One More Kiss






「とりあえず、午後はあんまりキツイの乗らないようにするからさ」
 昼食にはまだ時間が少し早かったが、お昼ぴったりの時間は混むからと、ヒカルの好きな中華系の食事が楽しめる店に入った。
 アキラの誕生日だと言うのに、自分の好みで店を決める辺りがヒカルらしい。大分体力も回復してきたアキラは、ヒカルと同じ海老入りラーメンを注文して、まだ風の冷たいテラス席に腰を下ろした。
 冷えかかった身体に熱いラーメンが染みていく。
「ホント、キツかったら言えよな。お前すぐ我満するし」
「えっ……」
 ヒカルの言葉にアキラは少し赤くなる。
 ヒカルはアキラの目を見ずに、ひたすらラーメンを掻き込んでいる。ぶっきらぼうだが、自分を気遣ってくれていると思うと、アキラの心はひどく暖かくなった。
 いつもなら、ちょっとファーストフードに寄るだけでもアキラの奢りだと喚くヒカルが、さっきのココアとポップコーンといい、ここの食事代といい、アキラの誕生日だから払うと言ってきかなかった。ここのチケットだってそれなりの金額がするだろうに、ヒカルは頑としてアキラからの金を受け取らない。
 ヒカルなりに、アキラの誕生日を考えてくれている。その気持ちだけで、何だって我満できるような気がしてくる。
「絶対無理すんなよ。今日……せっかく誕生日なんだから」
「進藤……」
 ヒカルの少し照れたような顔が湯気に見え隠れする。
 アキラは自分を恥じた。――この良い雰囲気を壊してたまるか。
 ヒカルと一緒に居られる幸せを考えたら、何を恐れることがあるだろう? いやない!
「進藤、ありがとう。本当に楽しいよ。キミとこうして……一緒に居られるのが楽しい」
「……バーカ」
 そっぽを向くヒカルに、アキラは心からにこにこと笑いかけた。
 そうだ。今日はデートなんだ。去年の今頃、一人鬱々としていた日々を思えば今の幸せは計り知れない。
 すぐ傍にヒカルが居てくれる。これ以上何を望む?
 アキラは拳を握り締めて天に誓った。――神様、ボクは戦い抜きます。
 なんだか知らないが気合の入ったアキラを前に、ヒカルの心配もだんだん晴れてきたようだ。
「よーし、じゃあ食後に最後のマウンテンな!」
 ――滝か!!
 アキラの瞳が一瞬光を失って鈍くくすんだが、ヒカルは気づかなかったらしい。楽しげにラーメンを啜るヒカルの前で、アキラは貼り付けた仮面のような笑顔を称えていた。



 まだここに来て二つの乗り物にしか乗っていないが、大分アキラも学習した。
「進藤、次の乗り物は詳細を教えてくれ。……ボクはふいうちに弱いから」
 あらかじめ情報を仕入れ、ポイントを掴んで備える。
 これは思いのほか功を奏した。なんでもヒカルの説明では、三つ目のマウンテンは急降下するのは最後だけで、それまではただ乗り物に乗ってのんびり景色を見ていればよいものらしいのだ。
 最後の一瞬だけ我満すれば、と聞いてアキラの気持ちが少し軽くなる。
「滝に落ちるところで写真撮られるんだ。俺がカメラの方向教えるから、塔矢も顔作れよ」
 最後にして最大の難関! アキラは気を引き締めて丸太のボートに乗り込む。
 ヒカルの言う通り、前半は何の問題もなく乗り物が動くだけだった。動くぬいぐるみなんかはよくできているな、と感心するほどだ。水の音でストーリーがよく分からないのが残念だと思う余裕さえあった。
「塔矢、もうそろそろだからな」
 隣のヒカルがアキラに合図を送る。深く頷いたアキラは安全レバーを握る手に力を込めた。
「カメラ、あっちの方向。下向くなよ」
 ヒカルの指差す方向を見た。ひたすらその方向を見つめていればいい。後は多少重力に逆らうだけだ。
 楽しげだったぬいぐるみ達の気配が不穏に変わる。遠くで先を行く丸太からの悲鳴が聞こえてきた。水の音がどんどん激しさを増す。
 もうすぐだ。もうすぐだ。もうすぐだ。
 握り締めた指先が冷たい。ヒカルは何故余裕でこの緊迫感に耐えられているのだろう? いいや、余計なことを考えずに集中しなくては……
「塔矢ー、落ちるぞ〜!」
 目の前に光が開ける。


