「……っくし!」 「あら進藤くん、カゼ?」 コーヒーのお代わりをテーブルの傍らに置きながら、市河が驚いたように尋ねた。 「市河さん、バカはカゼ引かないとか思ってるんでしょ」 「そんなことないわよ〜ホホホ」 少々憮然とした顔で市河を睨み上げたヒカルは、鼻をすすりながら再び碁盤に向かい合った。 その対面に座るアキラは怪訝そうに眉を寄せて、先ほどからくしゃみを不定期に繰り返すヒカルをじっとり見据える。 少々しつこい視線だったせいか、ヒカルは数分の長孝の末に一手を置いた後、不機嫌そうな顔を上げた。 「なんだよ、鼻詰まってて考えまとまんねーんだよ」 どうやら、アキラが今回の碁の内容に不満を感じていると受け取ったらしい。確かにヒカルの手にまとまりがないのは事実だが、アキラはそんなことを思ってヒカルを見つめていた訳ではなかった。 少し困ったように顎を引いたアキラを見て、ヒカルはその様子が思ったものと違ってしっくりこなかったのか、一瞬きょとんとした顔をすぐにふて腐れたような表情に変える。 「じゃあ、棋士のくせに体調管理がなってないとか言いたいんだろ。それともてめえに移すなってか?」 「いや……、ボクは……」 「何だよ、言いたいことあんならはっきり言えよ。さっきからむすっとしてさあ」 その言葉を聞いた途端、まさしくアキラはむすっとしてみせた。 別に機嫌が悪かったわけではない。案の定風邪を引いたらしいヒカルを心配していたつもりだったのだ。 恐らくヒカルは昨日の雨に濡れたのだ。電車を下りて家までの帰り道、ずぶ濡れになったのが風邪の原因だろう。体調がよくないのに、碁会所なんかに来ていて大丈夫だろうか。――そんなことを思っていたら、自然と顔が仏頂面になっただけだというのに。 心配しているつもりがそうと受け取ってもらえず、売り言葉に買い言葉で、アキラもついつい臨戦態勢をとってしまう。 「棋士の癖に体調管理がなってない? よく分かってるじゃないか。……どうせキミのことだから、天気予報をおろそかにして傘を持たずに雨に濡れたんだろう」 「う……! な、なんでそれを……!」 ヒカルが目を剥いて顔を強張らせる。 やはりそうか。アキラはため息をついた。 ヒカルの性格からして、天気予報をチェックするなんてマメなことはしていないのだろう。出かける時の天気に合わせてどうにかなるさと外へ飛び出す――そういえば今朝も昨日のような晴天の空だった。 しかし、天気予報によると午後からは崩れるとあった。そのためアキラは今日も傘を手にして碁会所へ出向いている。 「今日の夕方の降水確率は70%だ。傘は持ってきたのか?」 「うう……」 「……懲りないな。午前中に晴れてたからと言って、雨が降らないとは限らないと身を持って体験したんだろう?」 「う、うるせー。めんどいんだよ、晴れてんのに傘持って歩くの」 「そんなことだから風邪を引くんだ。これも体調管理のひとつだろう」 きっぱりとしたアキラの言葉にヒカルは何も言い返せなくなったらしい。ふて腐れたように下口唇を突き出していたが、やがて気まずい間をごまかすように市河が置いて行ったコーヒーに口をつけ始めた。 ふた口ほど啜り、急に間の抜けた顔をしたかと思うと、くちゅんとくしゃみをひとつ。それからずるずると鼻を啜る音にアキラは耐え切れず、ポケットティッシュを無言で手渡した。 「……帰ったほうがいいんじゃないか?」 勢い良く鼻をかむヒカルに、アキラは今度こそ心配そうな顔をして帰宅を勧めたつもりだった。 ところが鼻をかみ終わったヒカルは、少し離れたゴミ箱に抜群のコントロールで丸めたティッシュを放り投げると、口唇をへの字に曲げて首を横にぶんぶん振った。 「やだっ! こんな半端で帰れるか!」 ヒカルが言っているのはまさに今対局中の盤面のことだろう。 そう、普段なら対局中にこんなふうに脱線して無駄話をすることなどない。