魔法の消えた世界で






 王座戦本戦トーナメント四回戦――
 緒方精次十段・碁聖・名人対進藤ヒカル三段。


「……ありません」
 きっぱりとした、それでいてどこか晴れやかなヒカルの敗北宣言に、対局の展開を見守っていた周囲からほっとしたようなため息が漏れた。
「いやあ、お疲れ様!」
「さすが緒方先生、鮮やかでした」
「進藤くん、大健闘でしたね!」
 これまでにない和やかな空気に、ヒカルも素直に頷いた。
 驚くほど気持ちがすっきりしていた。負けた碁だが、悔いが残らない内容だったのは本当に久しぶりである。
 緒方の攻めは巧みだった。一度、緒方の白石に穴が開いたと思われた守りが、更なる攻撃の布石であることを、ヒカルは見抜けなかった。
 精一杯粘ったが、黒石の地は分断されて繋がらない。……投了のし時は見誤らなかったと思う。
 ヒカルは、この結果に満足していた。
「どうする? この後、検討するか?」
 緒方の誘いに、対局を見守っていた人々がはっとした。
 ヒカルの答えに注目が集まる中、ヒカルは目を伏せ、すぐにぱっと顔を上げてにっこり笑った。
「うん。お願いします」
 対局室に安堵のため息が広がった。
 まだこけた頬が戻らないヒカルの笑顔は、先月までやけにピリピリとして体調の悪かった、そんなヒカルを心配していた彼らを安心させたらしい。
「よし、じゃあ場所を移そう。長くかかりそうだからな」
「うん、がっちりつきあってもらうからね!」
 人々は立ち上がり、それぞれ今の対局について口々に賞賛し合いながら、対局室を後にする。
「進藤くん、検討終わったらコメント聞かせてよ」
 出版部の重田が部屋を出る前に振り向いてそう告げ、ヒカルも笑顔で頷いた。
「はい、後で行きます」
「よろしくね!」
 どやどやと騒がしく人が立ち去る中、最後に残ったヒカルと緒方は、まだ碁盤の前に座ったままだ。
 緒方が何か言いたげな目でヒカルを見ている。ヒカルもそれが分かっていたため、あえて緒方が立ち上がるまでその場を動くつもりはなかった。
 ふと、緒方が口元を微かに綻ばせた。
「……つまらん。立ち直ったみたいだな」
「……うん。緒方先生には負けちゃったけど」
「当たり前だ。まだお前が迷っているようなら、俺が目を覚まさせてやろうと思ってたんだがな。……荒さは残るが、いい碁だった。来期は期待してるぜ」
 珍しく耳当たりの良い言葉ばかり告げられて、ヒカルははにかむように頬を緩めた。
「なんか、緒方先生に褒められるの初めてかも。気持ち悪いな」
「……撤回してもいいんだぞ」
「あー、うそうそ、ありがとうございます!」
 悪戯っぽく笑うヒカルに、緒方もまたにやりと口角を持ち上げる。
「……アキラが心配していたぞ」
 ぴく、とヒカルが肩を揺らす。
 口元は笑っているが、緒方の静かな瞳に揶揄のようなものは含まれていない。
「……うん」
 ヒカルは静かに碁盤を見下ろす。
 負けた碁。だが、今の自分の力を最大に引き出せた。
 一手一手に応える道を探すのが、楽しくて仕方なかった。
 今は負けた。……でも明日のヒカルは今日のヒカルのままではない。
 まだまだ、いくらでも上を目指せる。そう、佐為の千年に比べたらこんなちっぽけな時間で、立ち止まっている暇はない。
 目指すは遥かな未来へ繋がる自分だけの碁――
 その追求が、これほどの喜びであると、今頃になって気付くなんて。
「どうやら、本当に吹っ切れたようだな」
「……俺の碁でいいんだって、思えるようになったから。」
 いつもは苦手な緒方の口調が、今は酷く優しく感じられる。
 ひょっとしたら、緒方にも心配をかけていたのだろうか?
 佐為の碁に、遠慮していたのではないかと行洋は言った。……緒方はそれを見抜いていたのだろうか。
 どちらにせよ、元旦に緒方と一局打たなければ、今のヒカルは存在し得なかった。
 ヒカルは、あの対局に感謝していた。
 緒方は迷いの消えたヒカルを少し細めた目で見据えながら、少し挑戦的な表情をちらつかせる。
「よし。では、あの日と同じ質問をしよう。……お前は、何のために碁を打っている?」
 ――何のために?
 あの日は、何と答えたのか覚えていない。
 佐為から受け取った未来への道を、ヒカルもいつか誰かに託すのかもしれない。
 人から人へ繋がる運命のバトン。
 でもそれは、碁石を持たない人々にも共通の道であるはずだ。

