「いやいや塔矢先生、もうこちらはいいですから。どうです、子供達の様子でも見学なさっては」 遠慮がちに告げる年輩の職員から目を逸らし、アキラはただ浅く頭を下げた。 いよいよ雑用もなくなって、碁石を打つ音だけが響く会場で身を持て余す。見学と言っても、対局中のテーブル周りを無意味にうろうろするのも何となく憚られる。どうしたものかと少し思案して、結局アキラは会場の隅へと移動することにした。 会場の空気がぴりぴりと痛いように感じるのは、参加している子供達が緊張しているためだろう。 彼らは真剣な眼差しで、小さな指に碁石を挟んで目の前の相手に勝とうと石を打ち付けていた。 アキラはぼんやりと会場を見渡す。 こうした子供向けの大会に関わるのは初めてだった。 小さな子の相手をするのが苦手なせいか、またそれを折々に公言していたせいか、こういったイベントの仕事が回って来たことは滅多にない。何度か声がかかったことはあったが、大抵は他のことを優先させて断ってばかりだった。今は断る立場にない身だから、ろくに内容も確認せずに引き受けてしまったけれど。 子供向けだから、と何処か馬鹿にしたような気持ちがあったことは否めない。 ところがどうして、まだ幼い彼らの目にはしっかりと闘志が燃えている。 雰囲気だけなら大人の対局とさして変わらない。 想像していた生温さも長閑さもなく、しっかりした勝負として大会が成立しているしていることを、アキラは少なからず意外に感じていた。 『子供らな、みんな一生懸命だよ』 そういえば、ヒカルはよくこうした仕事を引き受けていた。 子供向けの囲碁合宿なんてものに参加していたこともあったはずだ。 『あいつらの中に入ったら俺もちょっとしたヒーローっつうの? 先生ぇ〜って呼ばれても悪い気しないよな〜。それにさ、みんな真剣だから指導碁だって馬鹿にできねえんだぜ。どっかの無駄金積んで適当に碁石弄くってる社長さんとかの相手よりよっぽどこっちも勉強になるよ』 そんなことを、屈託なく話していた。 ヒカルの笑顔。 太陽に似たあの眼差し。 パチ、パチと石の音は響き続ける。 子供達は碁盤を睨んで難しい顔をし、その周りで保護者たちが固唾を飲んで見守っている。 肌が焼けつくような硬い空気。 アキラは目を細めて、一心に碁盤に向かう彼らの姿を遥か遠くの景色に目を凝らすように眺めた。 ――今の自分は、彼らの十分の一ほども本気を出せているだろうか? 真直ぐな目で、勝つために次の手を読み、明日までも見据えんばかりの気迫を持って碁盤と対峙している子供達。 ……あんな頃があった。 確かに、あったのだ。 彼らのように、真直ぐに前を向いていた頃が。 その目が、いつからかヒカルだけを向いていた。 ヒカルがそれを否定した。 それでどうしたら良いか分からなくなったのだ。 『お前は、何のためにプロになった!』 『何のために碁を打ってる!』 何度も尋ねられた。 「ヒカルのためだ」と答えて来た。 それなのに、ヒカルを失った今でもアキラは碁を捨てられずにいる。 最初はヒカルとの繋がりを完全に失いたくなかったからだと思っていた。ならば、ここ最近感じている勝てないことへの苛立ちの理由は何だと言うのだろう。 勝ちへの執着すらヒカルに捧げてしまったはずなのに、父の名を引き合いに出されてたまらなく苦しいのは何故だろう。 短い指で碁石を挟んで夢中になっていたあの頃は、こんな自分を想像することもなかったのに。 囲碁を打つことが自分の中で一番だった、純粋にプロの道を目指していたあの頃は―― 「……先生」 「……先生」 「……塔矢先生」 はっと意識が舞い戻る。 やけに高い声で「先生」と繰り返すことの目的が、自分を呼んでいるためだとようやく気付いたアキラは振り向いた。 真後ろを振り返り、そうして少し視線を下へと降ろす。