小雨の中、足早に雨を避ける人々とすれ違う。 閉じた傘を持ったまま走るアキラを不審そうに振り返る者も何人かいた。 アキラはそんな彼らの視線には目もくれず、目当ての背中が見えてこないか、ただひたすら真っ直ぐ前だけを見つめて走っていた。 碁会所を出てから数分も経っただろうか、アキラは前方に見覚えのあるシルエットを認めてはっとした。 少しだけ丸まった背中が跳ねるように揺れた。くしゃみをしたのだろう。 アキラは声をかけようと口を開きかけた。 「――……」 『進藤?』 『お〜奈瀬じゃん、久しぶり〜』 ちらりと脳裏を掠った映像を気に留めた瞬間、喉が貼り付いたように声が出なくなった。 蒸し暑い空気の中で、ひやりと胸を刺すものがアキラの足を止めた。 (……これは……) 思わず湿った胸の布地を握り締める。 拳の下で、どくどくと脈打つ心臓が苦しい。 (……怖れ……?) 何を怖れるというのだろう。 昨日彼女がしたように、ごく当たり前に彼の名を呼ぶことに何の躊躇いがあるのだろう? 呼びかけたら、ヒカルはきっと振り向くだろう。 振り向いて、少し驚いた顔をするかもしれない。 そうして昨日と同じように、さりげない仕草で友達同士の会話を始めるのだろうか。ひょっとしたら、碁会所を飛び出した手前気まずい表情を見せるかもしれないけれど…… ……そんなことをイメージした途端、再びアキラの胸がひやりと痛んだ。 (……ああ、そうか……) 怖れの理由が分かった。 当たり前の存在になりたくない。 ぎこちなさの残る、何度か交わした口付けの後のような甘い痺れ漂う余韻。 戸惑いながらも自分を拒絶しきれない、揺らぐヒカルの瞳を知ってしまっているから。 他の人間に向けるようなさりげなさを見るのが怖いのだ。 昨日ヒカルが彼女に見せたような、自然に傘の中へと入ってくるような存在になるのが怖かったのだ。 立ち尽くしていたのはほんの数秒だったのだろう。 ふいに雨足が強くなり、こめかみを滑り落ちる水滴を感じてアキラは意識を取り戻した。 声をかければ届く距離にいたヒカルの背中が、随分遠くなっている。 離れた距離に今度こそ純粋な恐怖を感じたアキラは、考える間もなく全速力で走り出した。 前触れなくぐいっと腕を掴むと、ヒカルは飛び上がるように驚いて振り向いた。 雨の中を走ってきたせいかアキラは酷い様相だった。ヒカルは幽霊でも見たように目を剥いて、それから呆れたような顔になる。 「お……前、な、なんだよいきなり!」 息が切れているアキラはすぐに答えられなかった。 「声くらいかけろよ! 突然腕掴まれて、化けモンかと思ったじゃねーか!」 荒い呼吸だけで、アキラは尚も答えられない。 それだけではない、ヒカルに何と言葉を返すべきか迷って、アキラは無言で握り締めていた傘を突き出した。 「え?」 ヒカルはまじまじと傘を見る。 目線を下ろしたヒカルの前髪がしっとり濡れそぼって、雨に混じった水滴がはらはら地面に落ちてくる。 ヒカルは傘とアキラを交互に眺めていた。反応に困っているヒカルに気づき、ようやくアキラは口を開く。 「……濡れるだろう」 「へ……」 「風邪。雨に濡れてこじらせるといけないから……」 ヒカルはぱちぱちと瞬きした。 我ながら可笑しなことを言っていると、そんな自覚だけはアキラにもあった。 濡れるから傘をさせとヒカルに告げた張本人がずぶ濡れなのだ。ヒカルが奇妙な顔をするのも無理はない。 それでもアキラはひたすら傘をヒカルに突きつけた。ヒカルは剣幕に押されてか、眉間に皺を寄せて一歩後ずさり、それから大きなくしゃみをひとつした。 それがきっかけになったのか、ヒカルは目を覚ますように首を横に振ってアキラの傘を拒否し始めた。 「バカ、お前だって濡れてんじゃねーか。お前させって。