One more time,One more chance






「キミのご両親が棋院側に除籍を願い出たが、キミの意志が確認できないことを理由に受理していない。……受理、させていない。キミの棋士資格を存続させる嘆願書が出ているからだ」
「え……」
「最初に名前を集め始めたのはキミの院生時代の友人たちだったが、ボクが途中からその任を請け負った。嘆願書の筆頭は父だ」
「!」
「最初に頼んだのはボクだが、無理矢理に名前を借りた訳ではない。キミが棋士を続けることを望んだのは、父の意思だ」
 ヒカルは大きく目を見開いて、アキラの言葉に表情を凍らせたまま口唇を震わせていた。
 あまりの内容に感嘆の声すら出てこない。
「父だけじゃない。緒方さんも、桑原先生も名を連ねて下さった。桑原先生は二年前に現役を引退されたが、その際もキミのことをよろしく取り計らうよう上層部に伝えてくださって……今でも気にかけていらっしゃるよ」
「あ……」
 ヒカルは首を振りながら、膝の上で両の拳を硬く握り締めた。
 瞼に熱いものが溢れてきて、視界がぼやける。

 ――この十年、俺はただ佐為を失ったことを悔やむばかりで立ち止まったままだったのに。
 そんな俺を、ずっと待っていてくれている人たちがいた――

「進藤」
 がらりとアキラの声色が優しくなった。
 顔を上げようとしたが、少しでも動くと睫毛の先にぶら下がる滴が零れてしまう。ヒカルは返事もできずに肩を震わせた。
「キミの十年を咎めようとは思わない。葛藤もあるだろう。……でも、今キミと一局打ってよく分かった。キミは碁を捨てられない」
「……っ」
「戻ってきて欲しい。……ボクのためにも」
 はっとヒカルが顎を上げる。
 その拍子にはらりと涙が零れ落ち、膝の上の拳に小さな水溜りを作った。
 アキラは穏やかに目を細め、碁盤を挟んだ対面で優しくヒカルを見つめていた。
「今の一局が全てだ。キミはボクの……生涯のライバルだよ」
「……塔矢」
「いい碁だった。こんな胸躍る一局は……本当に久しぶりだった……」
 そう言って微笑んだアキラの目を見ていると、次から次へと涙が溢れて止まらなくなってしまう。
 ヒカルは顔をぐしゃぐしゃにしながら、やっとのことで喘ぐように言葉を紡いだ。
「こ、こんな……、俺なんか、どのツラ下げて戻れんだよ……」
「その顔以外に持ち合わせはないだろう?」
「ば、かやろ……、お前、大馬鹿だ、俺なんかに期待しやがって、じゅ、十年も……」
「馬鹿で結構。ボクはしぶといんだ。……諦めなくて良かったと、今心からそう思っている」
 カタンと椅子から立ち上がる音がして、ぼやけた視界の向こうでアキラの動く気配がした。
 ぱち、と瞬きしたせいで涙が落ち、一瞬クリアになった視界にはアキラの姿はなく、代わりに肩にそっと手のひらが置かれる。
 振り向くと、アキラが隣に立っていた。
「もちろん、戻るといっても容易ではないぞ。お偉方を納得させなければならない。できる限り力は貸すが……キミにも努力が必要だ」
 言葉の割には酷く優しい声で、アキラはヒカルを見下ろしたまま諭すように語り続けた。
「それなりの覚悟がなければ復帰は難しい。……やれるか?」
 やれるか、と尋ねておきながら、有無を言わせない口調でまるで決定事項のように告げるアキラに、ヒカルは思わず苦笑いを見せる。
 やれない、なんて言ったところで許してはもらえまい。
 十年越しの執念はちょっとやそっとのことでは引き下がらない。
 ヒカルの笑みを了承と受け取ったのか、アキラもにっこりと笑った。思えば子供の頃は険悪になってばかりで、こんな笑顔を見るのは初めてだとヒカルも釣られて笑う。
 そうして自分の顔がぐしゃぐしゃであることに気づき、薄ら頬を赤らめて袖で顔をごしごしと拭った。
 すると、目の前にすいとハンカチが差し出され、綺麗にアイロンがけされたそれを受け取るのは躊躇ったが、アキラの無言の笑顔に押されてそっと手に取った。
 仄かに良い香りのするハンカチで顔を拭っていると、アキラが何処か遠くを見るような目をしておもむろに口を開き始めた。
「……あの日。十年前、最後にキミと会ったあの学校で、どうしてキミをもっとちゃんと追いかけなかったのか、悔やんだよ」
「塔矢……」
「家に行っても結局はキミに会えなかったし。そうしているうちにキミは家を出てしまって、どこに行ったのかも教えてもらえず……あの時、何故しっかりキミを捕まえておかなかったのか、悔やんでも悔やんでも悔やみきれなかった」
 ヒカルは驚きに目を丸くして、僅かに目を伏せながら自嘲気味に話すアキラを呆然と眺めていた。
「いつかキミが戻ってくると信じて、待ち続けるだけでは耐えられなくなってきた。街を歩くたびにキミの姿を探したよ……似た人がいたら追いかけたり、出張先でもひょっとしたらキミがいるんじゃないかと常に人の顔を確認して」
「塔矢」
「ずっと、ずっと探していた。この十年、ずっと……ずっと、キミに逢いたかった……」
 眩しいものを見るように目を細めて、鮮やかな微笑を向けるアキラに、思わずヒカルは頬を赤らめた。
 照れ臭さに顔を逸らして、涙を拭くフリをしてハンカチで顔を隠した。
「は、恥ずかしいこと言うなよ。な、なんかそれじゃまるで愛の告白みてえじゃねえか」
 アキラは答えずにただ微笑んでいる。
 てっきり何か言い返してくると思ったヒカルが、あれ?と首を傾げる前で、アキラはゆっくりとひとつ瞬きをして、今度は力強い笑顔を見せた。
「さあ、せっかく十年ぶりなんだ。時間はまだある。もう一局、打とうか?」
 きょとんとしていたヒカルも、アキラの提案に笑って首を縦に振る。
 そう、アキラの言う通り、十年ぶりなのだ。
 十年分の対局は無理だけれど、それにも勝る渾身の一局をもう一度。
 佐為が目を輝かせるような、最高の一局を創り上げよう――








