ORANGE






 夕暮れ時の碁会所の室内は、鮮やかなオレンジ色に染まりつつあった。
 碁盤に向かう客の数もまばらになってきた中、奥の定位置で真剣な表情をつき合わせながら碁石を打つ二人の青年の姿がある。
「右辺の利だけではぬるいかもしれないな。ここで挟む時に、中央まで伸ばすように足を速めたほうが確実だろう」
「ってことは、先にこっちを叩いといたほうがいいよな。ここを取られたらすぐ行き詰るぜ」
「そうだな……、……いや、待て。この前見た高永夏の棋譜は……」
 難しい顔で碁盤を睨むアキラとヒカルは、この日も最善の一手の追求に余念がなかった。
 今では検討中に怒鳴りあうことのほうが珍しくなった二人は、表情こそ時折険しくなるものの、口調は終始穏やかだった。
「二人とも、コーヒーのお代わりは?」
 以前に比べてずっと声のかけやすくなった検討中の二人に、空になったカップを取り上げながら市河が尋ねる。
「いえ、ボクはもう……」
「あ、俺もらう〜」
 宙に浮かせた手のひらを、横に振るアキラと高く掲げるヒカル。対照的な二人に市河は苦笑しながら、ヒカルの分のコーヒーを用意しにカウンターへ戻っていった。
 市河が離れると、すぐにヒカルは碁盤に向かう。真剣な眼差しは、アキラが提案した一手のその後の行方を読むために集中し始めたようだ。
 アキラは、そんなヒカルのオレンジ色に透ける前髪を見つめて、そっと目を細めていた。
 先月まで肉を削いだようだったヒカルの頬は、今ではほとんど元通りになっている。
 生気溢れる輝かしい瞳に、もうあの哀しい色が宿ることはないのだろう。
「なあ、この後こうなって……、で、こっちから切るのは難しいかな?」
「どれ?」
 アキラも碁盤を覗きこむ。
 二人は会話の所々で中国や韓国棋士たちの名前を口にして、横に広げたいくつかの棋譜もまたその棋士たちのものであるようだった。
 中でも、頻繁に出てくる「高永夏」の名前。どうやら彼についての研究が今日の最大目的らしい。
 日中韓の若手が揃う国際棋戦、第三回北斗杯まで残り一ヶ月を切っていた。


