One more time,One more chance






 賑やかな音楽が朝からずうっと鳴り響いている。
 見上げると天井は薄ら靄が見えるほどに曇り、すでに慣れた身体はそれが不快なものだと認識さえしない。
 ただ、この場所から一歩外に出ると、ふわっと新しい空気に包まれるかのごとく耳と目と鼻と、感覚の全てが息苦しい中から解放される、その瞬間は何年経っても特別な一瞬だった。
 思わず何かに引き寄せられるような、振り返りたくなるようなそんな気分に捕われて―― 一度も振り返ったことはない。
 振り向くという動作がやけに心を引っ掻くから。
 同じことの繰り返しの毎日の中、その時だけが物寂しく胸を揺らす。



「進藤、俺休憩入るから」
「ういーす」
 二つ年上のバイト仲間が首を回しながらスタッフルームへ向かうのを見送り、ヒカルは客がいなくなった後のスロット台の後片付けを続けた。
 まだ昼過ぎだというのに、老若男女様々な顔が揃うパチンコチェーン店は普段どおりの賑わいを見せている。
 また、自動ドアが開いて客が訪れた。条件反射のように「いらっしゃいませ〜」と声をかけて振り向くと、開いた擦りガラスのドアの隙間から明るい光が差し込んでいた。
 今日は天気が良さそうだ、とヒカルはため息をつく。随分と暖かくなってきた昨今、そろそろ桜も咲くのだろう。
 今日のバイトは夕方六時まで。のんびり日向ぼっこする時間はなさそうだった。
 明日も晴れるかな――ヒカルは明日のシフトを思い浮かべ、午前中ががら空きであることを思い出してひそかに期待をする。
 一日中こんなところで働いていたら気が滅入って仕方ない。そのくせ笑顔は大安売りしなければいけないし――

「お先失礼しま〜っす」
 制服から元の服に着替えたヒカルは、ふうっと一日の疲れをため息と一緒に吐き出して、家路を急ごうと店を出た。
 喧騒が一気に遠ざかる。
 外の世界だって決して静かなものではない。ひっきりなしに車が行き来し、排ガスにまみれ、夜になれば目を刺激する原色のライトがチカチカと輝く。
 それでもあの店の中で缶詰になっているよりは身体が解放されることを実感しているのだから、まだマシなのだろう。
 外へ出たと共にポケットを探り、くしゃくしゃに潰れた煙草の箱から一本取り出して口に咥え、安っぽいライターで火をつけた。
 正面から吹いてくる風に邪魔されながらも、何とか火が移った煙草を深く吸い込んで、同じように深く煙を吐き出した。
 暖かくはなっているが、陽が落ちると少し寒い。
 ヒカルはポケットに両手を突っ込み、肩を竦めながら騒がしい街を闊歩した。
 どこかでメシでも食ってくか。ぼんやりそんなことを考えながら、今の所持金はどのくらいだったかを思い出す。
 ろくなものが食べられそうにないと判断して、コンビニだな、と呟いたヒカルは煙草を吹かしながら歩いていった。
 どうせ帰っても誰もいない。
 十九の年に家を出てから、もう五年が過ぎ去った。
 たまには顔を見せなさい、と母親からの留守番電話を思い出すと気が滅入るが、確かに今年は正月にも帰らなかったことを思うと仕方が無いことかもしれない。
 そのうち帰らないとなあ。ぽつりと呟いて、ヒカルは灰を散らかしながら歩き続ける。
 短くなった煙草を捨てようとポケットから出された右手、煙草を挟んだ人差し指。
 十年前に磨り減っていたはずの爪は、今はその面影もなく真っ直ぐに伸びていた。




 ***




「進藤、パソコンいらない?」
「パソコン?」
 休憩中、昼食を食べながら突然バイト仲間にそんなことを聞かれて、ヒカルは眉を寄せて聞き返した。
 バイト仲間は「ノートなんだけどさ」と前置きして、
「新しいパソコン注文したんだけど、その店古いヤツ引き取ってくれないとこでさ。今捨てるのも金かかんだろ。お前、前パソコンなんて持ってないって言ってたじゃん」
 と縋るような目で押してくる。
「言ったけどさ、もらっても使い道ねえよ」
「ネットとかやってみりゃいいじゃん」
「俺ん家電話ねえもん」
「モバイルで充分だよ。月千円くらいでやれるんだぜ」
「ん〜、めんどくせえなあ……」
 コンビニ弁当を頬張りながらヒカルはあまり気乗りしない様子でパイプ椅子にどっかり凭れた。
 するとバイト仲間はニヤリと意味深な笑みを浮かべ、ヒカルと彼の他に誰もいないスタッフルームだというのにそっと耳打ちすべく顔を近づけてきた。
「エロサイト見放題だぞ」
 ヒカルの耳がぴくりと動く。
「まじ?」
「まじまじ。そこらへんでビデオ調達するより安上がりだぞ〜。人目も気にしなくていいし、無修正もごろごろ転がってるから」
「まじ!」
 きらりと輝いたヒカルの目に満足したらしい彼は、よしよしとヒカルの肩を叩いて、
「んじゃ、今度持ってくっから」
 と提案をすでに承諾済みにしてしまったようだ。
 ヒカルは一瞬躊躇ったが、まああって困るものではないしと自分を説得して、頷いてみせた。