見れば、そのまま突っ込んできたらアキラの背中に顔をぶつけるだろう程度の身長で、小学生らしき少年がアキラを見上げていた。 胸に名札があることから、この大会の参加者だということはすぐに分かった。何かトラブルでもあったのだろうか。まだ少し強張っている表情をなるべく和らげるよう努めて、アキラは軽く腰を屈めた。 「……何か?」 周りの邪魔にならないよう、アキラは小声で首を傾げてみせた。 少年は頬を紅潮させ、あの、あの、と口籠っている。 アキラが怪訝そうに眉を顰めかけた時、少年はふいに自らの右手をアキラに向かって差し出して来た。 「と、塔矢先生、……握手してください」 そう口にした途端、少年は首まで真っ赤に染まってしまった。 差し出された手の細い指先が緊張のためか震えている。 アキラは唐突な頼みに面喰らって目を丸くしたが、すぐにファンサービスの真情を思い出してそっと手を伸ばしてあげた。最近はめっきり少なくなっていたとはいえ、よくある日常の一部にすぎなかった。 アキラの手にすっぽり収まる子供の手のひらは、冷たく汗ばんでいる。 その手と緩やかな握手を交し、アキラは少年には分からないように自嘲気味な微笑を浮かべた。 ――彼は知らないのだろう。今の自分がどれだけ情けない状態であるかを。 子供の耳には恐らく細かな情報は入っていないのだ。彼はきっと、もてはやされて様々なメディアに取り上げられていた塔矢アキラの虚像しか知らないのだろう…… そんな歪んだアキラの表情に気付かないのか、少年は赤い顔のまま実に嬉しそうに歯を見せた。 少年の手にぎゅっと力がこもる。彼の感動と興奮が手のひらから直に伝わって来る。 きらきらと目を輝かせてアキラを見上げている少年の無垢な表情は、アキラを僅かに怯ませた。 「俺……、塔矢先生の大ファンです! 俺、塔矢先生の対局見て囲碁始めました!」 心なしか瞳を潤ませて、カチカチに固まった身体のまま少年は喜びを顔いっぱいに表している。 ひたむきな目に宿る憧れと言う名の光。 アキラは思わず息を呑んだ。 ――この目には覚えがある。 少年は応えないアキラに焦れることなく、狼狽えるように力を緩めたアキラの手の中から自身の手を引き抜いて、代わりに拳を握って高々と宣言した。 「俺、塔矢先生みたいなプロ棋士になるのが夢なんです!」 ――ボクはお父さんのような棋士になります! アキラは目を見開いた。 ――分かった。 目の前で瞳に純粋な光を称えているこの表情。 尊敬と憧れが入り交じり、微かに畏怖さえも感じているひたむきな眼差し。 ――この少年は……かつての自分と同じなのだ。 そうだ。 思い出した。 何故ボクが碁を打ち始めたか。 何故ボクが碁を打ち続けていたか。 父に憧れ、父のようになりたかったから―― そんな単純な答えを、どうして今まで忘れていた。 ヒカルが現れるまで、前だけを見据えていたその先に見える父の背中。 あの背中が目標だった。 父のようになりたかった。 父を……喜ばせたかった。 『お父さん、……ボクいごやりたい』 驚いたように微笑む父が腕を伸ばし、小さな身体を抱き上げた。 ――お前も来るか? と。 そう呟いたのだったか。 どんな言葉だったにせよ、強く頷いてみせた瞳には、碁盤に向かう自分の未来の姿が見えていた。 目の前の父のように黒と白の石の世界で生きる未来が。 ――囲碁を始めたのは貴方の意志よ―― (……ボクが選んだ。) 誰に強いられた訳でもない、自分の意志で惹かれたのだ。 父と同じ道を歩むことに。 (ボクが、碁を打ち続けていたのは――) 自分の未来のためだった。 父のような棋士になる、そんな未来がこの目にずっと見えていた。 目の前の少年のように、きらきらと瞳を輝かせて父の姿を追っていた。 |
ようやっと光が見えました。
唐突かな……も、もういいや。
ちなみに少年はこの後、アキラの碁がいかに強くて
カッコイイかを力説しています。アキラ聞いてないけど。