 ***








 夢を見るのが、怖かった。




 哀し気な声で、名前を呼ばれるのが怖かった。




 恐怖に耳を塞いでも、声は追って来る。




 ヒカル、ヒカル、ヒカル……




 夢中で逃げて、振り向くことを怖れていた。




 立ち止まって振り向いたら、哀しい顔で佐為がこっちを見ているのではないかと――












 ふわふわしている。



 立っているのに、身体が浮き上がっているようなおかしな感覚。



 大きな風船の上に足を下ろしているみたいだ。



(ああ、夢だ、これ)



 たまに夢の中で夢だと自覚することがある。



 そういう時は、大抵目が覚めてしまう直前で、この不思議な感覚もほんの一瞬で終わってしまうのだけれど。



 夢の中なら、何が起こってもおかしくない。



 幸せな夢を望むのは至極当たり前のこと。



 何か、いいことが起きてくれればいい。



 何か、素敵なことが。







『ヒカル』







 振り向いたその先に、優しい微笑みがゆらゆらと揺れていた。
















 開いた瞳に映ったものはいつも通りのアパートの見慣れた天井だった。
 ただ、ベッドに横たわっていながら、はみだした右腕が空に浮き、その手のひらが何かを掴んでいたように緩く握られている。
 ヒカルは二度ほど瞬きをして、不自然に握られた右手をまじまじと見つめた。
 夢、と口唇が呟く。
 夢の中でさえも自覚していた。そう、あれは夢なのだ。
 夢だけれど――


 初めて夢で見た笑顔の佐為は、ヒカルに向かって静かに扇子を差し出した。
 いつも碁盤の上で閃いていたあの扇子。切っ先が鮮やかに石の場所を示した、佐為の扇子を受け取った瞬間、魔法が解けたように佐為の姿は消えてしまった。


 ヒカルは身体を起こし、右手をきつく握りしめる。
 そのまま両手を高く掲げて、大きく伸びをした。
 ――受け取ったよ、佐為。
 十年待たせてごめんと胸の中で囁いて、勢い良くベッドから飛び下りる。
 すっかり外は明るくなっている。今は何時だろう。寝坊していなければいいが――遅刻なんてしたらあの堅物が煩くて仕方がない。
 慌てて服を着替えて出かける支度を整えて、アパートを出る前に一度部屋の中を振り返った。
 ぽつんと置かれた碁盤が、朝日を浴びて優しく光を反射している。
「……いってくるよ。佐為」

 もう、振り返ることを怖がらない。
 打てばいつもお前がそこにいる。






30万HIT感謝祭リクエスト内容(原文のまま):
「ヒカルが佐為喪失の時に棋士をやめてしまって、その10年後辺りのパラレル。」

棋士を辞めた後のろくでなしっぷりはすぐに想像つきましたが、
ろくでなしで終わったらダメだよね……と思って復帰までを書きました。
佐為が絡んだお話は個人的にとても難しいと思っているので
いつもギリギリまで避けていたんですけど、今回もやっぱり難しかったです。
佐為寄りのせいかアキヒカ要素はほとんどなくなっちゃいましたね……
あと終わり方がMaybe〜と酷似してるじゃねえかとひっそり自己嫌悪ですが
まあ書いてるヤツが同じだから仕方ないかと開き直っています。
リクエスト有難うございました!
(BGM:One more time,One more chance/山崎まさよし)