋は静かな表情で、突然喚きだしたヒカルを咎めるでもなく、問い詰めるでもなく、ただ見守るようにじっと視線を向けていた。
「……saiが、亡くなってからどのくらい経つのかね」
 そう尋ねた行洋に、ヒカルは一瞬現実に蓋をして記憶の世界へ心を飛ばした。
 消えた碁盤のシミ。佐為を探して走り回った一日。棋院の資料室で見た秀作の棋譜――
 まるで昨日のことのようなのに、あれから今まで、気付けば長い時間が経っていた。
「もうすぐ……三年になります」
「そうか。そんなに前に……」
 行洋は軽く天を仰ぐ仕草を見せて、その一挙一動をじっと瞠目しているヒカルを見下ろし、眼差しを和らげた。
「saiの碁が分からないと言ったね」
「は……はい」
「では、それだけ君が多くのものを学んだということではないかな」
 行洋のきっぱりとした口調に、ヒカルは目を見開いた。
「え……?」
「saiと別れてからの三年、君はいろいろなものを見て、いろいろなものに触れ、たくさんの人物と出会い、碁を打ってきたはずだ。その時間がそのまま君の力となり、君の心身を成長させた……棋風も人生も、同じようなものなのだよ」
「……人生……?」
 瞬きを繰り返すヒカルに、行洋はそっと目を細めた。
 そんな仕草は、アキラとよく似ているなんて――ヒカルは思わずそんなことを考えてしまう。
「そう、人生だ。かつて理解しえたsaiの碁が君から離れたということは、君もまた、saiから離れて自分の道を歩き始めているということだ」
 ヒカルは表情を固まらせたまま、呆然と目の前の行洋を見つめていた。
 穏やかな口調で語られる言葉が、耳に優しく馴染んで行く。
「俺が……自分の道を……」
 行洋がゆっくりと頷いた。
「ああ。誰もが、一人一人違う道を歩いている。その道は死ぬまで終わることはないし、また変化し続けるものだ。君の道はまだ始まったばかりだし、これからも変わっていくだろう」
「先生……」
「何かを極めるということは、道の終わりでもあるのだよ」
 大きく見開いた目をひたむきに行洋へ向け、ヒカルはぐっと息を飲み込んだ。
 目の前でどっしりと腰を据える行洋の言葉が、優しいのに酷く重い。

(俺が……俺の道を……?)

 佐為から離れて三年。
 その間、数え切れないほど碁を打ってきた。

(でも……、でも、俺の碁は佐為のモノマネだって)

 いろいろなことがあった。
 碁だけじゃない、人を好きになることを覚えて……アキラと出逢って……

(棋風と……人生は同じ……)

 佐為が消えてから、佐為がいないなりに、毎日一生懸命生きてきた――泣いたり笑ったり、迷ったり苦しんだりしながら……


 ――ボクが愛してるのは、ボクと一緒に時間を過ごしてきたキミだ……!――


(塔矢……)


