NOISE FROM YOUR HEART






 真新しい壁の色と、真新しい部屋の匂い。真新しい景色に見覚えのない若草色のカーテンが色を添える。
 とはいえ、あまり物の揃っていない部屋のイメージは未だ白に近かった。
 電気もガスも使えるこの部屋に、これから続々と新しいものばかりが運び込まれる。
 そんなまっさらな空間に、主を除いていち早く入り込んだのはヒカルと、ヒカルの手によって運ばれて来たアキラの碁盤だった。
「……広いなあ」
 フローリングの部屋のど真ん中にぽつんとあぐらをかいて、ヒカルは部屋の四方を見渡している。
 床暖房が入っているとかで、絨毯の類いがなくても充分暖かい。しかし直に座ると骨ばった尻が痛いので、早めにラグなりなんなり敷いて欲しいな、なんてヒカルは思う。
 日当たりの良い部屋を選んだな、と次いで窓を見た。運良く快晴の今日、暖かな日射しが燦々と室内を照らし、こうしてぼーっとしていると何だか眠くなってしまいそうだ。
「早く帰って来ねえかなあ」
 呟きは不思議な響きだった。
 「帰って」という言葉を使ったが、実際にこの部屋に誰かが暮らした実績はない。まさに今日から人の住む部屋に対し、すでに誰かが「帰って来る」ことを期待している自分が少し可笑しかった。
 傍らに置いた碁盤を見下ろしてみる。使い込まれた碁盤はヒカルの手にもよく馴染んでおり、そっと表面を撫でると肌にしっとりと吸い付いてくるような錯覚さえあった。
 ヒカルが自分の碁盤を大切にしているように、アキラもこの碁盤を大切に使っているのだろう。ヒカルは、アキラがこの碁盤をヒカルに運ばせた意図が何となく分かるような気がした。

『とりあえずこれを持って先に向かってくれ。場所は覚えてるだろう?』

 最初に訪れた塔矢邸でのアキラの言葉にただ頷き、渡された碁盤をそっと助手席に乗せて車を走らせる。
 それはまるでアキラが隣に座っているようで、何とも不思議な気分だった。
 預かった鍵はケースもなくキーホルダーもついておらず、裸のまま。ひょっとしたら、これがこのまま自分のものになるのかもしれないという予感は決して気のせいではないだろう。
 それにしてもこの部屋には何もない。家具が運び込まれるのは午後からだと聞いているから、どうしようもないのだけれど。
 とうとう退屈になったヒカルは、ごろりと仰向けに転がった。隣に鎮座する碁盤で棋譜並べをしようかとも思ったが、この部屋で最初にこの碁盤に碁石を打つのはアキラであるほうが良い気がして、それもやめた。することがない、何もない、明るくて静かな部屋。
 この部屋に主が帰ってくれば、それなりに忙しい時間が始まるだろう。それまでの骨休めとでも思おうか――ヒカルはぼんやりと淡いベージュの天井を眺め続ける。
 今日からアキラがこの部屋に引っ越してくる。一人暮らしのスタート。そして今日は、彼が十八歳になる日でもあった。



 アキラが一人暮らしを始めると聞いたのはつい先月。
 ちょうどヒカルがアキラに内緒で運転免許を取るために別行動を取ることが多かった時期、アキラはアキラで良い物件探しに奔走していたらしい。
 よくもまあ、これだけの秘密を素知らぬフリで隠していたものだと感心する。賃貸とは言え新築で、最寄り駅から徒歩十分以内、おまけに自分では車なんて持っていない癖に御丁寧に駐車場つき。広さは2LDK、元々物の少ないアキラには充分手に余るだろう。
 ヒカルとしては、ほんの悪戯みたいな気持ちで免許のことを秘密にしていた。しかしこれではほんのどころか、準備だけでも相当の期間がいるではないか―― 一体いつから一人暮らしを始めるべくアキラが水面下で動いていたのだろうかと思うと、小さな鐘が胸の奥でこれまた小さな音を立てるけれども。
 ヒカルは小さく息をつき、ごろりと寝返りを打った。アキラの碁盤の側面と向かい合ってその木目をじっと眺める。
 一人暮らしをするにあたり、これまで実家暮らしだったアキラはほぼ全ての家具を買い揃えなければならなかった。家電製品、タンスやベッド、驚くべきことにそういったものの手配も全て自分で終えて、今日明日中には順々に配達されてくる予定だという。あの忙しい男の何処にそんな時間があったのかと呆れたくもなるが、そうして有意義に時間を使っていたせいか、ヒカルが必死で車のハンドルを握っている間にも突撃してくるようなことはなかった。
 社の電話から、アキラがヒカルの嘘に気付いていることは分かったが、それにしては大人しいなと思っていたところだった。免許取得のタイミングは良かったのだろうか、それとも。
 ――アイツ、俺があのタイミングでバラさなかったらどうするつもりだったのかなあ……
 そもそも、いくらヒカルもちょっとした隠し事をしていたとは言え、これだけ大事なことを内緒にしていたのは恐らくそれなりの理由があるからで……

