「私は不器用な男だ。お前が息子であり弟子となったその日から、お前にとってどのような存在で在るべきか悩んだ。その私の迷いが、お前の迷いにもなったのだろう。……申し訳なく思っている」 「そんな……、お父さん、」 「多感な時期に留守がちだったこともすまなかった。以前、お前が一人暮らしをしたいと言い出した時、私はお前の中に不確かな理由があるのに気付いていながら、止めることができなかった。父親として前に立つことを躊躇ったのだ。……結果、お前には辛い思いをさせたな」 淡々としていながら、低く耳に柔らかい声色で語る父の言葉に、アキラは何度も首を横に振った。 違う。貴方のせいじゃない。 言葉にはならず、アキラはただ首を振り続ける。 形だけの幸せを手に入れようと焦り、判断を過った自分が浅はかだったのだ。 父が一人暮らしの許可を渋った理由が今なら分かる。 アキラにはごく狭い周囲しか見えていなかった。 自分の都合の良い世界を造り上げ、その中に閉じこもることで束の間の平穏に浸ろうとした。 だから、ヒカルがいなくなったそれだけで呆気無く崩壊してしまったのだ。 父の忠告に気付かず、自分勝手に突っ走った挙げ句がこのザマで。 何もかも失ったと絶望しながらも、知らず周りの人に守られて、こうして再び碁盤の前に向かうことができた。 何も失ってなどいない。 初めから、ずっとアキラの傍にあった。……アキラが気付いていなかっただけで。 首を振り続けるアキラに、父は優しく手を伸ばし、項垂れているアキラの頭にそっと触れた。 「私は息子としてのお前にろくに向き合わず、お前の苦しみを分かってやれないままだった。父親としては失格だろう。情けない話だが、私は……お前が年頃の子供よりも大人びていることに甘えていたのだ。私の甘えが重荷になることもあっただろう」 アキラは顔を上げられず、床に両手をついて肩に力を込めた。 「駄目な父親だが、お前は私にとって勿体ないくらいの自慢の息子だ」 指先が畳を掻き毟り、その上にぼたぼたと止めようのない雫が落ちてくる。 「私のエゴを押し付けたくはなかったが。……それでも、お前には……つい、大きな期待をしてしまうのだ」 「……お父さん……!」 いいえ、と一言。 それから後は言葉とは呼べないものだった。 ――いいえ。 いいえ、お父さん。 貴方のせいじゃない。ボクは今まで、自分一人で何もかも決めて来たと思っていた。 誰の力も借りず、自分だけでこの道を歩いて来たと思い込んでいた。 でも、そうじゃない。 貴方という存在が居て、貴方を目指して、兄弟子や尊敬すべき棋士たちの背中を見てボクはここまで来れた。 そのことに気付かず、物事の本質を見失って――何のために碁を打っているのか、何故碁を打ち始めたのか、そんな単純なことを忘れてしまっていた。 お父さん。 ボク、囲碁の才能あるかなあ…… 『そんな才能なくっても』 『お前はもっと凄い才能をふたつ持っている』 『ひとつは誰よりも努力を惜しまない才能』 『もうひとつは――限り無く囲碁を愛する才能だ』 その才能を授けてくれたのは、貴方だ――…… お父さん。 貴方だからこそ、ボクはその背中を目指した。 貴方の存在がボクの夢で、未来だった。 貴方のようになりたかった。 『お前は何でも一人で決めてきたと思っているだろうが、そんなことはない。』 この碁は自分一人のものではない。 師である父と、何千局も打って来た棋士たちと、自分を支えてくれるたくさんの人と共に長い時間をかけて創り上げてきたものだ。 少しずつ少しずつ、様々な経験を経て積み重ねられたもの。 自分だけのものにしようだなんて、思い上がりも甚だしかった。 囲碁を愛し、囲碁に愛されて、恵まれた道を歩んでいた自分だからこそ。 ……ヒカルと出逢って、惹かれた。 囲碁なくしてヒカルとの出逢いはなく、また求め合うこともなかった。 『お前、俺と逢う前の自分まで否定する気か!?』 何故キミが怒ったのかやっと分かった。 ボクは、ボクらが出逢うための必然すら否定しようとしていたんだ。 キミが何度も、何度も気付かせようとしてくれていたのに。 ボクは、二人で築いた絆の存在までもを排除しようとした。 今ならはっきりと言える。 ボクは囲碁を愛している。 囲碁の道に関わった全ての人を、愛している。 だからキミに逢えた。 キミを愛して……、キミに、愛された。 『俺を信じろ、塔矢』 信じてるよ。 きっと、キミもボクを信じてくれているんだろう? ボクが全てを取り戻すのを。 失いかけた情熱を取り戻して、キミの前に再び立つ時を。 思い出した。キミと共に目指していたあの場所を。 ボクらが手を取り合って、目指していたあの高みを。 キミのおかげで、思い出した。 ボクがどれだけ、開けた未来を想い描いていたかを。 まだ、終われない。 ボクらはもっと遠くまで飛べる。 この想いは何処にも離れて行きやしない。 広く周りに目を向けることを、怖れないで。 ……そう言いたかったんだろう? 進藤…… ボクは……、産まれて来て良かった。 愛するものがたくさんあって。 ……キミに逢えた。 *** 朝食の時間どころか、昼食の時間もとっくに過ぎ、アキラがふらつく足取りで父の部屋を出たのはもうすぐ夕方に差し掛かろうかという頃だった。 