「難しいという顔をしているね」
 行洋に微笑まれ、ヒカルは思わず赤くなる。
「考え込むことはない。かつて息をするようにsaiの碁を理解していたというのなら、それだけsaiは君に大きな影響を与えたのだろう。今、君は自分の足で歩き、saiから独り立ちしようとしているのだ」
 ヒカルははっとする。
 独り立ち――その言葉を口の中で反芻した。
 それから、決まりが悪そうに少し口唇を尖らせ、軽く肩を竦めて行洋から目を逸らす。
「どうしたね?」
 気まずそうなヒカルを嗜めるように、行洋が穏やかに尋ねる。
 ヒカルは躊躇いながらも、ぼそりと口を開いた。
「その……、俺の碁が、佐為のモノマネだって言う人がいて……」
「モノマネ?」
「自分のものにならない力を振りかざしてるようじゃ……すぐ限界が来るって」
「……、誰がそんなことを?」
「……」
 まさか塔矢門下の筆頭である緒方の名前をここで出すわけにはいかない。
 ヒカルがぐっと口を噤んだのを見て、行洋は何事か思案するように軽く小首を傾げ、「どういう経緯があったかは知らないが……」と切り出した。
「君は、何処かsaiに遠慮をしていたのではないかね」
「俺が? ……佐為に遠慮?」
 行洋は頷き、明かりの差し込む障子を振り返った。思わずヒカルも釣られて顔を向ける。外は少しオレンジ色に染まりつつあるようだ。
「saiの碁を打ちたいと言ったね。君はどこかで、君らしさよりもsaiの碁を守ることを優先しようと考えていたのではないかな」
「俺らしさよりも……」
 ヒカルは記憶を巡らせた。
 緒方と打ったあの時、途中までは佐為の碁だった一局を請け負った、その気負いが何処かで空回りしていたというのだろうか?
 佐為の碁を、敗北で終わらせたくなかった。自分で守ろうとしたあの一局、「ヒカル」が続きを引き継いだつもりで、本当は佐為の面影を追っていた?
「誰がそんなことを言ったのかは知らないが、恐らくその人は君の碁に期待をしているのだろう。君が、saiに捕らわれない独自の碁を打つようになるのを待っているのだと、私は思うよ」
 行洋の言葉に、つい顔を歪めてしまった。――緒方が本当にそんなことを思っているだろうか?
 あの、読めない眼鏡の奥の鋭い瞳。意味深な言葉の端々に、自分に対する期待が込められていたなんてにわかには信じ難いが……
「納得いかない様子だね」
 行洋に笑われて、ヒカルはまた頬を赤く染めた。
 決して荒げない、行洋の低い声の響きは気持ちを落ち着かせる。アキラも、今よりもっと年をとったらこんな雰囲気になるのだろうか?
「進藤くん。私とsaiを打たせてくれようとした君の気持ちは有難く思う。しかし、君は一人の棋士としてもう自由になっていいはずだ。君が思うがまま、感じるがままの碁を打つといい。私は、先ほどの対局が本当に楽しかったよ」
 優しい行洋の声に、じんわりと胸に熱いものが広がる。
 たった今行われた、行洋との対局。ヒカルは精一杯やった。行洋も、いい碁だったと言ってくれた。
 これでいいのだろうか? 躊躇わず、振り返らず、このまま進めばいいのだろうか?
 佐為が神の一手を目指したように、ヒカルもまた、ヒカルだけが歩く道を選んでその高みへ突き進めばいいのだろうか?


 ――ヒカル……


 囲碁を愛した、優しい幽霊の優しい眼差し。
 最後の言葉すら聞けないまま、彼がいつも手にしていたあの扇子を受け取った、あれは――

 ヒカルの夢だろうか。
 ただの願望だろうか。
 それとも、……佐為の意志だろうか。


「でも……、でも、」
「なんだね?」
 ヒカルは口唇を噛んで、真っ直ぐに自分を見据えている行洋の目を避けるように俯いた。
「俺は……佐為の碁を継ぐ使命があると思って……」
「使命……?」
「俺、佐為に託されたんです。アイツの扇子を」
 ――夢の中でだけれど。
 そんなことでと人は笑うかもしれない。しかし、佐為が夢に出てきたのは後にも先にもあの一度きりだ。
 あの夢は、佐為との最後の別れだったのだと……、佐為からのメッセージだったのだと、そう思わずにいられない。
 いつも自分を導いてくれた扇子の先。その扇子を受け取った時、佐為の碁もまた自分に伝わったのだと思っていた。
 あの素晴らしい碁が、ヒカルの中に生きている。彼の碁をもっともっと高めて、そして極めることが佐為から託された最後の願いなのではないだろうか……?
 行洋は少しの間黙っていたが、やがて瞳の色を和らげて、はっきりとした声でヒカルに告げた。
「そうか。では、saiは君に時代を託したのだろう」






初めての行洋との対局です。
パパ台詞多い……