One more time,One more chance






「キミとの対局は囲碁部の三将戦以来……」
 じゃら、と碁笥の中の白石を無造作に握り、アキラは呟く。
「十二年ぶりだ」
 声に混じって、盤上に複数の白石が広がった。
 ヒカルも碁笥から黒石をふたつ、ころんと碁盤の上に落とした。
「……そんなになるのか」
 思わず口にしたヒカルの対面で、アキラは深く頷いてみせた。
「うん。……長かった……」
 吐息混じりのその呟きには、年月に裏づけされた重みが込められていた。感慨深げに小さくため息をついたアキラは、しかしすぐに表情を引き締めてヒカルを見据える。
「キミの十年を詮索する気はない。ボクは……ずっと待っていた。この日が来るのを……。先ほども言った通り、手は抜かない。ボクは……全力で打つ」
 そう宣言したアキラの背から、立ち昇る気迫がヒカルを圧倒する。
 その気配だけで空気が震えるような、相手に怖れを抱かせる緊張感。
 ――これが、タイトルホルダーの貫禄か。
 一瞬怯みかけたヒカルは、顎を引きぐっと腹に力を込めた。
 この十年、前線で戦ってきたアキラに対し、ずっと腐っていた自分。
 だからといって、敵うはずがないと諦めてしまったらそこで終わり。仮にもこの背中に背負っているのは、佐為なのだから。
 アキラは丁寧に白石をふたつずつ選り分ける。――偶数。先番はヒカル。
 二人はすうと息を吸い、頭を下げた。
「お願いします」


 碁会所で二度打った。
 そして、囲碁部の三将戦でも。
 碁会所での対局も、三将戦の前半も、打ったのは佐為。
 かつて三度も直接向き合っていながら、実際にアキラと一局を打ち切ったことは一度もない。
(これが、俺とお前の本当の初対局――)
 まずは相手の様子を見なければ、と手広く構えかけたヒカルに対し、アキラは序盤から明確な交戦を仕掛けてきた。
(……速い!)
 ヒカルが一手打つたび、数秒と経たずに次の一手を打ち返してくる。
 まるで早碁だ、と口の中で呟いた。
 待ち切れない。待ちかねた。この一局を、どれだけ待ち望んでいた事か――
 ひしひしと伝わってくるアキラの切なる想いに、ヒカルの指にも気合がこもる。
(いいとも……受けてたってやる)
 大きく構えた黒地に割って入ってきた白石を殺すべく、ヒカルもまたほとんど時間を使わずにアキラを迎え撃った。


 盤面は数分と経たずに激しい混戦状態になった。
 下辺の攻防が激しくなる。
 隙間なく打ち付けられる黒と白の石が、一角でじりじりとその幅を広げていった。
 アキラの白は的確だった。嫌なところをしっかり突いて、そのくせ視野が広く油断も慢心もない。
 揺さぶられながら、黒の地を奪われまいとヒカルも必死で応戦した。
(このまま中央に伸ばして、薄い上辺に少しずつ手をつけていく)
 いつしか口の中に溜まっていた唾液をごくりと飲み込み、きわどいコウ争いに全神経を集中させる。
 一瞬の気の緩みが敗北に繋がる。そのくせ展開が早く、ほとんど持ち時間などあってないようなものだった。
 まるで直感勝負のように、閃きを駆使して石に全神経を集中させる。躊躇わず、戸惑わず、自分の指が動くままに最善の道を導き出して。
(ここを押さえて、回り込めば――)
 パン、と勢い良く打った黒石がきらりと蛍光灯の灯りを反射させて煌いた。
 ヒカルがはっと動きを止める。
 アキラもヒカルの不自然な動きに気づいたのか、碁盤から顔を上げて眉を寄せた。
 ヒカルは今しがた打った黒石を凝視しながら、瞬きを忘れて盤上に魅入られた。
「あ……」
 覚えのある光景――


