もう一度君に






 懐かしい定位置のソファに深く腰を下ろして、ヒカルは酷く御満悦のようだった。
 アキラが持って来たカフェオレを受け取り、一口含んで満足げに目を細める。そんな久方ぶりの光景を同じく細めた目で眺めていたアキラは、ヒカルにカップを手渡して空いた右手を腰に当て、左手に自分用のカップを持って軽く首を傾げてみせる。
「それで、準備はどうするんだ? ボクはいつでも構わない」
「ん〜、そうだな。来年まで待ってくれるか?」
「来年?」
「うん。来年の……五月にする」
「五月!?」
 途端にアキラの眉間に皺が刻まれ、穏やかだった表情が訝し気に顰められた。
 アキラは持っていたカップをガラステーブルにことりと置いて、神妙に腕を組み立ったままヒカルを見下ろす。
「どういうことだ。半年以上も先じゃないか」
「別にいいだろ。どっちみちすぐは無理だ。仕事詰まってんだよ、引っ越しの準備なんて時間かかるだろ」
「それはそうだが……、でも、何だってそんな中途半端な時期に」
 明らかに不服そうな顔で小さく口唇を尖らせるアキラを見上げ、ヒカルはおもむろに微笑みかけた。
「……仕事、忙しいのはマジだし。それに、急がなくてもいいだろ……?」
 穏やかな笑みにうっと言葉を詰まらせたアキラは、軽く眉を垂らしてふうと溜め息をついた。
 どうやら了解してくれたようだが、不満が完全に解消された訳ではなさそうだ。
 無理もない。
 一緒に暮らそうと言った時、アキラはしばし放心したように固まって、それから意識を取り戻した後は端から見て恥ずかしくなるくらい、喜びを顔いっぱいに表していた。
 あの調子では明日にでも引っ越して来いと言い出しそうで、いや、実際そう思っていたのかもしれなくて、「いつ」をはっきりさせなかったヒカルに対して待ち切れずに質問してしまったアキラが愛しくてたまらないのだが。その返事が「来年の五月」では落胆させても仕方がない。
 実際、仕事が忙しいのは本当だった。
 半年先までスケジュールはびっしりで、更に日が進むごとに突発的な仕事が入って来るだろうことを考えると、妥当な線ではないかとヒカルは暦を頭に思い浮かべる。
 それに、咄嗟に口をついて出てしまった思い付きのため、親にはまだ何の了承ももらっていない。頭ごなしに反対されることはなさそうだが、それでも用心してかかったほうがいいだろう。何といってもヒカルは家事全般が全く出来ない。
 アキラと同居を始めるなんて言ったら、面倒な家事を全てアキラに押し付けるつもりではと母親が目くじら立てたっておかしくない。アキラが一人暮らしを立派にこなしていることを話してしまっているので余計にだろう。口論の末に飛び出すなんて真似はしたくないので、やはり準備期間は長めにとっておいたほうが良さそうだ。
 ――それに、何よりも。
 アキラは追求しなかったが、ヒカルはあえて「五月」と具体的な月を指定した。
 いよいよ、心のけじめがつきそうだ。
 あと八ヶ月。……いや、あと七ヶ月とほんのちょっと。
 指折り数える楽しみがひとつ出来て、ヒカルは一人ほくそ笑んだ。
 そんなヒカルを、不思議そうに腕組みしたままアキラは首を傾げて見下ろしている。まだ眉間に寄ったままの皺がやけにセクシーで、少し頬は痩けてしまったけれどやっぱりアキラは良い男だと改めてヒカルは実感する。
 カフェオレを大きくふた口、ごくごくと飲み込んでふっと息をつき、カップをアキラと同じくテーブルに置いた。
 もう時刻は大分遅くなっている。検討にも時間がかかってしまったし、精神力をフルに使った大一番の後で、疲れていないはずはないのだけれど。
 復縁(という表現が当てはまるかどうかは微妙なところだが)したばかりなのだ、二人きりで気持ちが昂らないはずもなく。
 ヒカルは「はい」とアキラに向かって両腕を伸ばしてみせた。
「……?」
 にこにこと腕を差し出すヒカルに、アキラがまたも不思議そうに首を傾げる。
 座ったまま伸ばした腕をアキラに向け、ヒカルは念を押すようにもう一度「はい」と言った。アキラは今度は反対側に首を傾げて困った顔をする。
「……何が「はい」なんだ?」
 ついに疑問を口に出したアキラに対して、途端にヒカルは不機嫌そうに口唇を尖らせた。
「お前なあ、この体勢で「ハイ」って腕伸ばしたらアレしかねえだろ! 男の夢!」
「男の……夢……?」
「お姫さまだっこだよ。男のロマンだろが!」
 力説するヒカルの目の前で、アキラは深い溜め息をついてみせた。
 わざとらしい様子にヒカルはますます顔を顰める。
「進藤……、それがボクの台詞ならまだしも、される側が言うのはどうかと思う」
「んだよ、させてやろうって言ってんのに!」
「あのな、進藤。見ての通り、ボクはこの二ヶ月で五キロ痩せた。しかも家にずっと閉じこもっていたから体力も落ちたし、腕力も例に漏れない」
 綺麗な顔を呆れたように歪めて、アキラは懇々と説き始める。
 不貞腐れたヒカルの顔に向かってびしっと人さし指を突き出し、尚もアキラは続けた。
「対して進藤、キミはこの一年で五センチ以上伸びただろう。ほとんどボクと身長は変わらない上、しっかり筋肉もついて全く問題のない健康体だ。そのキミを、今のボクがどうやって持ち上げろと言うんだ」
「何だよ! それじゃ俺がデブって言ってるみてーじゃねえか!」
「そうとは言ってない! だが、明らかに今のキミはボクより重い!」
「お前がニートみてえに引きこもってるからだろ! 情けねえこと言いやがって! 男なら気合いで持ち上げてみろ!」
「無理だ!」
「根性無し!」
 至極真剣に不毛なやりとりに無駄な時間を費やし、両者一歩も引かず、そろそろ息切れしてきたヒカルが決着するべく言い放った言葉がコレだった。


「お前が俺を持ち上げられるようになるまで、当分エッチは無しだ!」













『……ていうのは冗談のつもりだったんだけどさあ、アイツ本気にしちゃってもうずっと筋トレしてんの。すげー単純だと思わねえ?』
「……進藤、俺もう電話切ってええか」
 ヒカルからの吉報を待ち望んで耐えた二ヶ月、俺の貴重な時間と純真な涙を返せと社は切に思った。






バカップルVS苦労人の構図は永遠……
うちのヒカうすらデカくてごめんなさい……
別に心底お姫さまだっこしてもらいたかった訳じゃないけど、
アキラの言い方がちょっとむかついた模様。
お前ら揃って社に謝れ。