 ――……
 ……、
 ……、



 ――光の先は冷たかった。




 無事に滝つぼから生還したアキラが見たものは、首の角度をボルトで固定されたみたいに不自然に一点を向いた顔に、紙で作ったぱっちりした目を福笑いのごとく無造作に置いたような――しかしカメラ目線である――魂の感じられない無表情のまま、髪の毛だけが威嚇するハリネズミのように完全に重力に反した逆毛の自分の写真だった。
 やけに青白いその顔には、何となく死相が見える。
 ヒカルは腹を抱えて笑い、その写真を二枚も購入した。
 一枚は自分に、もう一枚はアキラに。
 ――ボク、これいらない。
 喉まで出かかったが、自分の隣でばっちり両手を上げ、大口開いた笑顔のヒカルが可愛らしくて、アキラは黙って写真を受け取った。
 後でヒカルだけ切り抜いておこう。
 あまり、この枕元に立ちそうな自分の姿を保管しておきたくない……



 ヒカルが事前に教えてくれた通り、キツいと思われる乗り物はその三つで終わりだった。
 その後にいくつか乗ったものは、アキラでも楽しめるような、ただ乗り物に揺られてストーリーを追う安全設計のものばかりだった。ひょっとしたらヒカルがそういうものばかりを選んでくれたのかもしれない。
 海に浮かぶ海賊船にガラにもなく目を奪われ、人形たちのリアルな動きにひたすら感心する。
 ジャングルに迷い込んだ小船の上では、本物と見紛うほどの動物たちに出会った。その作りをまじまじと観察するアキラを、ヒカルが楽しそうに観察する。
 ユーモア溢れるオバケ屋敷では、現れる様々なオバケたちに思わず顔を綻ばせた。ダンスを踊るオバケたちの不思議な姿につい身を乗り出したアキラの袖をヒカルが引く。なんだかいつもと逆の立場のようで、アキラは自分に苦笑する。
 お腹がすいたらチュロスを食べて、寒くなったらホットコーヒー。
 こんなに様々な世界が広がっているなんて気がつかなかった。建物のひとつひとつに感じるこだわり。街角のダンサーに拍手を送る。
 そして季節はもうすぐクリスマス、赤と緑と光で彩られた景色が自然と心を弾ませる。大きなツリー、ヒカルと並んでてっぺんを見上げた。雪でも降らないかな。ヒカルの呟きに、降るといいね。アキラも頷く。
 あらゆるものが笑顔の空間で、身体は徐々に寒さを忘れていった。そして夕暮れ迫りつつある時刻、ヒカルが時計を確認する。
「あ、もうこんな時間か。そろそろ次行かないと」
「次?」
 聞き返すアキラに、ヒカルは歯を見せてにっこり笑う。
「うん。次はシー!」
 シー? 聞き返すアキラに、ヒカルはシー! と再び歯を見せた。