「はい、どうぞ」
 碁盤の傍らにことりと置かれたコーヒーを見て、ヒカルは市河に「ありがとう」と微笑んだ。
 まだミルクを入れてもらっているが、砂糖入りからは卒業した。アキラはすでにブラックでしかコーヒーを飲まなくなってしまったので、市河の手間も以前に比べれば少し省けている。
「なあに? 北斗杯の準備?」
 碁盤を覗き込む市河に、アキラは険しかった表情を緩めて頷いた。
「ええ、もう一ヶ月もないですから」
「三年目だもんね。そりゃ気合も入るわよね」
 市河の言葉に、今度はヒカルが相槌を打った。
「うん、今年はマジで勝ちにいくよ。すげえ楽しみなんだ、俺」
 頼もしげに笑うヒカルを見て、市河も両拳を胸の前で握ってくれた。
「頑張ってね! 今年こそ全勝よ!」
 おう、と威勢良く返事をして、ヒカルも市河に向かって拳を向けた。
 そんな様子を、アキラが傍目には微笑ましげに眺めている。
「市っちゃ〜ん、また来るよ〜」
 受付カウンターの傍ですでに帰り支度を終えている常連客がのんびりした声をあげた。
 市河は慌てて彼を見送ろうと、ヒカルとアキラに目礼して駆けていった。
 市河の動きに釣られるようにヒカルは碁会所の壁にかかっている時計を見上げ、初めて今の時刻に気づいたようだった。
「あ、もうこんな時間か。そろそろ帰らないと」
「まだ日暮れ前だよ?」
「今日、お母さんに指導碁打つって約束してんだ」
「……そうか。じゃあ仕方ないな」
 アキラは軽く肩を竦め、そうして碁盤を片付け始めた。ヒカルも手伝い、黒石と白石が綺麗に分けられていく。
 碁盤の上で忙しなく動く二人の手は、不思議とぶつかることはなかった。
 アキラの手が左辺を整理すればヒカルは右辺を、アキラが手元に白石を寄せるとヒカルもすぐ傍にあった白石をアキラの近くに寄せてやる。示し合わせた訳でもないのに、まるで相手の手がその後どこに動くのかが分かっているように。
 ヒカルがこの碁会所に顔を出し始めた最初の頃、大抵ヒカルが一方的に腹を立てて帰ることが多かったのだが、ごくたまに後片付けまで一緒に行うような珍しいことがあると、二人の手は碁盤の上でも喧嘩するようによくぶつかり合っていた。
 そんなことを話題にも出さないところを見ると、アキラもヒカルも遠い昔のことだと忘れてしまっているのかもしれない。
 二人は手際よく作業を分担し、碁盤の上を綺麗に整理した。
 二人揃って碁会所を出ようとしていることに気づき、市河が少し驚いた顔を見せる。
「あら、もう帰っちゃうの?」
「うん、今日は用事があるから」
 ごく普通に市河から鞄を受け取るヒカルを見て、市河がふいに悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「最近、「帰る!」ってやんないのね」
「い、いつの話してんだよ、市河さん」
 ヒカルは怒ったように口唇を尖らせ、ほんのり頬を赤らめた。
 苦笑するアキラが、ヒカルに代わってフォローを入れる。
「もう、お互いの性格は分かっていますからね。滅多なことじゃ腹を立てませんよ」
「そうよねえ。でもなんか淋しいわあ、二人がいても碁会所が静かなんだもの」
「そのほうがいいじゃん!」
 呆れたようなヒカルの口ぶりに、市河と、周りで会話を聞いていた客が笑った。
 和やかな空気の中、アキラとヒカルは市河たちに別れを告げ、並んで碁会所を後にする。
 地下鉄までの道程を歩きながら、時折絡むお互いの眼差しは柔らかい。
「で、どう? お母さん、上達した?」
「うん、時間かかるけど、九路盤なら最後まで打ち切れるようになった。先生がいいからさあ」
 親指で自らを指すヒカルを見て、アキラはハイハイ、と嗜めるような相槌を打つ。むっとしたヒカルが横目で睨んでみせても、アキラは素知らぬフリをしている。
「そのうちボクも指導碁しにお伺いしようかな」
「お前はダメ」
「……どうして」
 今度はアキラがむすっと眉間に皺を寄せる番だった。
 ヒカルはしれっと横を向きながら、「お母さんが講師を乗り換えると困る」なんて呟いた。
「乗り換えてもいいじゃないか。ボクのほうがキミよりは上手く教えられると思うけど?」
「だからムカつくんだっつーの。いいんだよ、貴重な親子の語らいを邪魔すんな」
 多分に冗談を含んだヒカルの言葉に、アキラはフーンと呟いて、ぷいっと横を向いてしまう。
「なんだよ、すねんなよ」
「別に?」
「お母さんにまでヤキモチ焼くなよな〜。知ってんだぞ、お前、俺と市河さんが喋ってるだけでたまに凄い目して見てることあるだろ。あれ怖いからやめろよ」
「キミ以外の人間には気づかれないようにしてるから大丈夫だよ」
「なら俺にも気づかすなっつーの!」
 そんな本気かどうかも分からないやりとりを交わしながら、ついに二人は駅まで辿り着いてしまった。じゃあ、と別れる前に、ヒカルが思い出したようにアキラに尋ねてきた。
「そうだ、先生の調子どう?」
 ヒカルの質問にアキラはにこやかに微笑む。
「ああ、もうすっかり。本人は病気のことなんて忘れたみたいだよ」
「それならいいけど。来週だっけ? 中国行っちゃうの」
「そう、来週の金曜。早く向こうに戻りたいみたいだ」
 肩を竦めるアキラの仕種にヒカルは軽く笑って、それから少し残念そうな顔をした。
「あ〜、でも、来月までいてくれれば北斗杯の合宿、先生にも見てもらえたかもしれないのに惜しいな〜。社だって絶対喜んだぜ」
「そんなことしたら父まで徹夜しかねないよ」
「はは、それもそうだな。先生が中国戻っちゃう前に、俺もっかい打ちに顔出してもいいかな?」
「時間があるなら是非来てくれ。父も喜ぶ」
 二人は笑顔で手を振り、そこで今日の日はお別れとなった。
 背中を向けた後も、時折振り返って再び手を振ってくれるヒカルの無邪気な笑顔をアキラは微笑みで見送る。
 もっとも、明日は棋院で顔を見ることができるだろうし、今日だってお互いの帰宅後にメールのやりとりがあるのは間違いない。
 一分一秒でも離れているのが怖いと怯えるような、子供染みた不安は小さくなった。
 それでも、欲張りな心はできるだけ傍にいたいと駄々をこねて、目だけではない、心ごと自分を見て欲しいと訴えている――
 ……アキラは自分の中の呆れた独占欲に苦笑した。
 先ほど碁会所で見たヒカルのオレンジ色の前髪。
 初めてキスした時とよく似た風景に、懐かしい眩暈を感じた。
 ――もう、あれから二年経った。





