今思えば、長い長い夢を見ていたのではないだろうか――そんなことを自嘲気味に考えることもある。 夢のような月日だった。ある日突然取り憑いた幽霊は、それはそれは綺麗な姿で、そのくせ変に子供っぽくて我侭で、でも誰より優しかった。 彼のために碁を打ち、やがて自分も碁の魅力に引き込まれて、いつしか可哀想な幽霊の心を置き去りに、自分だけで碁の世界を一人占めしてしまっていた。 そうして、消えてしまった幽霊。 あれから、ヒカルは碁石に触れることを諦めた。 碁を辞めてから無理矢理に入った三流高校では何も学ぶものはなく、フラフラし続けて今に至る。 交友関係も随分変わった。 碁を通して知り合った友人たちとはもう何の連絡も取り合っていない。 最初こそ頻繁にコンタクトを試みようとしていた彼らも、時が過ぎるにつれて興味が薄らいだのか、今では連絡先さえ分からないままだ。 周りにいる人間に、ヒカルがかつて囲碁のプロ棋士であったことを知る者は誰もいない。 人々の記憶に自分という存在は残ってはいないのだ。――それを、すでに淋しいとも思わないのだけれど。 ヒカルはふらりとキーボードへ手を伸ばし、検索欄に、ある単語を打ち込んだ。それは気まぐれでありながら、必然でもあったような動作だった。 検索結果からたどり着いた懐かしいネット碁のトップページを眺めて目を細める。あの頃とデザインすら変わっていない。 つい、登録者リストに並ぶ名前を上から下まで確認して、ヒカルは皮肉を込めて微笑んだ。 知った名前など、あるはずもないことは分かっているのに。 zelda……和谷も今頃は段位を上げて、高段の棋士たちと切磋琢磨しているのだろうか。忙しく日々を過ごしているに違いない。ネット碁で遊んでいる暇などないだろう。 toyakoyo……塔矢先生は元気でやっているだろうか。棋士を辞めてしまって、一体どうしているのだろう? 過去に患った心臓は大丈夫なのだろうか……。 akira……塔矢アキラ。彼も……きっと、日本を代表する棋士の一人になっているはずだ…… いつも一生懸命だった、真直ぐな目をした彼のことだから。 『なんのためにプロになったんだキミは!』 髪を振り乱して追ってきたアキラ。 『ボクと戦うためじゃなかったのか!』 なりふり構わず、必死に、しかし力強くヒカルに向かってきた真摯な問いかけ。 あの強さが眩しすぎて、佐為を失った自分がライバルだなんてあまりに申し訳ない気持ちになった。 あの日以来、アキラとは会っていない。 何度か家を尋ねて来ていたようだが、結局一度も顔も合わせることなく月日だけが過ぎた。 胸を刺す思い出が次々に浮かんできて、ヒカルは視線を落とす。そっとブラウザを閉じて、か細いため息をついた。 もう、十年も経っただなんて、年月とはあまりに無情だ。 彼らはきっと、ヒカルのいない世界で真っ直ぐな未来を見つめて頑張っている。 時間をとめてしまった自分は、心に何の進歩もなく、ただ無駄に年をとって衰退に甘んじるだけ。 それを嘆く純粋さはとっくに失くしてしまった。 何もかもがどうでも良い。 振り返ったって今更どうしようもない。 消えた幽霊は二度と戻らない。 *** 翌日いつものようにバイト先へ顔を出すと、パソコンを譲ってくれたバイト仲間が早速とばかりに声をかけてきた。 「よ、つないでみたか? うまくいった?」 「おう、いろいろサンキュな。おかげさまで何の問題もありませんでした〜」 ヒカルは制服に着替えるべくシャツを脱ぎながら、おどけたように答えてみせた。 彼はそうかそうかと満足げに頷いて、それからそっと顔を近づけてきた。 「で、どうだった? エロサイト見てみたか?」 「あのなあ、それしか頭にねえのかよ。いきなりそんなディープなことしねえっつの」 「んじゃ何見たんだよ」 「何って……いろいろだよ」 ヒカルは口篭もり、ぷいと顔を背けた。 まさかネット碁のサイトしか見ていないなんて、まるで碁とは無関係の彼に告げたところでおかしな顔をされるに決まっている。 「なんだよ、教えろよ! あ、まさか変なサイト見てウィルスとか拾ってきたんじゃないだろうな? それともアダルトサイトの架空請求とか……」 「違うって! 変なサイトは見てねえ!」 どうやら彼は面倒見もいいが、それに付随して過度の知りたがりでもあるらしい。 だんだん鬱陶しくなってきたヒカルは虫でも払うようにひらひら手を振った。 「もう、どうでもいいだろ、そんなこと!」 