魔法の消えた世界で






「時代を……?」
 尋ね返したヒカルに、行洋は「そうだ」と頷いた。
 言葉の意味を飲み込めず、ぱちぱちと瞬きを繰り返しているヒカルに、行洋はゆっくりと語りかけた。一言一言、ヒカルの心に浸透させるように、低い声の響きは耳から滑り込んで胸のうちで溶けていく。
「一人の碁打ちが担う時代というものがある。様々な出会いがあり、別れがあり、発見と喪失を繰り返して自らの碁の終焉を悟った時、碁打ちは次の世代に夢を見るものだ。saiほどの碁打ちが、君を狭い世界に縛り付けておくような真似はすまい。saiは君に――未来を託したのだよ」
 ヒカルは声を失い、その口唇を微かに震わせながら、行洋の言葉を茫然と耳に受け取っていた。

(未来を……?)

 佐為が失ってしまった未来を……
 碁の道を極める前に、消えてしまった佐為の未来を……




 ――ねえ、ヒカル。囲碁は、囲碁は本当に素晴らしいでしょう……




「勿論、saiから学んだものは消えることなく君の碁の中に生きていくだろう。君はこれからもいろいろなことを経験し、碁を高め、そしてやがて、君がsaiを慕ったように君を慕う新しい世代の碁打ちが現れる。君もまた、彼らに夢を託していくだろう……私が、君やアキラに未来を見ているように」
「先生……」
 床についたままの両手が、カタカタと震えて身体を揺らした。
 ――時代を託した……
 出会いと別れを繰り返し、変遷を遂げる棋風と人生は同じもの。
 時代を託し、未来を託し、次の世代へ夢を見て、その想いは繋がっていく。


 佐為から受け取ったものは扇子。
 あの扇子が指し示す場所は、もうヒカルが打つ次の一手ではない。
 遥かな、未来のその先を――





(佐為……)






 佐為……、佐為……、










 これが……お前の、千年の答えか……









「さあ、顔を上げなさい。君は何も迷わず真っ直ぐに進むといい。君の成長を、私も楽しみにしているよ」
 行洋の優しい言葉にも、ヒカルは身を起こすことができなかった。
 それどころか、更に深く顎を下げて、ぎゅっと目を瞑り、その睫毛の先にぶら下がる滴を零さないように力を込めた。
 口唇を引き締め、顰めた顔を無理矢理に持ち上げる。
 目指す場所が見つかった今、いつまでも泣いてばかりいられない。
 ヒカルは押し殺した息が嗚咽に変わらないよう、慎重に数回深呼吸をして、向き合う行洋にきっちりと頭を下げた。
「ありがとうございました……!」
 涙混じりの声でしっかりと告げ、ヒカルは勢いよく頭を持ち上げる。
 目の前で、微笑んで頷く行洋を見て、ヒカルは目のふちを赤く染めたまま笑った。





 ***





 ばたばたと、落ち着いた趣のあるこの家に似つかわしくない騒がしい音を立てて、ヒカルは廊下を走っていく。
 通い慣れたアキラの部屋。恐らく、仲間外れにされてむくれているだろう、愛しい恋人の元へ。
(塔矢)
 アキラに伝えたいことがある。
(塔矢)
 根気強くヒカルを待っていてくれたアキラに。
 どたどた板張りの廊下を踏みしめる音は、そろそろアキラの部屋にも届いているだろう。襖の扉にノックなんか必要ない。声もかけず、ヒカルは辿り着いたアキラの部屋、障子を破らないように少しだけ気遣いながら、襖を開け放した。
「塔矢!」
 部屋の中央で碁盤に向かっていたらしいアキラが、騒々しい物音に驚いて振り返った。
 目を丸くしているアキラに、ヒカルは勢いそのまま突進していく。
「しん――」
 飛び込んできたヒカルを抱きとめ、バランスを崩したアキラが背中から床に転がった。
 うぐ、と鈍く呻くアキラの声が耳をくすぐる。ヒカルは軽く身体を起こし、自分が下敷きにしたアキラを見下ろしながら、未だ驚いたままの顔を覗き込むようににっこり笑った。
 その屈託のなさにアキラは絶句して、しばらくヒカルの下で呆然としていた。
「……進藤」
「何?」
「……勝ったのか?」
「ううん、負けた」
 歯を見せて笑いながら、そんなことを平然と言うヒカルにアキラは眉を寄せる。
「いい碁だったって褒めてくれた」
 ヒカルがそう続けてやると、ようやくアキラも納得がいったのか、ほっと表情を和らげた。
 ヒカルの腰を抱きながら、アキラは仰向けに転がされた身体を起こす。アキラの太股に馬乗りになっているヒカルを乗せたまま、向かい合って髪を撫でてくれた。
「そうか。父もきっと喜んだだろう」
「うん、また打とうって言ってくれたよ」
 ヒカルはようやく笑顔を見せてくれた目の前のアキラの頬に両手で触れ、まるで壊れ物にでも触るかのようにそっと包んだ。
「……あのな、塔矢。俺、お前に約束したいことがある」
「約束……?」
「うん。……覚えてる? 俺がずっと前に、「いつか話す」って言ったこと」
 アキラがはっと目を見開いた。
 ――覚えてた。
 あからさまな反応を示したアキラに、ヒカルは嬉しくなって微笑んだ。
「……あのな、俺な。お前に、ずっと黙ってたことと、嘘ついてることがある。それも、ひとつじゃなくて……たくさん」
「進藤……」
 ヒカルは一度言葉を区切り、ふうっと大きく深呼吸した。
 それから改めてアキラの目を見つめ、切れ長の黒い瞳がヒカルの言葉を待って揺れているのに、ふっと口元を緩める。
「俺、自分の中で区切りをつけたんだ。俺の……気持ちの整理がきちんとついたら、あの時いつか話すって言ったこと、全部話すよ。お前、それまで待っててくれる? 俺のこと、信じててくれる?」
 アキラは二、三度大きく瞬きを繰り返し、微かに頷きながらヒカルの言葉を飲み込もうとしてくれた。
 やがて、アキラは口角を優しく持ち上げて、目を細めて鮮やかに微笑んだ。行洋とよく似た笑顔だった。
「……当たり前じゃないか。ボクは待つのは慣れてる……。何年だって、何十年だって待つよ」
「そんなに待たせないように頑張るけどさ」
 肩を竦めて笑うヒカルに、アキラも破顔する。

