薄闇に慣れた目が、慣れない天井を捕らえて気怠げに細くなる。 これまでとは違う、動きに合わせて軋むベッドの上。上質なスプリングは僅かな音を立て、キシキシと耳をくすぐる。 やけに甘酸っぱいノイズ。 身体を揺らされ、その中枢に宿る圧迫感にぼんやりと表情を蕩かせながら、ヒカルは薄く開いた口唇を一旦閉じてごくりと口内に溜まった唾液を飲み込んだ。 爪を立てたくて腕を彷徨わせても、もうひんやりした畳の感触が指に触れることはない。セミダブルにしてはやけに広いベッドからはみだすことも適わない。 仕方なく伸ばした腕を覆い被さる男の首に絡めて、爪を立てないように拳を握る。そうして自制しないと、どちらも怪我をしてしまいそうだった。 闇に光る獣の目がふたつ。それを見上げる目もまた獣。 散らかった部屋の中、やけに整然としていたベッドの上でいつもと違う感覚に酔う。 いずれ、今肌に触れるものが当たり前に感じる日が来るというのに。 初めてのものは、やけに胸をそわそわさせる。浮き足立つ心を諌め切れず、興奮に尖らせたアンテナが様々な刺激に震え、驚き、そして悪戯っぽくときめく。 何だか悪巧みをしていた子供の頃のように―― ヒカルがひっそり微笑むと、薄暗い部屋の中で動いていたアキラの表情が顰められたように見えた。それを確かめるより早く、小さく呻いたアキラの腰がふと動きを止める。 ヒカルはぐしゃりと手のひらをアキラの後頭部の髪の中に差し込んだ。 荒く息をつくアキラの胸が、ゆっくりヒカルに迫って来る。重力に逆らい切れずに崩れたアキラを受け止めて、ヒカルはもう片方の手を汗ばむアキラの背に滑らせた。 ぬるりと濡れた肌は、眉がぴくりと震えるほど熱かった。 手のひらから伝わる熱。と、アキラの胸の奥の塊が皮膚を打つ鼓動の強さ。 ヒカルを包み込むように俯せに倒れているアキラの首筋からも、同じ速さのリズムがヒカルに伝わって来る。 ヒカルはアキラの耳元に口唇を寄せ、小さく耳たぶへ口づけした。ちゅ、と漏れた小さな音に肩を揺らしたアキラは、ゆっくりと肘に力を入れて上半身を起こす。 そうして見下ろされたヒカルに、噛み付くようなキスが落ちてきた。 荒々しいキスに応えながら、薄ら開いた瞼の隙間からヒカルはアキラの表情を盗み見た。 眉間に寄せられた皺がやけに扇情的で、目に毒だと再び瞼を下ろす。 目を閉じると、触れあった胸から先程よりもはっきりとアキラの心臓のリズムが伝わって来た。 熱くて速い、耳のすぐ傍で脈打つ力強いノイズ。 激しさを備えた魂のリズム。 *** 耳元で寝息が聞こえる。 眩しい、と目を瞬かせた。 朝日が真直ぐ差し込んで来る。夕べはカーテンを閉め忘れたんだっけ。ぼんやり口の中で呟いて、ヒカルは自分が目を覚ましたことに気がついた。 なんだか身体が気怠い。そういえば昨日は随分身体を動かした―― 「……」 ぱちりと目が開いた。 見慣れない景色が映るはずだった視界には、すっきりとした顎のラインが飛び込んで来る。 ヒカルは声を出すのを寸でで堪えた。 (……うわー……) 一見すると結ばれているように見える口唇は、よく見ればほんの僅かに開いて少しだけ渇いている。長い睫毛は伏せられ、黒髪が頬に流れて色っぽく乱れ、そしてすうすうと聞こえる規則的な寝息。 紛れもないアキラの寝顔だが、寝顔を見ることが滅多にない上、ここまで至近距離で拝めるなんてそうそうあるものじゃない。どうやら昨夜はアキラの肩を枕代わりに眠ったらしいヒカルは、驚きに目を丸くしながらまじまじと眼前のアキラの寝顔に魅入られていた。 何度も朝を一緒に迎えた仲とはいえ、大抵はアキラのほうがヒカルより早く起きる。アキラに起こされることはあっても、自然と先に目が覚めた記憶はほぼない。