NOBODY IS PERFECT






 会場は多くの子供達と、その付き添いである親たちで賑わっていた。
 パンフレットが詰まった段ボール箱を頼り無く抱えながら、アキラは時折奇声が飛び交う様子をぼんやり眺めつつ受付まで歩いていく。どうやら相当小さな子も来ているようだ。
 若い女流棋士がにこやかに受付を務めている傍らに段ボールを置いて、手渡しているパンフレットの山の上に厚みを追加する。多少力を使うくらいで、誰にでもできる仕事だった。
 子供向けの囲碁大会とはいえ、思った以上に人が来るものだとアキラは他人事のように思っていた。
 大会がスタートした後は、特別な仕事を任されている訳でもないアキラには、対局する子供らの周りをうろついて不正がないかチェックしたり、何かトラブルが発生した時に対応を行う程度の作業しかない。後者のトラブルなど、余程の事がない限りこういったイベントで起きることは珍しい。
 だから本当はただ黙って笑顔を見せて突っ立っていれば良かったのだ。しかしとてもにこやかな表情など作れそうもなかったアキラは、棋士としてイベントの端で優雅に佇むという権利と義務を放棄して、あえて職員がやるべき仕事を率先して手伝っていた。
 黙々と身体だけを動かして、ひとつひとつの負荷が軽い作業をこなしていく。頭も使わない、お愛想も必要無い楽な仕事。
 恐らく周囲は最近のアキラの扱いに困っているだろうから、身を持て余したアキラの相手をさせられるよりはかえって助かると思われているかもしれない。アキラが今現在纏う雰囲気はとてもこの和やかな大会には似つかわしくなく、手持ち無沙汰に陰気な姿を晒しているよりは細々と動いているほうがいいだろう。
 何より、このイベントには棋士としての塔矢アキラはいてもいなくても関係ない。自分の存在に価値がない仕事を回されることに慣れ始めていたアキラは、視線だけは自嘲気味に斜め下を向いていた。
 この二ヶ月、ろくな運動もせずに部屋に閉じこもるばかりだったものだから、軽い肉体労働でもすぐに息が切れる。好都合だとアキラはすっかり鈍った身体を酷使した。これだけ動き回れば、今夜は疲れてきっと眠れるだろう。夢と現の狭間で息苦しく寝返りを打ち続けなくてもいい。
 対局以外に予定のない日は苦痛だった。
 ここしばらく、まるで実家に帰ったばかりの頃のように眠れない日々が続いている。
 規則正しい生活に合わせて、夜になれば布団の中には横たわるようにしているが、うつろな瞳はぼんやりと闇を見つめるだけで一向に眠ろうとしてくれない。無理に目を閉じていても、そのまま眠りの誘いがやってくることもなく、重い身体を持て余して過ごす数時間は逆にアキラを疲れさせた。
 原因は何となく理解している。

『お前はもっと人に甘えていいんだ、アキラ。』

 あの日から、余計に心がコントロールできなくなっている。
 無性に胸の内がざわめく焦りに似た感情を、どう宥めたら良いのか分からなくなっている。
 自分が何に躓いてこんな状態になってしまったのか、その大本の原因を見失ってしまいそうになるくらいに。

 最初は、ヒカルに別れを告げられたためだった。
 ヒカルに見放され、おまけにその理由も分からなくて、戻らないヒカルを恋しがって鬱々と沈み込んでいた。
 独りでいることが耐えられなくなって、思わず縋った緒方には「考えろ」と諭され、でも分からないまま無駄に時間を過ごして。
 いつしか、ヒカルだけが全てだった心の中に、過去のビジョンが切れ切れに入り込んで来るようになった。
 何故、今アキラの心をさざめかせているのは芦原の言葉なのだろう。