検討の時ならまだしも、真剣勝負の途中で二人が口を開くことはほとんどないはずだった。 それもひとえにヒカルの風邪が原因だった。一手打つごとにくしゃみや鼻を啜る音が派手に響く中、集中力を途切れさせるなというほうが無理だ。現にヒカル自身も頭がぼーっとするのか、碁の内容もキレがあるとは言い難い。 ヒカルは必死で鼻水混じりの長考を繰り返すが、アキラの優勢で進む盤面の差をなかなか詰めることができない。それが納得いかないらしく、せめてこの一局を何とか良い方向へ修正したいと思っているようだ。 アキラはまたひとつため息を漏らした。――本人は鼻が詰まって考えがまとまらないと言っていたが、そんな調子で打ち続けたところでここからの逆転は無理だろう。 それどころか、手が進むごとにヒカルの失着が増えている。いよいよ集中できなくなってきた証拠だ。 引かないヒカルにやれやれと肩を竦め、ならばとアキラは表情を険しくした。 一気にこの対局にケリをつけて、ヒカルを早く帰宅させるしかないだろう―― 「……帰る!」 ガタンと大きな音を立てて、椅子を蹴倒す勢いでヒカルはカウンターへ一直線に走って行った。 条件反射のようにリュックを差し出す市河の手からそれを奪い取り、自動ドアがゆったりと開く間ももどかしく、その隙間に身体をねじ込むようにして文字どおり碁会所を飛び出して行く。 その騒々しい後ろ姿をぼんやり見送りながら、アキラは淡々と碁石を片付け始めた。 思った通り、ヒカルの形勢逆転などあるはずもなく。 それどころか一方的な展開で中押し勝ちをもぎ取ったアキラに対し、めげないヒカルは検討を言い出した。 アキラとしては、早くヒカルを帰してやりたかった。 加えて、風邪で集中しきれていないヒカルの碁がこれ以上乱れて行くのもあまり喜ばしく思えなかった。 それで勝ちを急いだのだし、いざ始めた検討でもばしばしと端的に「これが悪い、あれが悪い」と悪手を指摘して行った。 どうやらその一連のアキラの気遣いが、逆にヒカルの逆鱗に触れたらしい。 いつものように「帰る」と怒鳴って立ち上がったヒカルを、アキラはとめることはなかった。 こんなやりとりはいつものことだし、何より今日のヒカルは風邪っぴきだ。本当なら碁会所になど寄らず、真直ぐ帰宅して安静にしているべきだったのだ。 そのくせ胸に漂う一抹の淋しさに軽く口唇を噛みつつ、碁石を丁寧に碁笥にしまっていた時、市河が慌てたようにアキラの元へ寄って来た。 「アキラくん、雨降ってきたみたいよ。進藤くん今日も傘持ってないって言ってなかった?」 「え?」 言われて窓の外を見るより早く、窓ガラスにぽつぽつと当たる水滴が目に映った。 いつの間にか空はどんより薄暗く、天気予報通りに泣き出してしまったらしい。 アキラは思わず立ち上がった。 その背中を後押しするように市河が続ける。 「結構ひどい風邪引いてたみたいだし、また雨に濡れたらこじらせるかもしれないわよ。アキラくん、行ってあげたら?」 「……、……そうですね……」 呟くように掠れた声を振り絞り、アキラは市河の言葉を利用して自分を納得させるように再び窓の外を見た。 雨が降っている。ヒカルは雨の中走っているのだろうか、諦めて歩いているのだろうか、一人で濡れて帰路を進んでいるのだろうか。 ……ひょっとしたら、昨日のように誰か知った顔を見つけて傘の中に潜りこむかもしれない。 胸にびりりと嫌な刺激が走る。アキラは市河に向き直り、「帰ります」と告げた。 アキラがヒカルを追うと受け取ったらしい市河は、ほっとしたようにカウンターへ戻ってアキラの荷物を用意する。頭を下げながらそれを手にとり、入り口傍に設置された傘立てから黒い傘を抜いたアキラは碁会所を後にした。 階段を下り切った後、ヒカルが帰宅する方向を見据えたアキラは、傘を持たずに濡れている背中を探して走り出した。 |
まだ意思疎通が出来てない頃の二人。
喧嘩もしょっちゅうです。