泣き腫らした瞼がひりひりと痛み、そっと指先で触れてみる。鏡で見たら酷い顔をしているだろう。 洗面所へ向かう途中、鼻をくすぐる良い匂いが近付いて来た。 途端、アキラの腹がくうと小さな主張をした。思わず腹を見下ろして、苦笑する。――ここしばらく、空腹を実感することなどなかったのに。 考えてみれば、夕べからずっと飲まず食わずだったのだ。身体がふらふらするのはそのせいだろう。アキラはぐいと袖で目元を擦り、洗面所には向かわずに台所へと足を向けた。 古いながらも隅々まで手入れの行き届いている台所では、母が鼻歌を歌いながら料理をしていた。 入り口に佇み、思えば随分小さくなった母の背中を見つめてアキラは目を細める。 突然魂が抜けたようになって帰ってきた息子に、何も聞かず見守るという行動がどれほど母の負担になったか知れない。 いつもと変わりなく接してくれた。必要な生活を少しずつ取り戻させ、アキラに時間を与えてくれた。 母もまた、アキラを支えてくれた大切な人の一人。 有難うと――口唇だけを動かした時、ふと母が振り返り、アキラを見つけて驚いた顔をした。 「嫌だアキラさん、いつからそこにいたの? お母さんが音痴だから笑ってるんでしょう」 むくれた表情の母に言われて、初めてアキラは自分が笑っていたことに気付く。 笑顔のまま、アキラは首を横に振った。 「そんなんじゃないですよ。……お腹がすいたんです」 「あら、それは良かったわ。今日はアキラさんの好きな秋刀魚なのよ。市河さんのご実家のほうから分けて頂いたの」 「ホント? ……ボクも手伝います。これでも、ちょっとは料理の腕が上がったんですよ」 アキラがそう言うと、母は嬉しそうに微笑んだ。 アキラは台所へ近付き、流しで手を洗い始めた。母は並べてあった野菜を指して、アキラに切り方を説明した。久しぶりに握った包丁の感触が、やけに懐かしいとアキラは口角を持ち上げる。 野菜を切りながら、気持ちが今までになく落ち着いていることを実感した。これまでの得体の知れない焦りが嘘のように。 今なら、もっと冷静に自分を見つめ直せる。……そうだ、芦原にも謝らなくては。今の自分なら、ずっと素直に彼の好意を受け入れられる気がする。 そして、一歩踏み出さなくては。気付いただけでは何も変わらず、変わるための努力をしなければならない。 今はまだ、やっと原点に立ち返ったばかりなのだ。ここからスタートしなければ始まらない。 待っていてくれている人のためにも。 「お母さん」 「なあに?」 「そろそろ、マンションへ戻ろうと思います」 アキラの言葉に母は一度手を止め、すぐに可愛らしく微笑んだ。 「そうね。……そろそろ、いいかもしれないわね」 まるで独り言のように呟いた母は、棚から何やら調味料を取り出しながら、「実はね」とごく軽い調子で話を切り出した。 「アキラさんが帰って来る何日か前。……進藤くんがうちに来たのよ」 アキラは思わず右手を滑らせかけて、慌てて包丁から手を離した。 「まあ、大丈夫?」 「お母さん! ……進藤が来たって……」 幸い包丁が皮膚に擦ることはなかったため、アキラは構わずに母へと詰め寄った。母はそんなアキラが肩透かしを食らう程に、何処かおどけたような、種明かしをするような表情で微笑みながら続けた。 「ええ。……今、貴方が行き詰まってるって。きっと、近いうちに失望して帰って来るだろう……って。でも、どうか問いつめたりしないで、貴方を見守ってあげて欲しいって、進藤くんが」 アキラは目を見開いて、震える指先を握り締める。 「……進藤が、そんなことを……?」 「言っちゃダメって言われてたから、進藤くんには内緒よ」 まるで少女のように片目を瞑ってみせる、母の屈託ない笑顔にアキラは面喰らった。 「いいお友達を持ったわね、アキラさん。大切になさい。自分のことみたいに、一生懸命な顔していたわ――」 ――お願いします。 塔矢……、すっごく落ち込んで帰って来ると思うんです。 でも、アイツ、絶対立ち直るから。 だから、それまで……アイツのこと、見守ってやってもらえませんか―― 「……はい」 アキラは頷き、目を細めて離れているヒカルに思いを馳せる。 ヒカルは待っている。ずっと。……今も。 感動に浸るアキラの前で、ヒカルとのやりとりを思い起こしているのか、何処か遠い目をした母がふいにくすくすと笑った。 その意図が分からずにアキラが目を丸くすると、母は楽し気にアキラを振り返り、こんなことを言った。 「でもね。進藤くんに言われなくても、貴方が立ち直ることは分かってたわよ」 アキラは瞬きを数回繰り返し、微かに首を傾げてみせる。 「……何故、ですか?」 呆けた表情でアキラが訪ねると、母は実に美しい笑顔を見せた。 「だって、貴方の親ですもの」 これも進藤くんには内緒ね、と微笑む母に、アキラは数秒固まって、それから堪え切れずに吹き出した。 ――この人には適わない。 声を出して笑ったのは、どんなに久しぶりだっただろう。 アキラは目尻に薄ら滲んだものを和やかな笑いのせいにして、そっと指先で拭った。 |
ア「キミ、ボクのこと信用してるとか言いながら相当手回ししてたね……?」
ヒ「だってお前超ヘナチョコなんだもん」 ア「……」
そんな感じでアキラさん浮上です!
(BGM:NOBODY IS PERFECT/布袋寅康)