本因坊リーグ第五戦、畑中九段との対局はアキラの四目半負け。 先月行われた芹澤との第四戦も、中押し負けを記した。 特に芹澤との一局は北斗杯の直後でもあったため、いろいろと詮索の含んだ噂を立てられた。 対してヒカルは最初に落とした第一戦の後は二連勝を重ね、四戦目で緒方相手に敗北したものの、今月の五戦目は手堅く勝利を得て現在三勝二敗。四勝の緒方に次ぐ勝ち星をあげている。 来月、第六戦ではアキラとヒカルが当たる。 「メリハリのねえ碁にどんだけ時間かけてやがる」 「随分な言い方だな。これでもボクなりに」 「真剣に、か? もう聞き飽きた」 「進藤」 いつになく喧嘩腰なヒカルの口調を受けて、アキラの声も鋭さを増す。 近頃はこんなふうに、アキラの碁に対する姿勢をヒカルに咎められることがしょっちゅうになっていた。 ヒカルが口煩くなり始めたのはもうずっと前からだが、それにしても最近のヒカルはだんだんと言葉を選ばなくなっている。 アキラが負けた碁の棋譜をどこからか手に入れて、やれ検討だと怖い顔で碁盤を引っ張り出す。北斗杯で二敗したあの棋譜も随分と検討させられた。その時間は確かに有意義なものではあるのだけれど。 日に日にきつい眼差しを向けて来るヒカルに対して、アキラも声を荒気ることが珍しくなくなってきた。その様子はかつて碁会所で向かい合っていた時の、顔をつき合わせる度に怒鳴っていた子供の頃と一見似ていたようだったが、二人の目に宿る青い炎にはあの頃のような微笑ましさは見られない。 「真剣にやってるなら、何で勝ちに行かない! いつまでも遊んでんじゃねぇぞ!」 「遊んでいるつもりなどない!」 「俺としか本気を出せないお前の碁が、遊びじゃなくて何だってんだ!」 ヒカルはソファから立ち上がり、今にも掴みかからん勢いで目の前のアキラを睨み付けた。 アキラも臆すること無くヒカルを睨み返し、高まった熱を鎮めるかのように声のトーンを落として答えた。 「ボクにとって価値のある対局はキミとの対局しかない。他のことにまで神経を向けられない」 「それが負け続けていることへの言い訳か?」 「キミと関わりのないところでの勝ち負けなどどうでもいい」 「そんな自分勝手な理由でプロ名乗ってんのかよ」 「……」 間髪入れずにやり返したヒカルの追求に、アキラも一瞬言葉に詰まる。 しかしすぐに表情を引き締めて、 「キミの一番近くにいるためにはプロであるほうが都合がいい」 「……!」 ヒカルは咄嗟にアキラの胸倉を掴んだ。 服が引っ張られて僅かにアキラの身体が仰け反るが、アキラは驚くことなく少しだけ持ち上がった顎の向こうからヒカルを見下ろすように視線を寄越して来る。 「お前は……、お前は、何のためにプロになった!」 ――何のためにプロになったんだキミは! 「何のために碁を打ってる!」 ――ボクと戦うためじゃなかったのか! ぎりぎりと絞られる胸元の服に構わず、アキラは真直ぐにヒカルを見据えて口を開いた。 「今のボクにとって、碁などキミと出逢うためのきっかけでしかない」 「……んだと」 「それまでのボクは良い様に周りに流された人形のようなものだ」 ヒカルの目がカッと赤く染まる。 「お前、俺と逢う前の自分まで否定する気か!?」 「真実を言っただけだ」 「お前の周りの人たちが……どんな思いでお前を見守って来たかも知らないで……!」 は、とアキラが鼻で笑う。 「そんなもの、今のボクには必要無い」 ぎり、と力を増したヒカルの拳が圧力に耐え切れずにぶるぶると震え、ヒカルは乱暴にアキラの胸倉から手を離した。そうすることで思わず持ち上げてしまいそうだった右手の拳を押しとどめたようだった。 「てめえ一人で生きて来たようなこと抜かしやがって……!」 絞り出した声に滲む寂寥などアキラは気付かずに、ようやく解放されたシャツを淡々と整える。 ヒカルはアキラに顔を背けるように後方の床を睨んでいたが、やがてゆっくりと首を持ち上げて、飽くまで冷静さを保とうとするアキラに正面から視点を合わせた。 