 囲碁と人生は同じようなもの。
 変化し続け、生き続ける限り終わりはない。
 先を進む者も、後をついてくる者も、……共に並ぶ者も、目指す未来に向かってそれぞれの想いを抱えて歩いて行く。
 そんな彼らとの語らいが、ヒカルにはたまたま囲碁だっただけのこと。

 ヒカルは目を閉じ、そのまま数秒何かを考えるように口唇を引き締めて――それからしっかりと顔を上げ、緒方に正面から向き合った。
「――分かち合うため、かな……」
 その答えに緒方は何も言わず、ただ鼻で笑ったが、嘲笑の類ではないことはヒカルにも伝わった。
「……そろそろ行くか。あんまり遅いと誰か呼びにくるかもしれん」
「そうだね」
 二人は立ち上がる。
 緒方を先導するように対局室を出ようとしたヒカルに、ふいに緒方が少し低めの声をかけた。
「進藤」
 ヒカルが振り返る。
「アキラを頼むぞ」
 ヒカルは少しだけ瞼を広げた。
 緒方の表情は落ち着いていて、冗談めいた素振りは見られない。
「アイツは……たぶんお前よりバカだ」
 元々大きくなっていたヒカルの目が更に一回り大きくなり、やがてぱっと輝いた。
「……分かった」
 微笑んだヒカルには、迷いも怖れも全て受け入れるような強さがあった。
 緒方もまた満足そうに目を細め、今の短い会話のことなど完全に記憶から消し去ってしまったかのように、棋士の顔に戻ってヒカルを促した。
 別室での検討は、それから二時間ほど続いた。






 ***






 北斗杯代表予選――
 ヒカルは、予選決勝で和谷と対局し、三目半の差をつけて勝利した。
 最後まで気を抜かせてくれなかった。普段の和谷らしからぬ攻撃的な一手は、ヒカルの胸を躍らせ、時にヒヤリと汗をかかせる。
 まるで研究会で実験的な一手を楽しんで試しているような、そんなスリル。
 ヒカルは、忘れていた大切な時間を思い出した。
 ヒカルの心を揺さぶった、和谷の言葉が蘇る。
(和谷、ありがとう)
 三目半で負けたのに、和谷は酷く嬉しそうに笑っていた。
 照れ臭くて、今までのことをごめんと言えない代わりに、ヒカルもとびきりの笑顔を見せた。

 再来月に控えた北斗杯の出場選手は、予選を勝ち抜いたヒカルと社、そして今年もシード枠を用意されたアキラの、三年連続の同じ顔ぶれが揃うことになった。
 予選の会場である日本棋院で社と会ったヒカルは、社もまた、自分の異変に気づいていたことを理解した。
 和谷との一局を見た社は、ヒカルの背中を乱暴に叩いて「ええ碁やったで」と称えてくれた。
 その目に優しい含みを見て、ヒカルは相変わらずたくさんの人に迷惑をかけていたことを思い知る。

 予選の様子を見に来ていたアキラと目が合った。
 アキラは静かながら強い眼差しでヒカルを見つめ、ヒカルの勝利を知ると黙って頷いてくれた。
 ヒカルも応えるように微笑み返す。
 後から、その様子を見ていたらしい社に、「人前でイチャつくな」と冗談とも本気ともとれないお叱りを受けることになった。

