もう一度君に






 本因坊リーグ挑戦者決定戦。
 中央に据えた碁盤を始点に、それぞれ対面に座る二人は厳しい表情を崩さない。
 緒方精次三冠対、進藤ヒカル五段。
 すでに持ち時間は両者とも残り少なく、短くかつ正確な判断が強いられていた。そのためか、一度休憩を挟んだ時はまだ穏やかに感じられた室内の空気も、今は触れる皮膚に痛みを感じる錯覚が起こる程にピリピリ張り詰めている。
 数分貴重な時間を費やした緒方が、すいと指先を走らせ石を打った。
 ヒカルの眉がぴくりと持ち上がる。
 きゅっと結んだ口唇はそのまま、盤上を睨むヒカルの目つきが更に険しくなった。それでも数秒の間でヒカルは次の一手を打ち返す。
 緒方が応える。ヒカルもやり返す。
 打ちながら、二人の目が四方を確認している。終幕が遠くないことを察しているのだろう。最後まで気を抜くまいと、致命的な欠陥がないかどうかを再確認しているようだった。
 ふと、緒方が打ったその手にヒカルの動きが止まった。
 二秒ほど経て、その目がはっとしたように見開かれる。
 それからすぐに、打つまでに少し時間がかかった先ほどの緒方の一手に視線を走らせた。そうしてヒカルは眉間に皺を寄せ、何かを察したように口唇の端を噛んで目を閉じる。


「……負けました」


 両端から力強く引っ張られていた糸が、ぷつりと切れた瞬間だった。
 空気が解れるようにわっと歓声が上がり、関係者が立ち上がって二人に近寄って来る。記者はペンを片手に、カメラマンもカメラを構えて眩しいフラッシュを焚いた。
 ヒカルは脱力したように肩から力を抜き、ふうと長い溜め息をついた。
「おめでとうございます、緒方先生!」
「いよいよ四冠狙いに行けますね!」
 周囲から次々に声をかけられる緒方は、薄い笑みで控えめな会釈を返していた。
 そんな緒方を碁盤を挟んだ距離で見つめるヒカルは、どこか吹っ切れたような、それでも悔しさの滲む表情を湛えて静かに座ったままだった。
「進藤くんもお疲れさま! 惜しかったよ、ホントに」
 肩を叩かれて、負け惜しみじゃなく笑顔を見せる。
 良い勝負だったという自負はあった。中盤の攻防ではうまく競り勝ったと思っていた。その後すぐに侵入した部分を補強され、差は分からなくなったが、最後まで勝ちにいったつもりだった。
 最後の最後で、ぐうの音もでないほどにとどめを刺された。せめて大ヨセまで持って行きたかったが、どう足掻いてもひっくり返せない状況を理解していながら投了を渋ったって仕方がない。
 記者が緒方に今の心境は、なんて質問を投げかけている。当たり障りのない答えを返している緒方の堂々とした雰囲気は、まだ自分には少し足りていない――ヒカルはそんなことを思いながら、終わった碁盤を見つめて石の並びを目で追った。
「このまま検討するか?」
 ふと、額に声がかかり、顔を上げると眼鏡を外した緒方が細い目でヒカルを見据えていた。
 ヒカルは少し考え、それから軽く首を横に振った。
「いや、今日はいいや。……負けた原因は分かってる」
「そうか」
 にやりと口唇を釣り上げた緒方は、拭いた眼鏡を再びかけ直し、関係者に急かされるまま立ち上がろうとした。
「緒方先生」
 ヒカルはそんな緒方を呼び止め、淀みない目をきっぱりと向ける。
 ヒカルを見下ろす緒方が足を止めたのを確認して、ヒカルはにっと笑った。
「獲ってよね、本因坊。……そしたら、次は俺が緒方先生から獲るから」
 挑戦的なヒカルの目に、緒方もまた何かを企むような笑みを見せ、ふっと鼻を鳴らした。
「楽しみにしてるぜ」
 交す視線が目に見えない熱を持っているようで、聞こえるはずのない火花の音さえ耳に届いたような気がした。
 ヒカルは怯まずに緒方を見据え、そんなヒカルにもう一度にやりと笑った緒方は、ついと目を逸らして関係者に囲まれたまま対局室を後にした。緒方の背中を見送ったヒカルも、さて、と立ち上がる。
「進藤くん、この後の予定は? ちょっとコメントいい?」
 記者が興奮した顔を向けて来るが、ヒカルは苦笑いを見せてすいません、と首を傾げた。
 記者も気付いたのか、あ、と小さな声を上げて頭を掻く。
「そっかあ、今日は早く帰りたいか」
「すいません。明日出版部に顔出します」
「よろしく頼むよ。おめでとう」
 勝利とは違う祝いの言葉にヒカルははにかむ。それが皮切りになったようで、周囲から口々に祝いの言葉を寄越されて、照れ笑いを見せながらヒカルはなんとか対局室を出た。
 それから疲れた身体に鞭打って、家ではなく真直ぐにアキラのマンションを目指して棋院を出た。







