Nameless Greenness






「ちょっと、大人しい構えでしたね。後手に回って足が遅くなった」
 盤上に伸びる数人の指先。そのうちの一人が石を幾つか並び替えると、即座に反対方向からも手が伸びて来る。
「ここで様子を見たのは良い判断だったと思いますが。流れを変える一手が欲しかったかな」
 碁盤の側面で解説をする棋士の言葉を書き留める記者。
 その言葉に興味深い様子で何度か頷きながら、対面に座る畑中も時折意見を挟む。
 アキラはそれらの会話を終始黙って聞いていた。あまりに無反応なのも不信感を与えるので、目だけは動かしてきちんと話を聞いているという素振りを見せて。
「では検討はこのくらいにしますか。お疲れさまでした」
「お疲れさまです」
「畑中先生、どうですか、この後軽く」
 頭を下げた途端に解れて来た大人達の声を耳にしつつ、アキラは静かに立ち上がって対局室を後にしようとした。
 先頭を切って部屋を出るアキラの背中に、控えめではあったが不用意とも言える声の大きさでこんな言葉が届く。
「塔矢アキラ、三連敗か。やっぱ北斗杯の二敗もただの不調じゃないのかもな」
「おい」
 嗜める声も当然耳に入ったが、それらの言葉に対してアキラの身体が僅かでも反応を示さなかったのは幸いだった。
 恐らく彼らは聞こえていなかったのだと安堵しただろう。
 限り無く無に近い表情を携え、アキラは緩く口唇を結んだまま対局室を出て行った。





 マンションに帰宅した頃、大分日が長くなった昨今とはいえ辺りはすっかり闇に包まれていた。
 誰もいないリビングで手探りに電灯のスイッチに触れ、間を置かず明るくなった室内で小さくため息を落とす。
 無性に首周りが苦しく感じて、アキラはリビングのドアを開け放したまま、すぐに寝室へと踵を返した。
 寝室でネクタイを外し、シャツのボタンを緩める。首元がくつろぐと、再びため息が漏れた。
 ――苛立ちの原因は勝てないことにある訳ではない。
 北斗杯以降、いや本当はその前から、アキラは周囲にもはっきり分かる程勝率が落ちていた。
 最初は気遣ってかあまりそのことに触れて来なかった人々も、アキラの不調が長引いていると分かるとぽつぽつと様子を伺う素振りを見せ始める。
 まだ、遠巻きに噂されている程度なら構いやしない。そんなものは気にならない。タチが悪いのは直接「何かあったのか」と偽善者面で相談を引き受けようとする輩だった。
 曖昧な笑顔で何でもないことを伝えても、正義感に燃える彼らは簡単には引き下がろうとしない。下らないやりとりに時間を裂かれることはアキラにとっては至極迷惑な話で、そんなことがここ最近連続していたせいもあって、薄暗いマンションの部屋に帰って来た時のアキラはいつも不機嫌だった。
 ――勝てない理由など分かり切っている。
 勝つ気のない人間が、ギリギリの精神力で挑んでくる相手に適うはずがない。
 まさか、勝ちたいと願えば勝てるなどと幼稚なことを思ってるんじゃ――いつかアキラ自身が社に言った台詞だが、その幼稚な希望すらなければそもそも勝ちには繋がらない。
 負けが込んでも気持ちは落ち着いている。勝つことへのこだわりがあまりなくなったのだ、結果に対して何とも思わないのも当然だろう。
 それでも、対局に手を抜いているつもりは更々なかった。そのため、ある程度の無難な展開にはなる。しかし決め手はない。今日の一局も、終始穏やかに進んだ盤面は石の並びだけを見ればそれほど悪い内容ではなかったはずだ。
 彼らが必要以上に失望するのは、アキラが「塔矢アキラ」であることに他ならないからだろう。
 その無条件に欲される期待がアキラを日々苛立たせる。

 ピンポーン……

 ちょうどリビングにアキラが戻って来た時、柔らかいチャイムの音が鳴り響いた。
 こんな時間に尋ねて来る相手は一人しかいない。――何度言っても持ち歩いているはずの合鍵で勝手に入って来ることはなく、律儀にエントランスでアキラのルームナンバーを入力する恋人。
 アキラはインターフォンの液晶画面に映ったヒカルの姿に目を細め、解錠しながらスピーカーに声をかけた。
「開いたよ」
『ああ』
 スピーカー越しに聞こえて来るヒカルの声は少し低く曇っている。
 はっきりとは感じられなかったが、どうやらヒカルの機嫌もあまりよくないようだ。
 恐らく、今日の一局の棋譜を出版部辺りで見て来たのだろう――アキラはヒカルから食らう小言を覚悟して、またひとつため息をついた。




 ドアを開いて招き入れたヒカルは、想像に違わず堅めの表情で靴を脱いだ。
 いつものように肩にリュックをぶら下げて、リビングに入るとソファの傍らに放り投げる。それはすでに日常の風景のひとつとして、気に留める行動ですらなくなっていた。
 アキラが何か飲み物でも、とキッチンに向かいかけた時、
「お前、帰らねぇのか」
 ソファにぼすんと腰を下ろしたヒカルが低く呟いた。
 アキラは振り返り、意外な問いかけに首を傾げてみせる。
 ヒカルは背凭れに深く背中を預けて、顔だけをアキラに向けて厳しい目を光らせていた。
「先生、帰って来てるって言ってただろ。しばらく居るって」
「ああ……、そうだけど。しばらく居るんだから、急いで会わなくても」
「会えって言ってんじゃねえ、帰れって言ってんだ。……お前、一度帰ったほうがいい」
 ヒカルの言葉の意味が分からず、アキラはぱちぱち瞬きをしてみせる。
 冗談めいた様子の見られないヒカルの口調に、アキラはまるで外国人がとるポーズのように空へ向けた両手のひらを軽く持ち上げてみせた。
 茶化すようなアキラの仕草を見て、ヒカルの目つきが鋭くなる。
「俺の話、聞いてんのか?」
「聞いているよ。……何故帰れだなんて? 顔を出せ、じゃなくて?」
「少しの間ここを出たほうがいい。それで、親父さんと打ってもらえ……」
 普段は「先生」と呼ぶアキラの父のことを砕けた調子で「親父さん」と言ったヒカルに、アキラは顔を顰めてみせた。
 父親の存在を強調されるのは、まるで自分が庇護の必要な人間であるかのような錯覚を起こし、アキラにとって気分の良いものではなかった。
「キミの言っている意味が分からない。何故ここを出なければならないんだ?」
「こんなとこに閉じこもってるから、余計に酷くなるんだ」
「こんなとこだと?」
 吐き捨てられたヒカルの言葉がアキラの神経に触り、思わず大股でソファに近寄ったアキラはヒカルが背中を預ける背凭れを押し込むように手をついた。
 見下ろすアキラに対して、アキラの手のひらの横でしっかり顎を持ち上げたヒカルに怯む様子はない。
 しばし続いた無言の睨み合いは、おもむろにヒカルが口を開いたことで均衡が崩れることとなった。
「……今日の本因坊リーグ。畑中先生との対局……棋譜、見たぞ」
 ――やはり来たか。
 アキラは背凭れから手を離し、ゆったりと腕組みをした。
 ヒカルはアキラを射抜くような視線を投げ付けて来る。
 お説教が始まるらしい。アキラはこの日何度目か分からないため息をついて、肩の力をすとんと抜いた。






いよいよ審判の時ですね。
うまくまとまってくれますように……