「人に言えねえサイトを見たんだな? よーし、分かった、エミちゃんにそのようにお伝えしよう」 「エミとはなんでもねっての」 「なら何言ったっていいだろ?」 「……」 最近少し気になっていた女の子の名前を引き合いに出され、ヒカルは渋々口を割る。 「……碁だよ」 「ゴ?」 「囲碁。ネット碁のサイト見ただけだ」 バカにされることを覚悟で投げやりに告げてやった。 どうせ言ったところでろくに分かるまい。囲碁だなんてジジくせえと笑われるくらいで済むだろう……そんなふうに考えていたヒカルは、意外な言葉を聞くことになった。 「ネット碁って……ネットで碁打つアレ?」 「え?」 ボタンをかけていた手を止めて、ヒカルは思わず彼を振り返る。 ヒカルとほとんど年の変わらない、今時の青年にしては返ってきた答えがすんなりしすぎている。 「ナニ進藤、お前碁とか打つの?」 「お前……ネット碁なんて分かるのか?」 「親父が碁好きなんだよ。前にネット碁のやり方散々調べさせられてさ、それでな」 「そうなんだ……」 ヒカルはまずったな、と小さく舌打ちをする。 興味を持たない人間にバカにされるくらいなら問題ないが、僅かでも碁に親しみのある相手ではうかつなことが言えない。 仮にも一度はプロとして在籍していた身だ。万が一の確率でも自分のことを覚えている人間と繋がる事は避けたい。……もっとも、プロの活動はほんの僅かな期間だけだったから、覚えている人間がいるとも思えないのだけれど。 碁の話題は出すべきではなかった――後悔するヒカルのことなど何ら気に留めず、彼は話題を引きずり続ける。 「で、お前も碁なんて打つのかよ」 「あー……、いや、その、お、俺もじーちゃんが碁好きでさ。代わりに調べてたんだ」 「お、そうなんだ。ネット碁ってあれだろ、伝説の碁打ちがいるってヤツだろ? なんとかって変な名前の」 ヒカルの顔が一瞬で強張った。 まさか、と咄嗟に頭では否定しようとしたのに、聞き分けのない身体が勝手に動いていた。 思わず彼の腕を力強く掴んでしまって、彼のぎょっとした顔がまるで背景の一部であるように遠くに見えた。 「……伝説の……って?」 「よ、よくは知らないけどさ。親父が興奮して言ってたんだよ。十年くらい前に消えた伝説の碁打ちが、数年前からまた現れたんだって。親父も一局打ってもらったって……」 ヒカルは息を飲んだ。 ――まさか。 否定の言葉が口をついて出てきそうになり、ぐっと押し留める。 「……名前は?」 「だ、だからなんとかって……そこまで覚えてねえよ」 「……そうか」 ヒカルは落ち着け、と必死で脳から指令を出した。多少のタイムラグはあったものの、ようやく信号が届いた手は狼狽える彼の腕を放し、強張っていた表情もやっとのことで笑顔に作り変える。 「……じーちゃんが喜びそうな話だと思ってさ。悪かったな」 「……いや、いいけどさ。詳しく知りたいなら、親父に聞いといてやるか?」 ヒカルは彼から顔を逸らし、さあてとわざとらしく背伸びをしながら軽い口調で答えた。 「いんや、いいわ。聞いてもすぐ忘れそうだから。おーし、働くかー」 しかし瞳の奥で鈍く光る小さな灯りに、冗談めいた色は見られなかった。 *** 帰宅したヒカルは、テーブルに置きっぱなしにしていたパソコンを前に、神妙な顔でしばらく座り込んでいた。 ――十年くらい前に消えた伝説の碁打ちが、数年前からまた現れたんだって…… そんなはずはない、と誰よりもよく分かっているはずの自分が、一瞬とはいえおろかな期待を抱いてしまったことがヒカルを苛立たせていた。 そのくせ完全に笑い飛ばすこともできず、意味ありげにパソコンを見つめる自分が惨めでたまらない。 仮に今、伝説の碁打ちと呼ばれる人間がネット碁に現れていたとしても。 ……それは佐為ではない。ヒカルの知らない、他の誰かのことなのだ。 佐為ではない。佐為のはずがない。 (……だって、佐為は) 消えてしまった。 十年前に消えてしまってから、姿も見えず、声さえ聞こえない。 お蔵にあった碁盤の染みも完全に消えてしまって、佐為がいた証は何ひとつ残っていない。 だから、佐為であるはずがない。 佐為は消えてしまった。 (……俺のせいで……) 年に何度か、ふとした弾みで思い出す。 何故、もっとたくさん打たせてやらなかったのだろうと。 |
今回はずっとこんな調子でヒカル視点です。
リリスの後のせいか物凄〜くストイックな気分に。
展開が出来過ぎてますけどどうぞ見逃して下さい……!