 真夜中にヒカルの家に押しかけてからすでに一ヶ月以上――
 すっかり窶れ切っていたヒカルが立ち直ってから、その表情に翳りが見られることはなくなっていた。
 寒空の下で抱き合って、馬鹿みたいに大泣きして……突っ走ったアキラのせいでヒカルは熱を出してしまったけれど、張り詰めていたヒカルの空気はあの夜から一変した。
 どこか吹っ切れたような、憑き物が落ちたような穏やかな顔。
 saiにはなれないと、はっきりとヒカルの口から聞いたあの時のアキラの安堵は計り知れない。
 それからのヒカルは目覚しかった。一皮向けたような、迷いのない強さが現れた。
 今までのヒカルのようでいて、新しいヒカル。saiに捕らわれていた自分を変えることができたからなのだろうか、一手一手にヒカルの自信がはっきりと感じられた。
 北斗杯の代表権利を得て、事前に中韓棋士の棋譜もいくつか入手していたことから、ここ最近は主に北斗杯対策として彼らの碁の検討に時間を費やしている。アキラが疑似的に高永夏の手を真似て相手をする時、ヒカルの指から放たれる一手は、時にアキラの背筋を寒くさせた。
 いつの間にかすぐそこまで駆け上がってきていた。――まだ、ヒカルと自分との間にあると思っていた棋力の距離が、僅かな時間で一気に狭められている気がする。
 あの、saiを目指そうとした極限の時期は決して無駄になってはいなかったのだ。
 心と身体に無理をさせた、無茶な時間を確実に土台にして、ヒカルは新しい自分の力を引き出そうとしている。
 そのきっかけが、恐らく三月の初めに塔矢邸で行われた、父・行洋との対局だったのだろう。

 二人だけで対局を行いたいとヒカルに告げられ、アキラも内心面白くない気持ちはあったものの、ヒカルの懇願する眼差しに見つめられて首を縦に振らないわけにいかなかった。
 杞憂とは思いながら、僅かな心配もした。――まさか、まだsaiとして打とうとしているのではないか? そんなことをちらりとでも考えるのは嫌だったが……
 saiを待つ人のために、saiになろうとしたヒカル。その中に父が含まれていることはアキラも知っている。
 アキラの不安を感じとったのか、行洋と二人で打つと宣言したヒカルの目は、saiとして打つ気はないとはっきり物語っていた。……アキラはその目を信じた。
 ひょっとすると、アキラに見られたくない、または聞かれたくない何かが父との間にあるのかもしれない。
 それを知らせてもらえないのは悔しくもあったが、対局後に部屋まで訪れた(というよりも「飛び込んできた」)ヒカルの言葉を聞いて、アキラの胸の燻りは一掃された。
 真直ぐアキラの目を見て、ヒカルが全てを話してくれると約束してくれた。
 もう何年も前の「いつか」を、ヒカルも胸に留めてくれていた。
 アキラの心に、確かな自信が生まれた。
 ヒカルは、自分を必要としてくれている――。
(……待つことには慣れている)
 ヒカルに告げた言葉通り、アキラは待つことには自信があった。
 ヒカルが未来を約束してくれたのなら、何も迷う必要はない。
 ヒカルの気持ちに何かの整理がつくのを、じっと待つ。何年だって、何十年だって、待つことに苦痛はない。
 ただ、黙って待っているのは性に合わなかった。
(もう、あんな思いはさせたくない)
 saiではなく、進藤ヒカルという一人の人間を必要としている――アキラの必死の呼びかけを、ヒカルは受け止めてくれた。
 だが、そもそもアキラが最初からヒカルを不安にさせないような愛し方をしていれば、こんなことにはならなかったはずだ。
(もっと力が欲しい)
 saiを凌ぐほどの力があれば、ヒカルは何も迷わずにいられた。
 ヒカルを待つに恥じない、彼に相応しい男になれるように、自分も変わらなくてはならない。
 そう、このままでは置いて行かれてしまう――
 力が欲しい。何よりも強い力が。
 ヒカルの目を他へと逸らさずに済むような、確固たる力が。







アキラ一人で燃えています。