もう一度君に






 すっかり古参の棋士の世間話につき合わされて、凝った肩をぐるぐる回しながら関西棋院を出ようとした社は、ちょうど棋院にやってきたところらしい親しい先輩棋士に出くわしてあっと声をあげた。
「上村さん」
「よう社、帰るんか?」
「上村さん、今日あっちで手合いやなかったですか?」
「ああ、早めに終わったからさっさと帰ってきたわ。明日まで締めきりのコラムの原稿、新幹線の中でやっつけたさかい、ついでに持って来た」
 一昨日会った時に、明日は市ヶ谷まで出張やと面倒くさそうに口唇を尖らせていた上村の顔を思い出し、今の対照的な笑顔を比べてこれは勝ったなと社は見当をつけた。
「その様子やと勝ったんですね?」
「当たり前やろ! 関西の棋士ナメたらあかんっつーてビシッとやったったわ!」
 にっと歯を見せて笑う上村は、お世辞にも歯並びが良いとは言えない。顔立ちも全てのパーツがごつごつした獣のような作りなので、こんな顔で凄まれたら対局相手はさぞや震え上がっただろうと、社は顔も知らない相手に同情した。
 帰りかけだったが何となく話が弾んでしまったので、社は一旦棋院の中に戻った。日が落ちかかっているとはいえ外はまだ暑く、話をするなら屋内のほうが身体に優しい。
 今日はやけに長話に縁があると、社は気付かれないよう苦笑した。
「あっちは久しぶりやったでしょ。どうでした?」
「まあ、あそこはいつ行っても変わらんなあ。古本先生に会うたから挨拶してきたで」
「物珍しい話題もないっちゅうわけですか」
「そらなあ。……あ、せや、いっこあったわ。控え室で向こうの連中がざわついとった」
 自動販売機で缶コーヒーを買い、お互い喉を潤しながら交していた会話の途中で、上村がふと思い出したように眉を持ち上げてみせた。
 上村が大袈裟な表情をするのはいつものことなので、社は別段驚きもせずに淡々と尋ねる。
「なんです?」
「塔矢アキラが復活した言うてな」
 社は飲みかけだったコーヒーを派手に吹き出した。
「なんやねん、社!」
「す、すんません。……塔矢が、なんですって?」
 社は袖で口を拭きながら、今最も案じている男の名前を乗せて聞き返す。
 塔矢アキラ。――今年に入って極端に勝率が落ち、その不調は北斗杯でピークを極め、そこから後はずるずると負けを引き摺るばかりで一向に浮上してくる気配を見せなかった。
 あまりの失墜ぶりに、関西棋院でも度々話題に上ることがあった。
 所詮親の七光りだったとか、早熟すぎてこれ以上は伸びないんだろうとか、誰にでもあるスランプなんじゃないかとか。
 すでにリーグ戦には常連になりつつあったアキラの不調は様々な憶測を呼んだが、誰も彼も興味本位で噂するばかりで本気で彼のことを考えている人間などいない。
 それは至極当たり前のことだった。アキラと話をしたことがあるどころか、会ったことさえほとんどないような人間が揃っていたからだ。
 しかし社は違う。四度の北斗杯を共に戦い、プライベートでもちょっとしたつきあいがある。おまけに、アキラの重大な秘密を知っている。他の誰も知るはずのない大切な秘密を。
 人よりもアキラと親しい社は、アキラの不調の大まかな原因も分かっていた。ある出来事がアキラをどん底まで叩き落としたことも。
 そして、叩き落とした張本人が、アキラの目覚めを信じて辛抱強く待っていることも。
 アキラの様子を心配しつつ、社は社で忙しい日々を送り、あまりアキラの状況を確認することもできていなかった。最後にヒカルと会ってからもうすぐ一ヶ月になる。そろそろ探りを入れてみようかと思っていた矢先、上村からアキラの名前が出て来たので過剰に反応してしまったのだ。
「そういや、お前は塔矢と何度か一緒やったもんなあ。北斗杯で」
「はい。……アイツ、今日対局やったんですか」
「ああ、不調やっちゅう話は聞いとったから俺も遠巻きに様子伺っとったんやけど、しゃんとしてそんな素振りもなかったで。やっぱ噂が一人歩きしとったんかなって思ったくらいや。せやけど控え室で他のヤツらが面喰らった顔して言っとったんや、「あんな塔矢は久しぶりに見た」って」
 社の胸がどくんどくんと大きく拍動し始めた。
 上村の言葉は本当なのだろうか。あの、死んだような碁を打っていたアキラが、社がよく知る以前のアキラに戻ったのだろうか。
「そ、それで、結果は? 上村さん、結果知ってます?」
「おう、中押しで勝っとったで。それでますます周りがざわついてなあ、しばらく勝っとらんかったっちゅう噂はホンモノやったみたいやな」
「……勝った……中押し……」
「なんや社、豆鉄砲食らったみたいな顔しよって。おーい? 社?」
 社はまだ中身の入った缶を握り締めながら、震える脚で立ち尽くすのが精一杯だった。
 脈打つ胸の中に、じんわりと暖かな感覚が広がって行く。
 越えられたのだろうか。――ヒカルの想いはアキラに届いたのだろうか。