 ピンポーン……

 自宅のものとは違う、優しい音色にヒカルは飛び起きる。
 主不在のこの家に誰が尋ねて来たと言うのだろう――慌ててインターフォンを除くと、液晶画面にアキラと、それからアキラの兄弟子である芦原の顔が写っていた。恐らくこれが通話ボタンだろうと思われるボタンを押してみると、二人の声がスピーカーから聞こえて来る。
『進藤、いる?』
『待ちくたびれて寝ちゃってるんじゃない。もう一回押してみれば』
 芦原の指が再び部屋の番号を押そうとしているようで、ヒカルは慌てて返事をした。
「いるよ! いるいる!」
 途端にモニタの中のアキラが柔らかい笑顔になる。
『ああ、良かった。遅くなってごめん。思ったより荷物が多くて……開けてくれる?』
「あ、うん……って、これどうやって開けんの?」
『多分傍に解錠のボタンがあるから。押してみて』
 アキラの説明通り、それらしきボタンを押してみると、スピーカー越しにジーッという音が聴こえて来た。どうやら無事にオートロックが解除されたらしい。
『ありがと。じゃ、今行くから』
『進藤く〜ん、肉マン買って来たからね〜』
「わお、マジ? 早く来て来て!」
 スピーカーから届く曇った笑い声が遠くなる。ちらりと見たモニタの中、芦原は何やら大きな段ボール箱を抱えさせられていた。さして重そうな様子がなかったところを見ると、アキラの衣類か何かだろう。
 アキラはヒカルに碁盤を託した後、芦原の車に自分で詰めたらしい荷物を運び入れてからここへ来る予定だった。ヒカルの車にはそれほど荷物が入らないからというのと、芦原が本当の弟のように可愛がっているアキラの引っ越しを是非とも手伝いたいと強く立候補してきたのが理由である。
 勿論全ての荷物を一度に運べたとは思えないが、アキラの口ぶりからして必要最低限のものは持ち出して来れたのかもしれない。別に実家がなくなるわけではないから、残りのものは時間を見つけて少しずつ運んで来たって構わないのだ。
 芦原の言葉で途端に空腹の意識が芽生えたヒカルがうきうきと二人を待っていると、再びピンポーンとチャイムが鳴った。先程とは音の質が違う、すでにドアの前で誰かが押していることがすぐに分かる。ヒカルはどたどたと廊下を駆けていく。
 言われた通りにかけていたロックとチェーンを外して、ドアを開いた先にはビニール袋を持ったアキラと段ボール箱を抱えた芦原が立っている。芦原に比べてやたら荷物の少ないアキラを思わずまじまじと見てしまった。
「留守番御苦労様。何もないから退屈だっただろう?」
 まるで自分がこの部屋の主のごとく二人を迎え入れ、ヒカルは広いリビングへと彼らを先導する。
「まーね。ごろごろして待ってたよ」
「芦原さんがコンビニで肉マン買ってくれたから、食べたら荷物運ぶの手伝ってくれよ。芦原さんも、張り切るのは食べた後でいいんですよ」
 芦原はリビングに入って軽く辺りを見渡すと、窓際に大きな段ボール箱を置いた。
「うん、でも俺午前中しかいられないからさあ、できるだけ手伝っときたくて。あ、二人は食べてていいよ? 俺また下から段ボール持って来るから」
「いいですよ、みんなで一緒にやりましょう。まずは食べてから」
 アキラと芦原の何気ない会話に、ヒカルはははあとあることに気付いて納得した。
「芦原さん、午後から帰るの?」
「うん、明日大阪で手合いなんだ。夜には向こうに行かなきゃならなくて、もう少し手伝いたかったんだけど悪いなあ」
 ヒカルの問いかけに芦原は何ら疑いなく答える。
 ヒカルは確信を持ってアキラをちらりと見た。アキラは素知らぬフリをしている。
「じゃ、食べよっかあ。まだあったかいよ〜進藤くんコーラでよかった?」
「あーコーラ買って来てくれたんだ〜やった。食べよ食べよ!」
 仕方がないから、今は騙されたフリをしてやろう。ヒカルは何も知らない芦原にせめてもの労いをとにっこり笑顔を向け、彼の買って来てくれた肉マンへと手を伸ばした。






いよいよアキラさんも18歳です。浮かれポンチです。
この人こんなんで一人暮らしして大丈夫なのかなあ……
と、誰よりもヒカルがそう思ってるはず。