真夏の雨






 その日は朝から晴れていた。
 天気予報では午後から曇り、夕方には雨。そんな予想がにわかには信じ難い晴天の空を眺め、それでもアキラは傘を手にして棋院へ出向くことにした。
 シンプルな黒い傘は棋院に着くまでに日射しを浴び、握っていた柄は熱かった。
 棋院の出版部で依頼されていた原稿を手渡し、途中で一柳棋聖に捕まって長々と世間話につき合わされ、くたびれる作り笑いと相槌から解放されたのが三十分後。
 ようやく棋院を出た頃には、空は黒くなりつつあった。


 空気が変わったと、アキラは空を見上げた。
 纏わりつくような湿気がアキラの髪の隙間に入り込んでくる。
 蒸し暑さに眉を顰めたが、あらかじめ用意していた傘があるため雨の前触れにも焦りはない。
 当初の予定通り、立ち寄った本屋で新しい詰め碁集を物色していると、ばたばたと騒々しい足音が聴こえてきた。アキラが顔を上げて店の外を伺うと、小走りに商店街を駆け抜けていく人々の姿が目に映った。
 ああ、ついに降り出した――やや上空に目線を向け、店の奥で本を手にしたまま細かい雨の筋を確認したアキラは、しっかりと手にした傘の存在感に安堵する。
 雑誌を立ち読みしていたらしい青年が、困ったように外を見ている。レジで会計を終えて店を出ようとしていた女性も、降り出した雨に戸惑っているようだ。
 無理もない、朝は晴れていたのだから。そんなふうに思いつつ、詰め碁集に顔を戻そうとしたその時。
 ふと、アキラの視界に見覚えのある金色が翻った。
 どきんと心臓が跳ね上がる。
 手にしていた詰め碁集を取り落としそうになり、慌てて正気に返った。
 顔を上げてもう一度目を凝らし、その姿が幻ではないかどうかを確かめる。
 こちらに背中を向けてはいるが、きょろきょろと外を見渡す首の動きに合わせて金色の前髪がきらきら揺れるので分かりやすい。
 しんどう、と口の中で呟く。
 振り出した雨に立ち往生しているのは、紛れもないヒカル本人だった。
 本屋の軒先で上空を見上げながら、どうしたものかと首を傾げているようだ。
 何か本を購入したのか、脇に紙袋を抱えている。どうやら傘は持っていないようで、あのまま外に出たら本も身体も濡れてしまうだろう。
 アキラはごくりと唾を飲み込み、手の中の詰め碁集を棚に戻した。
 右手にはアキラに勇気を与えてくれる傘の存在。意を決して一歩踏み出す。
 偶然だな、よかったら途中まで入っていかないか――頭の中で会話をシミュレーションし、さりげなく傘を差し出す仕草までほんの少し練習して。
 そうして目指す背中まであと少しというところで、
「進藤?」
 自分以外の人間が彼を呼ぶ声が聞こえてきて、予期せぬ出来事に思わず怯んだアキラはさっと身を隠した。
 近くの文房具コーナーに背中をつけるように、軒先のヒカルに背を向けるように隠れたアキラは、文房具が並ぶ棚の影からそっと顔を覗かせて様子を伺う。
 進藤、と彼の名前を呼んだ女性は、本屋の前を通り過ぎようとしていたようだった。セミロングの髪にすらりとした体型、そして右手には水色の傘。遠目だが、確かにアキラには見覚えのない女性だった。
「お〜奈瀬じゃん、久しぶり〜」
「あんた変わんないのねえ。目立つ頭でアホ面晒してるから思わず声かけちゃったじゃない」
「ひっでえ。お前の口の悪さも変わんねーのな」
「ふうん、そんなに濡れて帰りたいんだ」
「あっウソウソ、奈瀬様はいつもお上品でございます!」
 ぺこぺこと頭を下げて調子良く奈瀬の傘の中に滑り込んだヒカルは、そのままだと腰を屈めなければならないことに気づいたらしく、奈瀬の手から傘を奪い取った。
 ごく自然な動作だった。男性的な主張を感じさせるそれとも違う、友人同士の範疇で行われる無邪気な行動に、何故だかアキラは胸が竦んだような気がした。
「俺持つよ。駅まででいいから」
「まだ入れてあげるなんて言ってないんだけどねー。ま、いいわ。それにしてもあんたデカくなったのね」
 二人は談笑しながら本屋を後にする。
 そっと物陰から出てきたアキラは、遠ざかる男女の後姿をぼんやり見送っていた。
 ぎこちなさのない、さりげない友人同士のやりとり。彼らにとっては特別でもなんでもない、日常のワンシーンでしかない出来事。
 アキラが身体を竦ませるようなことは何もなかったはず……だった。
 もう少し声をかけるのが早かったら、ヒカルはあんなふうに自分の傘の中に入ってきただろうか。
 彼女と交わした会話のように、ふざけながらもさりげなくアキラの傘に潜り込んできただろうか。
 それとも、この傘では小さすぎるから嫌だと悪びれずに言うだろうか。アキラとヒカルが並んで入るには肩がはみ出る傘。彼女のように華奢な身体でもない限り。見た目からして不自然な男同士の相合傘だなんて冗談じゃないと笑って答えるだろうか。
 何故だろうか、恐らくヒカルがアキラに対してとっただろう行動を想像するだけで何となく嫌な気分になる。
 今度は彼女に嫉妬したのだろうか? どう見ても特別な関係に思えない、明らかな友人らしい見知らぬ彼女に?
 アキラは微苦笑を浮かべる。
 うまく声をかけられなかったから、面白くない気分になっただけだろうか。
 では気分を変えよう、とアキラは顎を上げた。
 声をかけなくて良かったのかもしれない。もしヒカルを挟んで彼女と目が合ってしまったら、差し出そうとした傘は滑稽に空をきって終わってしまったかもしれないから。
 もしくは、彼女とアキラを見比べて、彼女を選ぶヒカルを見ることがなかっただけでも。
 そんな、自分を慰めるような結論が出てきたことに、アキラは苦い笑みを浮かべた。