『お前、アイツを誰だと思ってんだよ。』

 自信ありげに笑みを見せた、ヒカルの眩しいくらいの表情が今も瞼に焼き付いている。

『塔矢アキラだぜ。気付かねえはずねえだろ!』

 きっと届いたのだ。
 静かながら、誰よりも強いヒカルの想いが。



 初めてヒカルがアキラへの想いに気付いた時、彼はただ戸惑うばかりでなかなか足を踏み出すことができなかった。その第一歩は、社が背中を突き飛ばして無理矢理踏ませたようなものだ。視線を交すことさえ恥ずかしがっていた二年前。
 あれから随分時間が経って、ヒカルは確かに大人に近付いた。落ち着きを得て、物事を冷静に捉えられるようになり、アキラとの関係も実に密度の濃いものになっていたようだった。
 唯一彼らの関係を知る社は、二人がどれだけお互いを大切にしていたかをよく理解している。信じ合っている彼らの事がとても好きだった。脱力してしまうような惚気に突き合わされることは多々あれど、二人の一番近くにいる友人として必要とされていることを密かな誇りに思っていた。
 ヒカルがアキラに別れを告げたのだと聞いてからもうすぐ一ヶ月。
 別れの裏にある、ヒカルの大きな愛情を知る社にとって、一日でも早くアキラが復活することを願う他できることは何もなかった。
 役に立てない歯がゆさもあり、しかしアキラを信じたい気持ちもあり。
 友を思って悶々とする日々は決して晴れやかではなかったけれど。
 力強いヒカルの言葉を思い起こし、きっと大丈夫だと信じ続けて来た。
 なんたって、彼は塔矢アキラだ。これほどまでに説得力のある言葉もないだろう。


 興奮冷めやらぬまま一人暮らしのアパートに帰宅した社は、荷物を床に投げ捨ててどっしり床にあぐらをかいた。
 まだ胸がざわめいている。頬の内側が熱い。鏡で見たら子供のように紅潮しているに違いない。
 気持ちを落ち着かせるために腰を下ろしたが、そわそわと疼く心はそう簡単には祭状態から解放されそうにない。社は浮き立つ心そのままに、携帯電話を取り出した。
 ――何か、メールでも送ってみようか。
(いや……変にメールなんかして刺激さしたらあかんかな)
 まだ一度勝ったというだけなのだ。マグレということもあるし、本当に復活したのかどうかはこの目で見ないと分からない。
 しかし、上村の話ではそれまでとは違うしっかりした様子だったらしい。周りの棋士たちが驚いていると言っているくらいなのだ、明らかな変化があったのだろう。
 ―― 一言くらい、祝っても大丈夫かな。
(気に障ったんなら無視するやろ。せやな……返事返って来なくてもええから、一言くらい……)
 この喜びを本人に伝えたい。
 ささやかながら、応援している友人の一人として。
 そうして携帯片手に散々迷った結果、社は短いメールをアキラに送ることにした。

『まずは一勝、おめでとう!』

 あまりアキラを刺激しないよう、できるだけ気を使った短い言葉だった。
 返事は期待せず、送ったことに満足し、もう一度心の中で久方ぶりのアキラの一勝を喜んだその時、意外にも社の携帯に早い反応が返って来た。
 社は驚いて携帯に飛びつき、届いたメールを確認する。差出人は確かにアキラだった。目を見開いたまま、開封したそのメールには――

『ありがとう』

 たった一言、短い礼が添えられていた。
 短いが、……この短い言葉がどれだけ重いものか、二人と長年つきあってきた社にはよく分かる。
 ――立ち直った。アイツ。
 口の中で呟いて、社は瞳の奥からぐっと迫り上がってくるものを堪えようと口唇を噛む。
「なんや……、礼なんて、言わんでも……」
 堪えようとすればするほど、社の顔はみっともなく崩れて行った。
 誰がいる訳でもない一人の部屋なのだから、感情に任せてぐしゃぐしゃにしたって構わない顔だけれど。
 それでも社は大きく鼻を啜り、腕で目を擦って堪えた。
 アキラはまだ戦っている。ようやく、前を向いて歩き始めたのだ。
 ヒカルが待つその場所を目指して。
 一ヶ月前、最後に見たヒカルの笑顔がはっきりと脳裏に甦った。



 ――アイツが自分で、そのことに気付くまで……待つよ。ずっと。



(頑張れよ。塔矢。……進藤。)
 ぐずぐずと肩を揺らしながら、社は近いうちにヒカルからの吉報が入ることを願って一人微笑んだ。






影の苦労人、社視点でした。
本当は番外で入れようと思ったのですが、実は6話中この話が
一番長くなってしまって、一話として独立させてしまいました。
そして今回先輩棋士も出しちゃったので、たぶん
いつも以上に大阪弁がグダグダです……すいません!
あまりに酷かったらどうぞこっそり教えて下さい……