 再び乗ったモノレール、ガタガタ揺れる感覚も最初ほど怖くはなくなっていた。三つのマウンテンに比べたらこれくらい、とも思ったが、身体が慣れただけではないようだ。
 アキラは夢見がちに窓の外からの景色を見る。もう日が落ちる寸前で、オレンジに染まった空が美しい。そんな空の下に広がる夢の国の魔力は、アキラにも及んでいるようだった。
「楽しかった?」
 隣で尋ねるヒカルに、素直にうんと頷く。
 こんな場所、ヒカルと一緒でなければ一生来ることがなかったかもしれない。最初こそ慣れないテーマパークに苦しんだものの、よく考えれば子供が喜んで遊ぶ場所なのだ。楽しめないはずがない。
 そして、ヒカルが一緒にいるからこその楽しさである。ヒカルと一緒なら、もう一度来てもいい。いや、何度来たっていい。というよりも、ここじゃなくても、どこだって嬉しいのだけれど。
 あれにもう一回乗りたいよな、とか、あれはあそこが面白かったよな、なんてはしゃぐヒカルが愛おしくて目を細める。
 手をつなぎたいな、とアキラは思った。
 さすがにテーマパークのど真ん中では注目の的になってしまうだろうからできないけれど、今、人もまばらなこの車内なら。
 あの日花火を一緒に見た時のように、静かに熱く手を重ね合えたら。
 アキラがヒカルに手を伸ばそうか迷った数秒後、無情にもモノレールは停車する。
「塔矢、降りるぞ」
 さっさと立ち上がってしまったヒカルを恨めしげに追って、アキラも車外に出た。昼よりも冷たさを増した風が髪の隙間を通り抜ける。それでも頬は何故か暑いくらいに火照っていた。
 夕焼けに照らされたヒカルの髪は黄金色に輝いて、いつか見ていたアキラの夢を思い起こさせる。
 ヒカルに想いを打ち明けてから、もうしばらくあの夢は見ていない。アキラを惑わせる、甘い魅力に包まれた夢。光に透けたヒカルの身体を必死で抱き締めた夢の中。
 思えばあれから一年。ヒカルとは曖昧な関係のまま。
 キスしたり、抱き合ったり、一緒に眠ったり。きつくつないだ手の温もりも昨日のことのように覚えている。この一年、誰よりもアキラの傍にいたのはヒカルだった。
 このままで良いのだろうか、とは思う。このままで居たい、でもこのままじゃ足りない。臆病な自分は安定が崩壊することを恐れ、欲張りな自分は馴れ合いの定着を恐れる。
 ヒカルは自分をどう思っているのだろう? ――聞きたい、でも聞かない。
 ――いつまでも待っているのは、聞き出した答えが望むものと違うことを怖れているから?
 待っているだけなら、どれだけ不安と隣り合わせでも期待だけは捨てずにいられる。
 ……時に心の声は辛辣だ。
「塔矢、何してんだ? ほら、チケット」
 気づけばヒカルがゲートの前でアキラにチケットを差し出していた。このチケットも日付入り。いつも行き当たりばったりのヒカルが、彼なりに予定を立ててくれていたことを思うと胸が熱くなる。
「俺もさ、シーは初めてなんだ。でも夜はこっちのほうが落ち着くって聞いて」
 お前にはこっちのほうが合うかもな。ヒカルは笑いながらアキラを先導する。ヒカルと共に歩くもうひとつの夢の国。
 日没が完了し、あちこちが眩く幻想的なライトで飾られている。そういえば今までは自分のことで精一杯で気づかなかったが、よく見渡せばカップルが多い。何となく羨ましげに視線を巡らす。
 ――誰も見ていないよ、少し手をつながないか。
 言ってみたかったけど、ヒカルはきっと真っ赤になって怒るだろうからやめておいた。また、バカバカ連発されるに決まっている。
 でも、今日はデートなのだ。ちょっとくらい夢を見たっていいんじゃないか。どうも周りの雰囲気に感化されたらしいアキラは、耽々とチャンスを狙い始めた。たとえ報われなくたって。
 ゲートを潜ってしばらくは先ほどのパークとの違いが分からなかったものの、賑やかに並ぶお土産の専門店街を過ぎてから開けてきた景色に、アキラとヒカルは感嘆の声を上げた。
 まるで異国の港町に紛れ込んだような気配に胸が躍る。風は潮を含んでいた。遠くに見える火山と大きな船。
「……なんだか違う国に来たみてーだな」
 ヒカルは目をぱちぱちとさせながら360度ぐるりと見渡している。
「そうだね。ベニスとかがモデルなのかな?」
 もう少し明るい時間に来たら、また違った景色になっただろう。
「……確かにこっちのほうが落ち着いてるね」
「だろ?」
 ヒカルの笑顔に安堵が含まれていた。アキラも苦笑する。
 きっとここなら、昼間のような目には遭うまい。
 さりげなく流れるアコーディオンのメロディーをバックに、アキラはゆったりと異国情緒溢れる町並みを楽しんだ。
 これはいい雰囲気だ。さっきよりもずっと大人のデートっぽくなった。上機嫌のアキラの隣でブラウニーを頬張りながら、ヒカルは申し訳なさそうにアキラに切り出す。
「塔矢、あのさ……、俺、ふたつだけ乗りたいのあるんだけど」
「ん? いいよ、乗ろう」
 アキラは深く考えずに返事をした。
 そして二時間後、脚が震えて座席を立てなくなるという大失態をヒカルの前でやらかすハメになるとも知らず。





シーまで行かせる必要は全くなかったんだけど
間がもたなかっ……た……
あんまり楽しそうなデートさせられなくて
アキラさんごめんなさい……