意外にも真直ぐに視線を向けて来たヒカルに、アキラが軽く眉を上げる。 「お前……、俺が突然消えたらどうする?」 「何?」 脈絡のないヒカルの問いかけはアキラの眉間を訝し気に寄せた。 「俺がいなくなったら。お前の碁は、どうなる?」 掠れた声で一言一言、言い聞かせるように確かに区切って告げたヒカルの言葉は、アキラにとってにわかに想像できる内容ではなかった。 すぐに思考が閉じたアキラは、口元を歪めて嘲笑を浮かべる。 「馬鹿馬鹿しい。キミが消える? ありえない」 「ありえないことなんかない。明日のことなんか誰にも分からねえだろ」 「考えるまでもない。そんな馬鹿げたこと……くだらない」 「いいから答えろ。お前が信じてるものは絶対とは限らねぇんだ」 アキラはぐっと瞼を下げ、半眼でヒカルを睨み付けた。 先程怒鳴っていた時とは打って変わって、囁くようなヒカルの声が微かに震えていたことにアキラは気付かない。 アキラは、目の前で愚かな質問をする恋人の全てを賭けた問いかけに、そうと知らずに口を開いた。 「キミがいない世界なんてありえない。キミが消えたら、ボクの世界もそこで終わりだ」 ヒカルは静かに目を閉じた。 垂れた両手の先で拳が硬く握られている。 やがて強張っていた肩が緩く落ち、白い塊と化していた拳もだらりと解かれ、ヒカルは小さいながらもはっきりと呟いた。 「――そんなチンケな世界なら、今すぐ消えちまえ」 アキラがはっとする。 ヒカルの青白い顔がすっと無に変わり、桜色の口唇が音を象る様子がやけにはっきりとしてアキラの視覚に訴える。 「別れよう、塔矢」 ――言葉の意味が分からなかった。 「え……?」 聞き返すアキラに対し、ヒカルはもう一度口唇を動かして「別れよう」と告げた。 目を見開いて動けずにいるアキラの前で、ヒカルは尻のポケットを探る。 「このままじゃ俺まで駄目になる。別れよう」 「……進藤」 「世話になったな、今まで」 「進藤」 一歩踏み出したアキラに対し、鋭く顔を向けたヒカルの表情は相変わらず無ではあった。 しかしアキラに無粋な追求を許さないその顔には、はっきりとした決意が表れていた。 アキラは目だけはヒカルを見つめたまま、顔をゆっくりと左右に振ってどうにか震える口唇を動かそうとする。 「……、……冗談、だろう……?」 無理に絞り出したか細い声はそんなことしか尋ねられず、アキラは補うように首を振り続ける。 そんなアキラをしっかりと開いた瞳で見据えたヒカルは、静かに告げた。 「塔矢。……俺が、冗談を言っているように見えるか」 アキラは大きく瞼を開いたまま顔を強張らせた。 目の前の、迷いのない色素の薄い瞳は揺るがない。 悪い夢だと信じ込みたいアキラの甘さを真っ向から否定した、その瞳に込められた決意は地に根を下ろしていた。 ――ヒカルは本気だ―― そのことに気付いたアキラが、それでも動けずに愕然と突っ立っている前で、ヒカルはポケットから取り出したキーホルダーからひとつの鍵を手にとり、乱暴に毟り取る。 裸の鍵を一度右手に握り締め、無表情で見下ろしたヒカルは、指を解くように鍵を床へ落とした。 カラン、とフローリングに鍵が転がる。 「じゃあな」 最後の呟きを残して、ヒカルはアキラへと背を向けると、足早にリビングを突っ切ってソファの傍らに投げてあったリュックを手にとり、振り向かずに廊下へと出て行った。 パタン――扉が閉まっても、アキラは指先ひとつ動かすことができなかった。 足音が遠くなる。 玄関を出て、ヒカルが出て行ってしまう。 頭では分かっているのに、身体はぴくりとも動かない。 瞬きを忘れた瞳の表面が乾いてジンと痺れても、アキラは睫毛の先ひとつ震わせることもできずに立ち尽くしていた。 |
ここまでは予想通り。山の天辺です。
さあ問題はここからだあ……
(BGM:Nameless Greenness/Tourbillion)