 帰宅しても雨は止まなかった。
「ただいま」
 癖になっている言葉を呟くが、人がいないことは分かっている。
 下駄箱に濡れた傘を立てかけたアキラは、靴を脱ごうとしてズボンの裾が濡れていることに気がついた。
 途中で雨足が強くなったせいで水が跳ねてしまったようだ。
(……進藤は無事に帰宅できただろうか)
 確か駅まで、と言っていた気がする。
 たとえ駅まで彼女の傘に入れてもらったとしても、電車に乗って、降りた後に傘がないのは変わらない。
 濡れて帰ったのだろうか。彼のことだから、多少の雨なら走って行きそうなものだが……
 アキラは自室に入り、着替え始めた。思った以上に服は濡れていた。傘を持っていてこれでは、傘のない人間はどれだけ全身濡れ鼠になるだろう。
 風邪など引かなければいいが。口中で呟き、アキラはまた少し笑った。
 自分勝手にアキラが心配していることを、ヒカルは知りもしない。本屋で何かの本を買っただろうことも、女性の傘に入っていったことも、電車を下りたら傘がないだろうことも、アキラが一方的に手に入れた情報のことをヒカルは知らない。
 さぞや気味が悪かろうと、笑いは自嘲を帯びていく。
 もしアキラが彼女より先に声をかけることができて、ヒカルがアキラの傘の中に入ってくれたとしたら、隣り合わせに歩きながら出来た他愛のない話かもしれなかった。
 何か本でも買ったのか?
 今日は仕事はなかったのか?
 天気予報を見ていなかったのか? 雨が降るって言っていただろう?
(……)
 想像の世界に身を置こうとすると、また少し嫌な感覚が胸の内に広がって行った。
 実際には起こり得なかったことを想像するのが口惜しいとでも言うのだろうか?
 ごく自然に、親し気に声をかけた彼女のように、躊躇わずにあの背中に触れていれば、こんな気持ちにはならなかったのだろうか?
(そうだ、躊躇うことなんかじゃない)
 偶然に出会った知人に話しかけるだけのことを、何故こんなに意識しているのだろう。
(知人?)
 アキラは僅かに目を細め、部屋の隅に置かれた碁盤を見据えた。
 ……知人でも友人でもない。
 少なくとも、アキラの中で位置するヒカルはそのどちらでもない。
 そんな勝手な考えを持つアキラがもし、今日のヒカルに声をかけて傘を差し出していたら、ヒカルは彼女に見せたようにさりげない態度でそれを受け入れただろうか。
 その瞬間、アキラは彼の数多い友人の中の一人に成り下がるのだろうか。
 ……やはりそんなことを想像すると、アキラの胸に重苦しい感情が閊えた。


 ――友人でも、ただのライバルでもない。
 アキラにとってはヒカルは特別な存在だから。


 凝りもせずに一方通行の想いを今日も大事に育んでいる。
 中途半端に温もりを知ってしまったこの心と身体は、怖じ気付くことを知らず、そのくせとことん大胆にもなれず、苦い笑みを浮かべて悶々と立ち尽くしている。

 夜半まで続いた雨は日の出と共に雨脚を弱め、人々が目を覚まし始める頃、すっかり空は青さを取り戻していた。






ちょっと懐かしいアキヒカ未満の頃の二人です。
切ないシリアスがテーマでしたが……
切ないかどうかはちょっと微妙なとこですね……