 碁盤の上に並ぶ石の模様を、真剣な顔で見下ろすアキラ。
 その様子からして、どうやらアキラにも合格点はもらえそうだとヒカルは腕組みしたまま息をつく。
 アキラはしばらく黙っていたが、おもむろに人さし指をある一ケ所に向けた。ヒカルもすぐに理解した。終盤、緒方が仕組んだ巧妙な一手。
「――ここは絶妙だな」
「ああ。それでやられちまった」
「この後、立て直す方法はないだろうか? 例えば、こうして……」
 アキラは少し石を崩して新たな道を並べ始めたが、納得のいくものではなかったらしく、難しい顔をして再び崩す。
 ヒカルは軽く苦笑して、「読めなかった」、と漏らした。
 アキラが顔を上げる。
 軽く目を伏せたまま、ヒカルは薄ら笑みさえ浮かべて、負けた碁を静かに見つめていた。
「読めなかった。……読み切れなかったんじゃない。「読めなかった」んだ」
「進藤……」
「今の俺じゃまだ緒方先生には敵わない。何度やっても結果は同じだと思う」
 淡々とそう告げた後、ヒカルは顎を持ち上げ、アキラに向かって力強い目を向けた。
 軽く息を呑んだアキラに、ヒカルは言葉を続ける。
「俺はまだ伸びる」
 アキラがはっとした。
「今日の一局で分かった。今の俺はまだまだ足りないものがあるけど。……ここが限界じゃない。俺はもっともっと強くなる……それが分かったから、悔いはねぇよ」
 きっぱりと言い放ち、ヒカルは組んだ腕を解いてあぐらをかいた両膝に乗せ、碁盤を見下ろしてしっかり頷く。
 ――追うべき背中が幾つもある。
 途方もなく長い道のりの果ては、そう簡単にはたどり着けるものではないようだ。
 しかし、胸の中で息づく様々な経験は決して無駄にはならない。
 一年後の自分は、半年後の自分は、一ヶ月先、明日、五秒後だって今よりもっと上を目指していけるはず。
 そうして道を紡いできたのだ。……今までも、これからも。


 志は高く。
 夢は遠く。
 地を蹴って、空に舞い、伸ばした腕に掴むものはまだなくとも。
 遥か向こうにぼんやりと浮かぶ、あの場所を目指す歩みを止めない。
 可能性は無限大。死ぬまでに生きつけるかも分からない、あの大きな背中……――神の一手に続く道。


 次に碁盤に向かう時、今よりずっと強くなった自分に会える。
 ヒカルは微笑んで、ゆっくりとアキラに顔を向けた。

 言葉は驚くほど自然に零れて来た。


「塔矢……、……一緒に、暮らそうか。」


 ヒカルの前で、アキラが呆けたように目を見開き、ぱち、ぱち、と不規則に大きく瞬きを見せた。
 時間を止めてしまったアキラの様子が可笑しくて、ヒカルは思わず歯を見せて笑う。


 ヒカルが十九歳の誕生日を迎えた夜のことだった。






本編のひとつの節目終了です。
ここまでを、仮に第一部と考えても良いかも……。
ここからアキラさんが二十歳になるまでの短い間が、
第二部……ようするに「蛇足」というわけです!
ここで終わったほうが良いと分かっていながら、
「馬鹿野郎、蛇足書くために二次創作やってるんじゃ!」なんて本音も。
そんなわけで次回からは蛇足部分におつき合いください〜。
念のため補足すると、世の中のいろんな作品の第二部が
みんな蛇足だと言ってる訳ではありません〜!
あくまでうちの本編についての話ですので〜

ちなみに、更にこの話の蛇足である「もう一度君におまけ」はこちらから
最初にお断りすると、雰囲気壊したくない方は見ない方が!
(BGM:もう一度君に/Tourbillon)