 風が緩やかに熱を帯びていく。
 厳しかった寒さを忘れて、花が芽吹こうとしていた。






 ***






「おーい、ヒカル〜! 一局打つぞ〜!」
「はーい! 今行くよ〜!」
 祖父の声に蔵から怒鳴り返したヒカルは、碁盤を振り返って優しく目を細め、それから元気よく軋む階段を駆け下りた。
 蔵から飛び出して、祖父が待つ縁側へと急ぐ。もう、そこら中で花が咲き始めていた。
「お待たせ」
「またお蔵で碁盤を覗いてたのか。お前も飽きん奴だなあ」
「いいじゃん。さ、打とうぜ」
 祖父と向かい合う暖かい縁側。
 相変わらず祖父はプロ棋士であるヒカルにニギリを強要し、ヒカルがどれだけ嗜めても置石を置こうとしない。その上指導碁を打とうとすると怒り出す。
 結果として、いつもかなり大差がつくか、中押しでヒカルが勝つことになってしまうのだ。
「ううん、このハネが悪かったか。いや、ここでツケておけば……」
「それより前に、こっちで頭を叩いておかないと、ハミでちゃったらもう立て直せないぜ」
 ヒカルの解説に祖父は表情を渋く歪める。
 そんな祖父にヒカルは頬を緩めて、出された渋いお茶にすぐ顔を顰めた。
「よし、もう一局だ。今度は負けんぞ。……そうだ、美津子さんもちょっとは上達したか?」
「お母さん? ……何が?」
「なんだ、お前知らんのか?」
 ヒカルと祖父は顔を見合わせ、ぱちぱちと瞬きをした。
 祖父の言うことが分からずに首を傾げるヒカルに、祖父が告げた言葉はヒカルの目を丸くさせた。
「美津子さん、お前の仕事をちょっとは理解したいって、近頃ちょくちょくわしのとこに碁を習いにきてたんだぞ」
「え……?」
 ヒカルは祖父の言葉をすぐに飲み込めずに、自分の耳を疑った。
 息を飲んだヒカルに気付かず、祖父は何でもないことのように続ける。
「ヒカルに教えてもらえばいいだろうって言ったんだが、お前が忙しそうにしてるからって遠慮しとったんだ。まだ何も聞いとらんかったのか」
「……お母さんが……」
 ヒカルは薄く開いた口唇でぽつりと呟き、それから胸の奥に広がるささやかな熱を感じてそっと手を当てた。
 アキラに感じるものとは違う、優しい熱の温もり。
 胃が軋みながらも最後まで食べた、おにぎりの味を思い出した――



 自宅のドアの前で、ヒカルは一瞬立ち止まる。
 ただいまと、元気よくドアノブを握るのをやめて、気配を殺してそうっと玄関の内側に入り込んだ。
 静かに靴を脱ぎ、足音を立てないように廊下を進む。
 居間を覗き込むと、リビングテーブルに向かってソファに座る、母の背中が見えた。
 ぱち、ぱち、と控えめな音が響いている。
「……ここに打ったらどうして急所になるのかしら……」
 母の独り言が聞こえて、ヒカルは思わず目を細めた。
 息を殺して近づいて、そっと見下ろした母の手元。いつのまに用意したのだろう、折り畳みの碁盤に詰め碁集を手にして、母は死活の問題に取り組んでいる。
 優しい問題だが、囲碁を始めたばかりの人間には少し気づきにくいものかもしれない。
 ヒカルは口唇の端を持ち上げ、すっと指を伸ばした。
「――これは、ここに打たれると……黒、囲まれちゃうだろ?」
 母が驚いて振り返る。そして、みるみるその顔が赤くなった。
 ヒカルは微笑んだまま、指で碁盤の上を指し示していく。
「だから、先にここを押さえちゃうんだ。それから、こっちに打てば……ホラ、一眼できる。これで生きるよ」
「ひ、ヒカル……」
 驚く母をよそに、ヒカルは荷物を下ろして、ソファの前に回りこんだ。
 母の隣に座り、並べていた詰め碁集の問題を崩して、新たに碁石を並べ直す。
「じゃあ、これならどう? さっきより簡単だろ?」
「……こ、ここかしら」
 母が恐る恐る指差した場所を認めて、ヒカルはにっこり笑った。
「正解! なんだ、ちゃんと分かってんじゃん」
 母は頬を赤らめたまま、照れ臭そうに俯いた。
 ヒカルは穏やかな表情のまま、簡単な解説を始めた。母は真剣な顔でその説明に聞き入ってくれる。
 囲碁の基礎知識はしっかり身に着いているようだった。……いつの間に、一人でここまで勉強していたのだろう……ヒカルは目の奥を突付くじんわり熱いものに気づかないフリをした。
「じゃあ、次はちょっと難しいよ。次はね……」
 母の手はこんなに小さかっただろうか――そんなことを思いながら、ヒカルは丁寧に碁石を並べて動きを説明していく。
 暖かい室内に、時折笑い声が響いた。
 春がすぐそこまで来ていた。







いろんなことぼかしてますがとりあえず一区切り。
(対局終了後のあたりでたらめもいいとこですすいません!)
緒方先生はジョーカー的な役割かなあ……
(BGM:魔法の消えた世界で/山下久美子)