NOBODY IS PERFECT






 ――思えば、父との真剣勝負はこれまで経験がなかった。
 いや、対局する時はいつも真剣だった。しかし、自宅で、それも基本的には指導を受ける立場で、公式の手合いで味わうような緊張感のある勝負をするまでに意識を高めることは難しい。
 タイトル戦で頂上を目指して競いたいという願いは、父の引退と共に潰えた。
(でも)
 タイトル戦などという名目がなくとも、本気の勝負はできるはず。
 父もあれほど言っていた。この身があれば碁は打てる。
 今対峙している相手は、父親であり師匠でもあり、そして何より塔矢行洋という棋士である。
 一方アキラはこの二ヶ月、まともな碁の勉強はしておらず、頭はすっかり鈍り切っている。
 現役時代は最大五冠を誇り、今なお各地で棋士としての活動を精力的にこなす行洋相手に、どこまで食らい付けるのか――
(これが、貴方との初手合いだと思って)
 黒石を指に挟み、アキラは初手を打った。
 初めて自分だけの碁盤に碁石を打った時のように、朗としていながら指に受ける衝撃は重く、胸の奥まで揺らさんばかりにびりびりと刺激が伝わって来る。
 ――ああ、ずっと忘れていた、この感触。
 たった一手がここまで気持ちを昂らせてくれることを、もうずっと忘れていた。
 目先の幸せだけを追い求めていたかつての自分が、手を離しかけていた世界。
 あのまま完全に失ってしまったら、きっともう二度と戻れなかったこの世界。
 しかしアキラが感動に浸る暇はなかった。
 碁盤の向こう、ずんと構えた行洋がゆっくりと碁笥に手を伸ばし、白石を掴んで碁盤の上に掲げた。
 パシ、と小気味良い音が耳を抜けて行く。
 打った余波が風となってアキラに向かって来るようだった。
 病を経て現役の頃よりも少し窪んだ瞳が、ぎらぎらと静かながら強烈な光を燻らせてアキラの一手を待ち構えている。
 雄弁な眼差しがアキラを威圧せんと鋭さを増した。
 アキラはごくりと唾を飲み込み、きつく口唇を結んで黒石を指に挟む。
 気持ちで怯んでは勝負にならない。――もう、あんな無様な姿は晒したくない。
 本因坊リーグ第六戦、始まる前から気圧されていたヒカルとの対局のように。

 もう、誰も失望させるものか。
 ヒカルも、父も、兄弟子たちも。
 そして自分自身も。

 何一つ、失うものか。
 囲碁も、大切な人も、愛する人も、何一つ。
 ――ボクにはその力があるはずだ。





 碁盤に打たれる石の音が早朝の澄んだ空気に抜けて行く。
 朝食の支度を終えた明子は一度行洋の部屋の前までやって来たが、中から聞こえる碁石の音に足を止め、すぐに踵を返した。
 その横顔は穏やかな微笑みを湛えていた。





 ***





 終盤が近付くにつれ、アキラは引き攣れるように跳ね上がろうとする肩の力を無理に押しとどめなくてはならなかった。
 もう少しで大ヨセも終わる。終局図はすでに頭に描かれているが、投了の声をあげるのが躊躇われる。
 できるだけ長く、この神聖な空気を感じていたかった。
 アキラは腹の底から沸き起こるものを堪えようと、空いた左手で口を覆った。震えに諍えずに肩が揺れる。眼球の裏でじわじわと沁みて来るそれだけは、せめて終局まで見せまいと口唇の端を噛み締めた。
 半目敵わない。――いや、よくここまでついて来れたと自賛しても、今回だけは咎められないだろう。
 父は全力で打ち切ってくれた。真剣に相手をしてくれた。二ヶ月前、腑抜けのようになって帰って来たアキラとは朝晩の挨拶程度しか言葉を交すことがなかった父の、全ての答えがこの一局に表されている、そんな気がした。
 小ヨセに入る。不規則に喉を震わせて苦し気に感情を押さえ付けるアキラの前で、父は何も言わずに石を打った。ともすればしゃくりあげてしまいそうになる背中を不格好に丸めるアキラに対し、無言で石を導く父にアキラは深く感謝した。
 もっと早く、こうして向き合ってもらえば良かった。
 所詮この身は碁打ちで、どんな語らいよりもただの一局が実に雄弁になる。
 最強の相手と力を尽くして語り合える。
 それがどれだけ素晴らしいことか。
 そして、この対局相手が師であり父であることが、どれほど誇らしいことか。

『お父さん、……ボクいごやりたい』

 あの日無邪気にアキラが見上げた、父はまだ「父親」だった。
 やがて父と同じ場所で碁の道を目指す者として、折り畳み碁盤を封印した時から――アキラはただ囲碁を楽しむだけでは許されない場所へ立たなければならなかった。
 すなわち、父を師匠として慕うこと。
 思えば、その切り替えが思った以上にうまく行かず、距離の取り方が分からなくなったのかもしれない。
 今はもう、そんな些細なことは気にならない。
 目の前の人は偉大な棋士で、尊敬する師匠で、敬愛する父親である。
 気の抜けていたアキラの身体に、魂を吹き込む手伝いをしてくれた存在。
 ……それで良いと、アキラは最後の石を打った。
 整地は必要ないだろう。――半目、敵わない。
「……あり、がとう……ございました」
 それだけ口にするのが精一杯で、一度声を漏らしてしまえばずっと抑えていたものがぼろりとこぼれ落ちるように、アキラは嗚咽で背中を揺らし始めた。
 ――有難うございます。
 言葉にならない声が、何度も感謝の気持ちを伝える。
 ――打たせてくれて、有難うございます。
 囲碁を教えてくれて、有難うございます。
 何も言わずに居てくれて、有難うございます。
 たくさん伝えたいことはあるのに、遂に溢れ出した涙が邪魔をしてうまく言葉が繋がらない。
 身体だけは大きくなったのに、これでは小さな子供と変わらないではないか――……
「……私は」
 ふと、父が静かに口を開いた。
 はっとしたアキラは、弾かれたように顔を上げる。
 父の目は酷く澄んでいて、波ひとつ立たない水面のように和いでいた。
「お前にとって、良い父親ではなかった」
 アキラはふわっと瞳を大きく広げ、ぱちぱちと瞬きをする。その度にはらはらと滑り落ちる涙が頬に幾筋も線を描いていた。
「お前が初めて碁をやりたいと私に言った時。喜びと同時に酷く怖れた。この道には答えがない。自ら惑い、苦しみ、もがきながら前に進み、一生賭けて最果てにたどり着けるかも分からない」
 ひく、とアキラの肩が跳ねる。
「私とて、未だ極められない道だ。ここに至るまでにもそれなりの苦渋を嘗めて来た。お前にこの道を勧めることは、私にとっても人生の選択に等しかったのだ」
「……お父さん」
「しかしお前は自ら囲碁に惹かれ、私を師と選んだ。嬉しい反面、寂しくもあったよ。……欲を言えば、もう少しお前の「父親」でいたかった」
 そう言って父は優しく微笑んだ。
 こんなに安らかな父の笑顔を見るのは、一体いつ以来だろう。


 ――お父さん、お父さん!――


 小さな頃の自分が碁盤を抱えてはしゃいでいる。
 何の不安もなかった、あの頃。
 ずっと守られて来た。そうと気付かず、一人で歩いて来たような顔をしていた……






息子ぐずぐずです……
基本的にアキラさんはお父さん似だと解釈してます。
見た目もそうですが性格が特に……
陽の部分がお母さん似、陰の部分がお父さん似って感じ……??