 今のバイトを始めて二年。給料は悪くないし、人間関係もすこぶる良好だ。
 最初の一ヶ月は終始店内に響く大音量の音で頭がおかしくなるかと思ったが、じきに慣れた。耐えられないと言って辞めていった人間も多かったから、たまたま自分に合っていただけかもしれない。
 それまではいろんなバイトを点々としていた。コンビニ、ガソリンスタンド、引越し屋。頭を使わない仕事はそれなりに長続きしたけれど、飽きっぽい自分は同じ場所に何年も留まるのが苦手で、せいぜい二年が目安だった。
 今の仕事も、そろそろいいかなあ――ここ二、三ヶ月、そんなことをよく考えている。
 ひとつのことを長く続けることができない。学生時代によく言われた言葉だ。
 教師たちの予想通り、卒業後もまともな職にはつかず、バイトを渡り歩いて気づけば二十四歳。親はすっかり呆れ果て、今では小言も言わなくなった。大方、家を出て働いている分ニートよりはマシだとか思っているのだろう。
 名前さえ書けば合格するなんて言われた高校を出て、何の役にも立たない専門性を身につける適当な専門学校に通って、バイトで食いつないで何を夢見るでもなく日々を曖昧に暮らすのみ。
 はっきりいってロクデナシ以外の何者でもない。
 たまに連絡が来る友人たちと月に何度かバカ騒ぎする、娯楽といえばその程度だ。
 明日のことにさえ頭を使わない。
 その日暮らし、がこうまでしっくりくる人間も珍しかろう。
 熱意もやる気も遠い昔に置き去りにしたまま見失ってしまったもの。
 何をしたいとも思わない。何ができるとも思えない。
 自分という存在が、多くの人がひしめくこの世界の中で宙ぶらりんになっているような気がする。
 ――俺一人、どうなったところで誰が気づくわけでもない。
 いつしか、心の根っこにそんな言葉が居座るようになっていた。



「ノートだなんて言うから油断してた……」
 持たされたパソコンを何とか部屋に運び入れ、床に下ろしたところでヒカルはふうと息をついた。
 バイト仲間からプレゼントされたパソコンは、A4サイズの見た目もまだ真新しいものだったが、如何せん重かった。紙袋は二重になっていたが、持ち方が悪いと突き抜けてしまいそうで、途中からヒカルは抱えて持ってくることを余儀なくされたほど。
 紙袋からパソコンを取り出して、年中出しっぱなしの粗末な折りたたみテーブルの上に乗せる。
 シルバーボディには多少の擦り傷が見えるが、中古にしては綺麗なほうだろう。
 USBで接続するマウスと古ぼけたマウスパッドがおまけについていて、これならパソコン慣れしていない自分でも何とか操作できそうだと、ヒカルは早速パソコンを立ち上げてみる。
 面倒くさがりなヒカルのために、面倒見のいいバイト仲間はネット接続のための手続きを買って出てくれて、すでにデータ通信専用のカードも揃えておいてくれていた。
 後はカードをパソコン本体に差し込めば、すぐにでもネットが楽しめる状態なのだ。
「あいつ、結構いいヤツだよな」
 独り言を呟きながら、表示される青いスクリーンに目を細めて、ヒカルはぼんやりモニタを見つめた。
 パソコンだなんて、最後に触ってからもう何年経つだろう。
 ――十年前に、ネットカフェで大騒ぎしていた時以来。
 そう思うと、喉を握り潰されるような息苦しさを感じたが、軽く眉を顰めただけでそれ以上表情には出さなかった。
 現れた画面はあまり馴染みがなく、ヒカルは小さく舌打ちした。
 そうか、そういやあれはMacだったな。口の中で呟いて、それでも基本は同じだろうと画面の中のアイコンをいじり始める。
 メールの設定もすでに終えていると聞かされていたのでメーラーを立ち上げてみると、早速新着メールが一通入った。
 このパソコンを譲ってくれたバイト仲間からだった。
『無事に起動できたか? なんか分かんないことあったらいつでもメールしろよ!』
 なんて出来た奴だろう、とヒカルは感動さえ覚える。
 彼からのメールには、ブラウザの立ち上げ方や検索方法など、パソコンにほとんど触れたことがないというヒカルのために事細かなやり方が書かれていた。
 これなら俺でも何とかなりそうだと、ヒカルは彼のメールの通りにブラウザを起動させる。
 子供の頃にネットカフェで触っていたパソコンとは若干使い勝手が違ったが、このメールのおかげで困ることはなさそうだった。
 そうしていざ彼の指示通りに検索画面を表示させて、そこでヒカルははたと動きを止める。
 ――何を調べようってんだ。
 何か知りたい情報があるわけでもない。見たいサイトがあるわけでもない。彼はエロサイト見放題なんて餌をちらつかせたが、記念すべき最初の接続がエロサイトだなんて情けないにもほどがある。
「……」
 ヒカルは随分と薄れた記憶の間にぼんやり浮かぶ、覚えのある画面を思い浮かべて押し黙った。
 ――もう、十年以上も前になる。
 過去に唯一、ネットを使ったあの当時。
 打つ場所がないと嘆く幽霊のために、ネットカフェに通いつめたあの頃。
 今ではこの指は碁石の感触すらも忘れてしまった。



 あの頃は、佐為がいた。






今回はとってもアキヒカ未満です。
というかアキラさんほとんど出て来ない……
一種のパラレルだと思って読んで頂ければ有り難いです。
久しぶりに原作たくさん読み返しました……