One More Kiss






「塔矢ぁ、しっかりしろー……」
 アキラを励ますヒカルの声にも諦め感が強く漂っている。
 アキラはヒカルに抱えられるようにしてアトラクションを降りた過去の自分を消したかった。
(もう泣きたい……)
 ヒカルが乗りたいと言ったひとつ目、新しい乗り物ということでヒカルも詳細をよく分かっていなかったらしく、事前情報が少ないまま挑んだアトラクションはいかにもなタイプのジェットコースターだった。
 形からして危ないとは思ったが、ヒカルの前で弱音は吐けないと果敢に挑んだ結果、神の怒りに触れて重力に逆らい一回転するという貴重な体験にアキラは白目を剥きかけた。
 乱れ髪で震える手足を奮い立たせて臨んだふたつ目、ヒカル曰く「さっきの滝のやつと同じようなもの」だそうで、では最後だけ頑張ろうと注意深く安全バーにつかまっていたアキラだったが。
 突如増したスピードに呆気にとられているうちに、暗黒を走り抜ける車が突然宙に投げ出された。空を飛んだ――ようにアキラには感じた。
 気づけば車は停車していたが、アキラの脚は一向に言うことをきいてくれなかった。いわゆる腰抜け状態である。
 周囲の冷たい視線を受けながらヒカルに引き摺られてその場を後にし、近くにあったレストランに連れ込まれてややしばらく放心。向かいに座るヒカルはオレンジジュースを飲みながら、時折アキラに声をかけて無事を確認する。アキラはその度カクカクと頷いていた。なんとも説得力のない姿である。
 特訓しよう、アキラは心に誓った。
 このくらいの乗り物に耐えられないようでは、ヒカルのデートの相手なんて務まらない。誰かを道連れにして特訓しよう――そうだ、芦原さんだ、芦原さんがいい。あの人ならデリケートなんて言葉とは無縁だから、こんなアトラクションのひとつやふたつや十個や二十個、屁でもないだろう。
 いや待て、芦原さんをこんなところに連れてきたら、はしゃぎすぎてもう帰らないとか言い出すかもしれない。そうなるとストッパーが必要だ、緒方さんも連れてこないと。
 ……でもこんな夢のある場所を白スーツで闊歩されるのはなんとなく嫌だ。両手に芦原さんと緒方さんというヴィジュアルも凄く嫌だ。
「塔矢……なんかぶつぶつ言ってるけど本当に大丈夫か?」
 ヒカルがアキラの顔を覗き込むようにして尋ねてきたので、アキラは頭の中の珍妙なメンバーをさっさと掻き消した。
「大丈夫。ごめんね、心配かけて」
 身体のほうはかなり落ち着いてきた。どちらかというとヒカルの前であまりにカッコ悪かった自分への精神的ショックのほうが大きかったのだ。
「もう歩けるか? まだ脚ヘン?」
 ヒカルの優しい聞き方が余計に傷を抉るが、アキラは耐えて首を横に振る。
「大丈夫だよ。まだ行きたいところあるんだよね? もう歩けるから」
 アキラは立ち上がってみせた。ちょっとだけ脚がフラついたが、気力で立て直す。ヒカルの心配そうな表情はあまり晴れなかったが、ヒカルは何だか時間を気にしているらしく、アキラを気遣いながら立ち上がった。
「お前、入口の近くまで戻れる? なんか湖みたいになってるとこまで」
「大丈夫だよ。何かあるの?」
「うん、ちょっと」
 ヒカルがおもむろにアキラの右手を握る。
「!」
 アキラが驚いて手を引っ込めるより早く、ヒカルはアキラの手をとったまま走り始めた。
 引っ張られたままつんのめるようにアキラは走る。誰も彼も他人のことには無関心で、手をつないで走るヒカルとアキラを気にも留めない。
 アキラは目をしっかり開いたまま、風を切って走った。
 ――手をつなげたらいいな、と思った。でもヒカルは怒るだろうと思っていた。
 胸が痛い。顔は冷たい。暖かいのは手のひらだけ。脚はまだ少しがくがくしているが、ヒカルに遅れまいと必死で回転している。
 そうして走って走って人の間をすり抜けて、辿り着いた小さな港には何故か大勢の人だかりができていた。水面に煙が上がり、空に交差するレーザー光線が何事か行われていたらしい名残を残している。しかし人々は帰り支度を始めているようだ。