 大きく開いた瞳の中に、確かに優しい幻が映ったのだ。
 あの懐かしい気配が、すうと音もなく扇子を伸ばして、その一手を指し示すのを。

 輝く黒石が、打たれた反動でまだ微かに揺れている。
 揺れる度にきらきらと、小さな光を照らして、まるでにこにこと笑っているように。



『ヒカル』


 ……佐為……


『ヒカル』


 ……お前……、


『ねえ、ヒカル』


 こんなところにいたのか……


『囲碁は好きですか?』


 好きだよと、口唇が声もなく文字を象る。
 佐為が託してくれたこの碁の中に、佐為がしっかり生きていた。
 打てばいつでも逢えたのに、この十年、そんなことにも気付かないで……

 佐為が教えてくれた技。
 佐為を見て学んだ戦法。
 佐為と一緒に覚えた囲碁の面白さ。

 佐為は消えてなんかいない。
 ずっとこの身体と共に在った。
 ヒカルが打つ碁の中で、佐為が静かに笑っている。

『さあヒカル、打ちましょう!』

 何より囲碁が好きだった、優しい幽霊がやっと笑った――




「……進藤」
 アキラの呟きで、ヒカルは初めて頬が濡れていることに気付く。
 少し照れくさくなって、ぐいと無造作に腕で瞼を拭った。
 顔を上げ、まだ瞳は濡れていたけれど、アキラに向かって不適に微笑む。
「……さあ、続きやろうぜ」
 ヒカルの言葉に、アキラもまた目元を引き締めて微かに笑った。
「ああ」




 早い展開は続いた。
 下辺から広がった攻防は徐々に上辺を占め、ようやく薄めの左上に手をつけ始めた頃にはおおよその勝負の行方が見えていた。
 ヒカルは自分の指から放つ一手一手に酔いしれた。
 碁石を打つという感動。誰かと対局するという素晴らしさ。
 対局中の駆け引きと心理戦。意地の張り合い、相手の裏をかき、裏をかかれ、黒と白に埋められる盤上で一時の宇宙に浮遊する。
 胸が躍る。高鳴りを抑えられない。今ならあの太陽にさえ手が届く。
 大気圏を抜け、銀河を飛び越えて、この手で創り上げた宇宙がどこまでもどこまでも広がっていく。

『囲碁は面白いでしょう?』

 ああ。
 面白いよ。
 何よりも。
 今頃気づいて、ごめんな。
 そして、ありがとう、佐為……






 ***






「ありません」
 二人だけの碁会所で、ヒカルの声が響いた。
 粘ったけれど、これ以上は追いつけない。
 さすがはタイトルホルダー……いや、そんな単純な言葉で称えたいとは思わない。
 さすがは塔矢アキラなのだ。この十年、彼は常に向上し続けていた。
 そのアキラに対して、ここまで食らいつけただけでも自分を評価していいかもしれない――ヒカルは小さな、ほろ苦い笑みを浮かべて負けた盤面を見下ろした。
(ごめんな、佐為。……負けちゃったよ)
 でも、悔いはない。
 最後にして最高の碁が打てた。
 その相手がアキラだった。
(もう、満足だ……)
 よくやったと、言ってくれるだろう? 佐為……


「約束だったな。負けたら言うことを聞いてもらうと」
 目を伏せていたヒカルは睫毛を震わせて顔を上げた。
 アキラは厳しい視線でヒカルに照準を合わせている。
 何を言われるのかと僅かに額を曇らせながら、ヒカルはゆっくり頷いた。
「棋士に復帰して欲しい」
 アキラの告げた言葉に、ヒカルはひゅっと息を吸い込んだまま絶句した。
 何の冗談だ、と茶化す雰囲気ではなかった。アキラは実直な眼差しをいつも以上に真面目に光らせ、ヒカルの答えを待っている。
「……な……」
 ヒカルは緩く首を横に振りながら、眉を寄せて躊躇いながら口を開いた。
「な……に、言ってんだよ。そんなこと、できるわけ」
「――十年前、嘆願書が棋院に提出されている」
 ヒカルの言葉を遮って、アキラが鋭く告げた。
 ヒカルはようやく瞬きを思い出し、ぱちぱちと睫毛を揺らしながら頭に疑問符を飛ばす。
 驚くヒカルを前に、アキラは淡々と説明し始めた。






「12年ぶりだ」でヤバい一気にギャグになる!と焦りました。
うかつにも設定を五月にしちゃったのできっちり12年ぶりに……
(ちゃんと数えました!って間違ってませんように……)