閉め忘れたカーテンのせいで、窓際に身を横たえたアキラに向かい合うような格好だったヒカルは、朝日を直に浴びるという健康的な目覚まし時計を体験することになったのだった。 思い掛けないものを見て一度は跳ねたヒカルの心臓が、徐々に落ち着きを取り戻し始める。改めて、綺麗な寝顔だなとヒカルは何度か瞬きをした。 大人っぽいアキラの顔立ちが、寝顔だと少し幼くなる。どうやらヒカルの身動きに対しても目を覚ます気配はなさそうだ。瞼を下ろした整った顔を見つめながら、ヒカルは僅かに目を細めた。 (珍しいな……、やっぱ、昨日疲れてたんだ……) 丸一日スケジュールを空けて、テキパキと引っ越しの舵をとったアキラ。自分で金を稼いでいる社会人とはいえ、十八歳になったばかりの彼が親も頼らず一人で全ての手配を済ませるべく動いていたのだ。多少の心労もあっただろう。 穏やかな寝顔を見ていると、目の前の恋人が極端に愛しくなって来る。昨日、彼は自分の城を手に入れたのだ。 ヒカルは視線を部屋の四隅に走らせた。見慣れない壁、見慣れない天井。まだ身体に馴染まない空気、ニオイ。初めてのものばかりに囲まれて、一度は落ち着いたヒカルの鼓動が再び緩やかに加速し始めた。 ヒカルはアキラの胸にそっと頬を寄せた。滑らかな肌がやけに暖かく、自分の頬がひんやりと冷えていたことに気付いてはっとするが、アキラは少し身じろぎしただけで目を覚ます気配はなかった。 安堵して再び頬を寄せると、耳に心臓のリズムが聴こえて来る。 どくん、どくん―― 優しい心音だった。 ヒカルは目を閉じる。 駅から近くて、日当たりも良くて。駐車場を借りたのはヒカルの車を停めるため。エントランスに自動販売機があるマンションを選んだのもヒカルがきっと喜ぶから。 ヒカルのために大して興味もないコンポを揃え、寝転びやすいラブソファや柔らかいラグを選び、何の疑問もなく用意された空間に目が眩みそうなほど。 何もかも新しく揃えた新しい部屋で、ヒカルと選んだ二人分の食器を並べ、二人で時間をスタートさせる―― 分かっている。アキラは「二人だけで」始めたかったのだ。新しい時間を、他の誰の邪魔も許さず、二人だけで。 ここはアキラの城。そしてヒカルのための城でもある。ヒカルは勘付いていた。アキラが実家を出たいと思った薄暗い理由に。 そして、アキラをこの城に閉じ込めたのが自分であることも。 ヒカルは目を開き、頬を乗せた胸にそっと口唇で触れる。優しい鼓動の震えは口唇からも伝わって来る。 愚かな愛しい恋人―― 窓から覗く光は明るい。休日は昨日一日きり。そろそろ起きなければ、今日の仕事に影響するだろう。 アキラの優しいリズムに反して、ヒカルの胸はざわざわと揺れている。 しかし、触れ合っている肌の暖かさが、ざわめきとは別の甘い疼きをもたらしていることも分かっていた。 新しい生活への不安と、期待。背後からひたひたと近付く足音と、その先にある一筋の光。様々なノイズがヒカルの心に影と希望をもたらす。 (お前の目が……本当に覚めたら……) 耳をくすぐる優しいリズム。冷たい頬が、アキラの胸から熱を奪ってこのまま溶け合ってしまえたら。 (少し……辛い時期が続くかもしれない……) ヒカルの胸も確かにリズムを刻んでいる、しかしそこにあるのは優しさだけではなくて。 (でも……お前なら……、俺と、お前なら……) 微かな怖れと、確かなときめき。全てを忘れて暖かさにこのまま溺れてしまいたくなる。 ああ、でももう目を覚まさなくては。 (きっと……) どくん、どくんと数を数えて、ヒカルはもう一度目を閉じた。 いつかは必ず目を覚まさなければならない。だから、今はもう少しだけこのままで。 |
18〜19歳編への予感を残しつつ。
伏線貼りが下手なので、貼る時は
これでもかってくらい分かりやすく貼ります。
(BGM:NOISE FROM YOUR HEART/レベッカ)