 芦原の笑顔を見ていると、今の腰くらいしか身長が足りていなかった過去のことばかり思い出す。
 石を打つことが純粋に楽しくもあり、息苦しくもあった。子供の頃の自分は、決してそれを認めようとはしなかったけれど。
 そう、気付かないうちに周囲の期待が負担になっていた時期だったのかもしれない。負けん気だけは強かったのだろう、彼らを喜ばせるために頑張らねばと意気込んでいたのは本当だった。
 そんなささやかな強がりを溶かされたあの出来事は、幼い自分にとっては衝撃だった。
 でもそれは、十年以上も昔の話だ。
 あの頃の自分だから許された涙だったのだ。
 芦原だって、今のアキラよりもずっと年下の中学生くらいの言葉なのだから、深く考えて言ったものではないかもしれない。
 今の年になって、あの時の構図がそのままあてはまるはずがない。
 何よりも、あの時の苦しみと今の苦しみとは並べて比べられるようなものではない。
 ヒカルを失って、それが辛くてこんなに堕落してしまった自分が、甘えていいと言われて愚かに飛びつこうだなんてあまりに短絡的すぎる。

 しかし、そんなふうに弱い心に頼り無い釘を刺そうとする度に。

『では何故お前は俺を呼んだ?』

 緒方の声が容赦なくアキラを責めるのだった。
 ただ苦しいからという理由で緒方に助けを求めたアキラを……



 ――あの時は怖くて。
 何でもいいからあの場所から逃げ出したかった。
 他人であるはずの緒方の存在が、弱った心には酷く頼もしく感じられた。
 胸の奥底に眠っていた、あんな昔の言葉を思い出した理由は分からない。


 今はあれから時間も経ち、少しは冷静に二ヶ月前のことを振り返ることができるようにもなった。
 自分がどれだけ滑稽だったかの自覚もある。
 皮肉なことに、あれだけろくでもない生活の後でも極端に身体を壊すことはなく、落ちたのは棋力のみ。
 胸にぽっかり開いた穴は相変わらず塞がらなくても、闇雲に手を伸ばすことはもうできなかった。
 このやり切れない想いを持て余し、ぐるぐると迷い続ける毎日から抜けだせないまま、単調な暮らしを繰り返すだけ。
 腑抜けた対局には張り合いもなく、気持ちも引き締まらず、冷めかかったぬるま湯に恐る恐る触れているような日々。
 二ヶ月が経過したのに、ヒカルからの連絡は一切ない。
 各棋戦で好成績をあげているという噂を聞く度、アキラの胸は悲鳴をあげる。
 ひょっとしたら、ずっと自分が彼の枷だったのではないかと。
 アキラから解放されて、彼はようやく自由になれたのではないかと。
 今更何を考えても無駄で、ヒカルの言葉は最早意味など持たないのではないかと。
 ずっとこうして離れたまま、どんどん駄目になっていく自分のことなど、もうどれだけ足掻いても見向きもしてくれないのではないかと……



 そんなふうに自虐的なことをちらりと思い浮かべる時、やはり胸は無性に焦燥を覚える。
 何もかも嫌で、何が嫌かも分からず、ただ苦しいとぶちまけてしまえたら気持ちは軽くなるだろうか、なんて。
 その浅はかな企みを認めまいと首を振り、そうして振り出しに戻るのだ。
 この焦りは何だと言うのだろう。
 ひょっとしたら、動揺といった類いのものかもしれなかった。
 心の何処かで、芦原を少しだけ見下していた気持ちがあったのは否めない。
 段位も体格も追い越して、いつも陽気で何も深く考えていないと思っていた芦原が、声を荒げたアキラに対して怯むこと無くきっぱりと告げたのだ。
『お前は自分が思ってるほど大人じゃない』
 揺るがない落ち着いた目に確かにアキラは戸惑った。
 これまで感じないようにしてきた、彼との年齢差を今更思い知らされたようで。
 そのくせ、子供扱いされたことへの憤りというよりは、立場が下だという妙な安心感があって……
 だから余計に混乱する。
 自分は何を必要としているのだろう。
 ただ、優しくしてくれる相手ならば誰でも良いとでも言うのだろうか。
 ヒカルがいないのに。彼の言葉がまだ理解できていないのに。
 こんな状態で誰かに縋り続けて、そのままヒカルのいない世界に慣れてしまったら……
 この想いは何処へ行くのだろう。






何だか同じようなことでずっと
ぐるぐる回っている状態ですね……
もうひとこえ。