 ――区切りをつけた。
(本当は、佐為を越えることができたらって思ってた)
 でも、もう佐為の影に捕らわれる必要はない。他の誰でもない、ヒカルにはヒカルの道がある。
(もし、俺が俺なりに、自分の道を歩けるようになったって信じられたら)
 そうしたら、必ず……全てを話すよ。
 今まで隠していた、何もかもを。

 アキラはじっとヒカルを見つめている。
 その長い睫毛がぱさぱさと揺れるのに見蕩れて、ヒカルはアキラの顔が近づいてきていることに気づくのが遅れた。
 いつしか息のかかる距離まで接近していた口唇を、ほんの少しだけ驚いて迎え入れる。
 ゆっくり押し当てられた柔らかい感触に、ヒカルはうっとりと目を閉じた。
 皮膚の柔らかさを楽しみ、お互いの熱を共有するだけだった口唇の動きが、気づけばそれぞれのもっと深い部分を求めて強く絡み合う。
 顔を傾け、ヒカルはアキラの首に腕を回して、艶かしい舌の侵入をあっさりと許す。少しきつめに口内を吸われて、呼吸ごと飲み込まれるような、一瞬の眩暈にヒカルは溺れた。
 シャツの隙間から入り込んだアキラの指が、ヒカルの背骨を下から上へとなぞっていく。胸のざわめきと一緒に駆け上った血の流れが、ヒカルから理性を引き剥がそうとする。
「……塔、矢……」
「……ん……?」
 顎に、首筋に、啄ばむようなキスを落としながら、何も悪いことなどしてないと言いたげにアキラが聞き返す。
「ま……まずいんじゃねえ……?」
「……母ならさっき買い物に出かけた。しばらく帰ってこないよ」
「でも……先生が……」
 鎖骨を強めに吸われ、微かに焼けるような痛みにヒカルは顎を仰け反らせる。
「キミ……父に何て言ってここに来た……?」
 ヒカルの身体への優しい、時に悪戯なキスの合間にアキラは囁く。
「ん……? お前と、一局打って、くるって……」
 ヒカルの肩に口付けながら、アキラがふふっと声を出して笑った。その空気の振動すらヒカルを危うく攻め立てる。
「じゃあ、きっと大丈夫だ……。もし父が見に来る気なら、もうとっくに顔を出してる頃だろう」
「ホントに……? もし、入ってきたら……?」
 肩甲骨をくすぐるように撫でられて、ヒカルの肩がびくりと竦んだ。
 アキラはそっとヒカルの顎を指で掬い、挑戦的な目でヒカルを覗き込む。
「そうしたら、キミをボクの恋人だって紹介するよ」
 ヒカルはふわっと目を広げて、それから堪えきれずに吹き出した。
「お前……ホントバカだ」
「馬鹿で結構。……やめる?」
「んん……したい……」
 ヒカルの声を合図に、アキラが体重をかけてくる。
 ヒカルはアキラの背に縋りつくように腕を伸ばし、重みに逆らわず身体を床へ倒した。




 夕暮れ時とはいえ、お互いの顔も身体もはっきりと自然の光の下に見える時間帯に、服を全て脱ぎ捨てて絡み合う。
 足の付け根の一番奥に、脈打つ熱の塊を押し込められて、一定のリズムで優しく揺さぶられ、ヒカルは畳に頬を擦りつけながら声を殺している。
 アキラの胸が、ヒカルに擦り寄るように覆い被さってくる。耳朶をその口唇で食まれながら、
「……ヒカル……」
 ぞくっとするような低い声で囁かれた。
 脳髄まで痺れてしまいそうな甘い囁き。
 ずるい、とヒカルは目をきつく瞑る。
(そりゃ、たまに呼んでもいいって言ったけど)
 こんな時に呼ぶなんてずるい――
 ヒカルはアキラの垂れ下がる黒髪の一房を掴み、ぐいっと自分のほうへ引き寄せた。
 髪の隙間から覗く項に小さく口付けて、
「アキラ」
 そっと掠れた声を届ける。
 ――どうだ、恥ずかしいだろう?
 ヒカルのささやかな企みは、しかし逆効果だったかもしれない。
 アキラは切なげに眉を寄せ、目を伏せたままヒカルに深く口唇を合わせてきた。
 擦れ合う口唇の、その僅かな隙間から、吐息とお互いを呼び合う声が漏れる。
 思考が麻痺して、何も考えられなくなる。確かなものは肌に触れているこの熱と、きつく抱き合っている愛しい人の囁く声だけ。
 柔らかく、時に乱暴に、細やかで大胆な波が、何度も身体を駆け抜ける。
 このまま一番深いところで溶け合って、温もりだけに身も心も溺れてしまえたら。
「ヒカル」
 もう、押し寄せるうねりに逆らいきれない。
「愛してる」
 理性も秩序も何もかも吹き飛ばして、繋がったまま二人であの高みへ――
 もっと高く。強く。高く。
 もっと。
 もっと。



 ……深く。








うわっ自己模倣って思った以上に恥ずかしい……
ヒカルなりに、目指す道ができました。