 ヒカルはぱっとアキラから手を離して、残念そうな声を上げる。
「あーあ、終わっちゃったかあ」
 アキラとしてはヒカルと離れた手のほうが余程残念だったが、口には出さなかった。代わりに何が? と目で尋ねると、ヒカルは人だかりを指差して説明した。
「夜のショーやってたんだよ。あそこで。今終わったばっかみたいだな」
「そうだったんだ」
 アキラがぐったりしている間にヒカルがそわそわしていたのは、これをアキラに見せたかったからなのだろう。
「ごめん、ボクが腑甲斐無いから」
「え? いいよ、お前のせいじゃないって。俺がまたあんなのに乗せたから悪かったんだし。……よし、ショーはダメでももうひとつあるから、ちょっと待てよ……」
 ヒカルはアキラに背を向け、ごそごそとリュックサックから何か取り出している。アキラが覗き込もうとすると、ヒカルは振り向いて「こっち見んな」と威嚇した。それでも肩の向こうに見えてしまった、ヒカルが隠したガイドブック。
 アキラはぱちぱちと瞬きをする。――ひょっとして、妙に手際よくふたつのテーマパークを回ると思ったら。
「……あらかじめ調べていてくれたの?」
「……」
 ヒカルは黙ってガイドブックをしまいこんだ。
 事前にガイドブックを見ながら回るコースを考えるヒカルを想像して、なんとも言えず胸が苦しくなる。嬉しいけど苦しい。
 この気持ちはなんだろう? もうこれ以上ないくらいにヒカルが好きでたまらなかったのに、今までの気持ちすら生温いような熱いものがこみ上げてくる。
 抱き締めたいと、キスしたいと思う。もしアキラがそれを望めば、いつも通りヒカルは拒まないかもしれない。
 でもそれだけでは嫌だ。ヒカルに応えて欲しい。ヒカルから求めて欲しい。ヒカルの返事を聞きたい。アキラと同じ気持ちだと、そう言って欲しい。
 あれから一年、何故彼は何も言ってくれないのだろう? 何故今日はデートだなんて言ったのだろう? 募り続ける想いははち切れんばかりなのに、哀しいくらい彼はアキラを中途半端に喜ばせて。
「塔矢、こっち! こっちならよく見えるって!」
(進藤……、キミは、)
「始まるぞー! 塔矢、早く!」
(――ボクのことをどう思っている?)
 走るヒカルを追いかけたアキラの頭上で何かが眩しく光った。
 振り返って空を見上げたアキラの目に、夜空に咲いた大輪の花が映る。
「始まっちゃった!」
 ヒカルは立ち止まってアキラの隣まで戻ってきた。
 道のど真ん中で、二人は並んで天を向く。
「花火。もうちょっと先に行ったほうがよく見えるらしいんだけど、でもここでも充分見えるな」
 ヒカルは首を上に向けたまま、隣のアキラに同意を求めた。アキラは黙って頷いただけだったので、ヒカルに返事が伝わったかどうかは分からない。
 ただ胸が痛かった。隣り合わせのこの距離があまりに近く、そしてあまりに遠くて心が乱れる。
 何気なくアキラの手を取り、さり気なく笑顔を見せるヒカル。その残酷な無邪気さに頭がクラクラする。それでいて何も言えない自分の惨めさ。
 今この瞬間は言葉にできないほど幸せだけれど、この後ヒカルと別れて一人になった時、心を縛る虚しさに思い知らされるのだろう。所詮自分たちの関係は一年前と何ひとつ変わっちゃいないのだと。
「お前と花火見るの二回目だな」
「……そうだね」
「祭りん時より迫力ないけど、でもキレイだな」
「……ああ、キレイだ」
 キレイなのはヒカルだ、とアキラは思った。純粋な瞳。どこまでも無防備な、そのくせ底を覗かせない湖のような眼差し。
 彼の頬を光が照らす、七色の空の下でアキラはヒカルに横目を向けた。
 祭りの日、縋るような目でアキラの手を強く握り締めたヒカル。
 その面影は、今のヒカルにはない。
 ――キミが好きだ。
 大声で叫びたい。でも喉が張り付いたように声が出ない。
 ――キミが好きだ。
 息が苦しい。言葉は喉の途中に引っかかったまま胸の奥に弾けて消える。
 ――キミが好きだ。
 割れそうに鳴り響く声は頭の中だけで、実際の自分はひゅうひゅう頼りない呼吸をするのが精一杯で。
 ――言えない……
 たった一言が怖い。





