サアサアと心地よい水音を耳に、目を閉じて頭から降り注がれるシャワーの湯を受け止める。 額から、こめかみから首を伝って身体を降りて行く湯の感触に、まだ少し眠気を感じていた思考が徐々に醒めていくのが分かった。湯に当たりながら思わず口唇を薄く開き、その隙間から細い吐息を漏らしてしまう。 シャワーノズルを捻って湯を止め、しっとり濡れそぼった髪を掻き上げたアキラは、軽く頭を振って水滴を飛ばした。 それから鏡を覗き込み、濡れて首にへばりついた髪が少し伸びていることに気付いて、そろそろ髪を切りに行こうかなんて思いながらバスルームを出る。 用意していたバスタオルで身体についた水滴を拭き取りながら、以前よりも骨ばって感じる全身に小さく溜め息をついた。 腰にタオルを巻き付けて、目の前にあるシャンプードレッサーの鏡に写った自分の姿を改めて見つめる。 酷い痩せ方をしたものだと今更ながら思い知る。実際たった二ヶ月で五キロ以上も体重が落ちたのだ、見た目がまずいのも仕方がないだろう。痩けた頬はいささか迫力が欠け、気合いを入れるためにもアキラはパンと顔を両手で叩いた。 今日は腑抜けていられない。 マンションに戻ってから初の公式手合い。何と言うことはない予選のひとつだが、アキラにとっては確かな自分を取り戻すための大切な第一歩だった。 自分が何も失っていないことを証明するために、納得のできる結果を出さなくてはならない。 アキラは厚みの減った胸を張り、身体の熱が冷めないうちにと手早く服を身につけ始めた。 *** 棋士たちが朝の挨拶を交すいつもの棋院の風景も、その日はこれまでと少し変わってアキラの目に写っていた。 ぼんやりと輪郭の暈けた塊でしかなかった人々の表情が、はっきりと一人一人違っていることに改めて気付いた。姿形、声、それぞれの個性を持った棋士達が笑顔で、時に難しい顔で親しい相手と話している景色は酷く新鮮に思えて、その当たり前の様子が微かな緊張を感じていたアキラの気持ちを落ち着かせて行った。 好奇の視線がぐるりと自身を取り囲んでいることはアキラも分かっていた。 ここ数カ月、ろくな碁を打ってこなかった。無断で手合いを休んだこともあった。仕事ぶりだって褒められたものではない。悪い噂ばかりがアキラを捕らえて更にひた走ろうとしていた。 こうして見知った人々と軽い会釈を交しても、彼らがアキラに積極的に話しかけて来ることはない。ずっと他人を拒絶するオーラをわざとらしく発して来たのだから無理もないことだった。 全ては自業自得であり、今更現状を否定することはできない。 失った信頼の回復には、新しく礎を築いていくしか方法はない。 長い時間がかかるかもしれない。しばらくは蔑まれる日々を覚悟しなければならないだろう。 それでも――何よりも、この場所に戻りたいと願っている自分のためにも、踏ん張らなくては。 対局場に入ったアキラは、かつてのように背筋を伸ばして顎を引き、しっかりとした目つきで畳の部屋を見渡した。アキラの様子を伺っていた数人が少し驚いたような顔を見せている。 自分だけの殻に閉じこもっていた時は、周りがどんなふうに自分を見ているかだなんてあえて考えないように思考から排除してきた。 しかし、今思えばそれも自分にとって大事な反応だったのだと知らされる。 この身に受ける様々なアクションに、無駄なことは何一つ無い。 全てを受け入れ、吸収して新しいものを生み出す。 そうして人は初めて成長することができるのだと、アキラはようやく実感した。 いつか、この苦しかった時期が自分をもっと高めてくれるだろう。 そう思うと、アキラの心は凪いで表情も自然と穏やかになった。 (大丈夫。