大体なんで雨降ってんのに傘さして来ないんだよ」 「だから、キミに傘を」 「ここに来るまでさしてりゃいいじゃねーか!」 アキラは黙る。 一本の傘を間に、突っ立った二人はどんどん濡れていく。 じっとりした蒸し暑さのせいでアキラは寒いと思わなかったが、風邪を引いているヒカルはどうか分からない。 濡れたままの不毛な睨み合いはややしばらく続いた。 「……傘をさせ」 「……いいよ。もうこんだけ濡れてりゃおんなじだ」 「でも、家に着くまでまだ距離があるだろう」 「ならお前がさせよ。お前こそ風邪引いても知らないぞ」 「ボクは……」 突き出した傘の柄をきつく握り締める。 「キミに……濡れてほしくなくて……」 「……塔矢」 「ボクはいいから……」 心に燻る想いをうまく言葉に出来ず、ぶっきらぼうにアキラは伝えた。 ヒカルは少しぽかんとしていたが、やがて僅かに難しい顔を見せて、それから何か結論が出たのかひとつ大きく頷いた。 そしてヒカルはアキラの手から傘を奪い取り、手早く開いて再びアキラに傘を突き返した。咄嗟に傘を受け取ってしまったアキラは、傘の下で水滴がふわりと遮断された感覚に戸惑う。 ヒカルは傘の下のアキラを覗き込むように、悪戯っぽく笑った。 金色の前髪から滴る雨の雫。 その確信犯のような笑みにアキラの胸がぎゅっと縮む。 「やっぱお前させ。俺だって、お前が濡れんのやだもん」 「しんど……」 「今日、変な碁打って悪かったな。風邪治したらまた行くから!」 じゃーな! と軽い口調で告げたヒカルは身を翻し、アキラに背を向けて雨の中駆け出していく。 アキラが追う間もなくみるみる遠ざかる背中が、くしゃみでぴょんと跳ねるのが見えた。 アキラは傘を持ったまま立ち尽くしていた。 傘の下から覗き込んで来た、雨に濡れた笑顔。 ――俺だって、お前が濡れんのやだもん…… ……ヒカルは「一緒に傘に入ろう」とは言わなかった。 ヒカルの背中が見えなくなってから、アキラはゆっくり傘を下ろした。 再び水滴が天からアキラに降り注ぐ。 そうして静かに傘を畳み、雨の中に身を晒したアキラは黒くよどんだ雨雲を見上げた。 目を閉じると、雨に消えたヒカルの後姿が残像のように浮かんでくる。 少しは彼の中の「特別」であると自惚れてもいいのだろうか。 ――遠雷が聴こえる…… 雷とは天の神様の声であると、幼い頃誰に聞かされたのだったか。 雲より高い空の向こうから、地上を見下ろし雨を降らせて人の澱みを洗い流す。 そうして腹の底まで響く声で、心の澱みも探り取るのだ。 ごろごろ、ごろごろと。 雨に打たれたまま目を開いたアキラは、怪しく光る空を見据えた。 寒さを感じないのは不快な蒸し暑さのせいだけではない。 身体の奥から高鳴る火照りが熱を膿んでいるためだ。 ごろごろと、神の声がアキラの心を探りにくる。 アキラの一人相撲を笑いに来たのだろうか。 それとも、僅かな期待にしがみつくアキラを戒めに来たのだろうか。 ……どちらでも構わない。 ――さあ、くるがいい。 ボクの中にも嵐は吹き荒れている。 ボクはとうに神鳴りなど怖れはしない。 ボクが怖れるのはただひとつ、心を捧げたあの瞳のみ。 魅かれてやまない、この胸を貫くあの瞳が、どうぞボクだけを見つめてくれますように…… ……雨はしばらく止みそうにない。 |
6周年記念リクエスト内容(原文のまま):
「アキヒカで友達以上恋人未満の時期の、
切ないシリアスものをお願いしたいのですが。」
ああやっぱり切ない話にはならなかった……
ある意味純粋なアキラさんでした。
ずぶ濡れでやってきたアキラを見てもそれほど動じない辺り、
ヒカルも少々免疫がついてきているようです。
リクエストありがとうございました!
(BGM:真夏の雨/レベッカ)