 空を染める光の花に、いくら手を伸ばしても今のボクでは届かない気がした。
 そうだ、空に弾けて風に掻き消える花火はボクの想いによく似ている。
 どれだけ大輪の花を咲かせても、煙となって暗い闇に呑み込まれた後は、大切な人の記憶に頼るしかない。
 キミの心に、ボクの場所はありますか?
 キミの心に、ボクを咲かせてくれますか。
 眠る前に、ボクを思い出してくれませんか。少しでいいから。夜空に掻き消えたボクの声を。






 ***






 帰路の途中、一言二言話した後、ヒカルは電車の中で眠ってしまった。
 一日遊んだ身体はすっかり疲れているのだろう。それでもアキラを家まで送ると言って聞かなかったヒカルは、塔矢家の最寄駅まで強引に切符を買った。
 一人になりたい気持ちとヒカルと離れたくない気持ちが交錯してアキラは胸を掻き毟る。
 ヒカルが眠ってくれてよかった。とても誕生日を祝ってもらった後の顔ではない。
 駅に着いて、とても躊躇った。ヒカルを起こすかどうかで宙を彷徨った腕は、結局眠る彼の肩に手を置いたのだ。

「あー、疲れたけど楽しかったな〜」
 閑静な住宅街の夜は人通りもなく、ヒカルの呟きがやけに空に響いていた。
 アキラは黙って微笑んだ。些細な言葉もアキラの喉で渦を巻く。相槌ですらうまくできない自分が歯がゆかった。
「こんな遅くまで引っ張りまわして悪かったな。お前も疲れただろ?」
 アキラは首を横に振る。身体はそれほど疲れていない。
 ただ、頭の奥が痺れたように重かった。横になって少し気持ちを落ち着けたい、そう思った。
 手を少し伸ばせば触れられるほどの距離に並んでいるのに、今のアキラにはその距離があまりに大きい。これ以上自分を追い込む前に、一人の時間が欲しかった。
 それなのに、自宅に着いてしまった時は胸に一抹の寂しさが灯る。
「じゃあ、今日はお疲れ。ゆっくり休めよ」
「……ありがとう」
 笑顔のヒカルを前にして、ようやく出てきた言葉はそれだった。
 うまく笑えているだろうか。ヒカルは別に妙な顔をしていないから、大丈夫なのかもしれない。
 それでも気を抜くと顔が崩れてしまいそうで、やはり少しは強張った表情になっていただろう。二人が吐き出す息が白くて、その靄がうまく隠してくれるようにアキラは願った。
 ふと、白い息が空気に溶けて、はっきり見えたヒカルの顔がぼんやりアキラを見ていた。
 自然と息を止めていた。瞬きをしようと力を込めた瞼が動かない。
 近づいてきたヒカルの伏せた睫毛から目が離せず、そうして口唇に触れたものがヒカルからのキスであると、すぐには気づけない。
 ほんの一秒の僅かな熱。
 目の前のはにかんだ笑顔。アキラの世界で時間が凍る。
「……ハッピーバースデイ」
 ほんの一秒ほどの僅かな熱。容易くくれたヒカルの笑顔。
 アキラの止まった時間は動かない。
「じゃあな。おやすみ。バイバイ!」
 駆けていくヒカルの背中。棚引く白い息。アキラの時を止めた彼は、身を翻して去っていく。
 ほんの一秒。触れたか触れていないか分からないくらいの些細なキス。
 初めてのキス。ヒカルからの初めてのキス。アキラが想いに任せて無理やり奪ったものとは違う、他愛のない小さなキス。
「……進藤」
 暗い夜道に独りきり。
「進藤」
 掠れた呟きを風が飛ばしていく。喉の奥からせり上がってくる堪え切れない思いの塊。
 言ったじゃないか。――ボクはふいうちに弱いって。
「進藤」
 呼びかけは届かない。すでにヒカルの姿は見えない。
 誰もいない夜の闇に、壊れたおもちゃみたいにその名を繰り返す。
「進藤……」
 胸に棲まうこれは何? 心を縛るこれは何だ?
 ジンジン痛む喉の震えを押さえきれずにアキラはしゃくり上げる。頬に触れた刺すような空気で、初めて自分の涙に気づいた。
「……キミが……」
 ほんの些細なキス。たったそれだけがアキラの全てを駄目にする。
 ついさっきまで迷い込んでいた、出口の見えない迷路さえも入り口からすっかり破壊してしまうほど。
「キミが好きだ」
 何に捕らわれても、何に縛られても、変わらない答えが搾り出される。
「キミが好きだ」
 たったそれだけがこんなに苦しい。震える胸を止めようもない。
 嗚咽の漏れる喉が痛い。頭も目の奥も全て痛い。だらだら溢れる涙は頬を伝って地上に落ちる。
「キミが好きだ」
 二人で並んだ花火の下、あれほど出てこなかった言葉を馬鹿みたいに繰り返す。
 キミが好きだ。
 キミが好きだ。
 キミが好きだ。
「……しんどう」
 濡れた頬に指で触れたら、もう止まらなかった。
 アキラは家の前で立ち尽くしたまま、ひたすら肩を揺らしてしゃくりあげ、何度も何度も愛を呟く。
「好きだ……」
 諦められない。――諦められない。
 ヒカルの気持ちが分からない。悪戯にキスをして、悪戯に去っていく、通り雨はアキラの心で嵐を起こす。
 ヒカルが好きだ、ただそれだけ。嵐は小難しい感情の渦を全て吹き飛ばし、最後に残った気持ちは呆気無い程シンプルな「キミが好き」。
 そして想いは再び風に迷う。前にも進めず後ろにも下がれず、これからもアキラの胸を締め付けていくのだろう。
 それでもいいと、アキラは泣いた。戻れないし、戻りたくない。
 ただただヒカルが好きな気持ちはどうにもならない。
 弱い自分をどうにもできない。
 想いの行方を彼に任せて、そうして自分は待つのだろう。
 彼の心がここになくったって。


「進藤」

 だからもう一度、その照れくさそうな笑顔を見たい。

「進藤」

 ……戻ってきて。もう一度、笑って欲しい。

「進藤」

 戻ってきて、もう一度、キスを。

「進藤……」

 もう一度、……ボクにキスを。










レベッカの名曲を借りました。
大事なものほどいたってシンプルで、
難しく考えるとなんでもどんどんハマっていく。
人間ほど単純かつ複雑なものはないかと。
(BGM:One More Kiss/レベッカ)