今日はやれる――) 指定の碁盤の前に座り、見下ろした十九路の盤がやけに小さく見えることをアキラは確信した。 この小さな空間を、どこまで広げられるのかは自分次第。 碁石を置いた瞬間から、ふたつとできない世界の創世主になる。――これ以上に面白いものは他に知らないと、アキラは周囲に気付かれない程度に口唇の端をそっと持ち上げた。 早く打ちたい。身体の奥で熱が高まって行く。この熱が冷めてしまう前に、疼く右手に石を触れさせたい。 対面に相手が座る気配を感じ、アキラは顔を上げた。軽く頭を下げてみせたが、相手は心なしかぎょっと目を剥いた気がする。 無理もない、アキラは開始の合図を待切れず、すでに鞘から剣を抜いている。瞳が自然とギラつくのを押さえられない。気の弱い相手なら視線だけで射殺す自信があるほど。 (さあ、早く!) ブザーが鳴り響いた対局場で、アキラは誰よりも早く「お願いします」と頭を下げた。 昼の休憩を挟んで数十分後、アキラの対局相手は青い顔で「ありません」と呟いた。 アキラは軽く顎を上げ、細く息を吐き出しながら静かに目を閉じる。 実に三ヶ月振りの勝利だった。 その日の晩、リビングで久しぶりに勝利した一局の検討に集中していたアキラの傍で、帰宅してから置きっぱなしだった携帯電話がけたたましい電子音を鳴らした。 さすがに意識を引っ張り戻されたアキラは、電源を切っておかなかったことを悔やみながらも、渋々碁盤から目を離して携帯に手を伸ばす。短く鳴った音から察するにメールの着信だろう。 時刻は午後の十一時、若者の感覚ではまだまだこれからという時間かもしれないが、随分遅くに非常識なとアキラがメール画面を呼び出して確認した差出人の名前。 「……社」 それは随分久しぶりに見た名前だった。 北斗杯以来、社とは全く連絡をとっていない。 北斗杯では社もアキラの異変に気付いていたのだろう、彼なりに気を使ってアキラに、そしてヒカルに接していたのが今頃になって思い出される。そうだ、あの時は彼にも嫌な思いをさせたのだった――アキラは甦る苦い結果に眉を顰め、社が送って来たメールの本文を開いた。 『まずは一勝、おめでとう!』 アキラは瞬きし、それからふっと目元を緩ませる。 何処から聞き付けてきたのだろう。芦原ですら今日の勝利はまだ知らないはずだった。対局場にいたわけでもない、大阪の空の下にいるはずの社が、一番に祝いの言葉をくれるだなんて。 ――お前の周りの人たちが……どんな思いでお前を見守って来たかも知らないで……! ヒカルの言う通りだ。いつだって誰かに支えられて生きて来た。 それが当たり前すぎて気付いていなかった。どんなに恵まれていることなのかを、知ろうとしなかった。 両親や、芦原や、緒方や、社。――いつも、自分を見守ってくれる人がいる。 (――ボクの居場所はここにある) たくさんの感謝の言葉が溢れて来たが、友人相手にずらずらと文章を並べるのは照れくさく、アキラは『ありがとう』と簡素なメールを返信した。 きっと、勘が良くて面倒見の良い社ならこれだけでも察してくれるだろう。 この短い言葉にどれだけの思いが込められているかを。 自分にとって彼らが大きな支えになっているように、彼らにとっても自分がそんな存在になれる日が来るように、アキラは気を引き締めて目を閉じる。 まずは一勝。――次に繋げるための一勝。 傍にいてくれる人たちに恥じない碁を打つべく、アキラは携帯から手を離して再び碁盤に向かった。 凛とした横顔には一片の曇りもなかった。 |
焦らしプレイで申し訳ないですが、
タイトルからも分かるようにいよいよです。
マイナス5キロ程度で済んだのは、途中から
母の恩恵を受けてたからですね。
次はちょっとだけ社視点で。