棋院の対局室前、ひときわ賑やかな集団が廊下でお喋りに精を出している。 若々しい彼らの顔をちらりと横目で見て、その元気のよさに微笑ましく口元を緩める者、騒々しさに忌々しく眉を顰める者など、対局室へ向かう人々の反応は様々である。 アキラもそんな彼らの横を通り過ぎる時に、軽く視線を集団の中に走らせた。 正確に言えば、その集団の中の一人に目で合図を送った。 院生時代の友人たちと楽しげに話していたヒカルが、確かにその合図を受け取って目元を緩める。 それだけで充分だった。アキラはすぐに視線を前方へ戻し、何事もなかったかのように対局室へ入っていく。 かつてのヒカルならば、友人たちとのお喋りに夢中になって、アキラの存在に気づくことはなかっただろう。 しかし、今は違う。親しい人たちの輪の中にいても、ヒカルはいつもアキラを気にかけてくれている。友人の誰に向ける目とも違う、柔らかい眼差しを確かにアキラにだけ届けてくれる。 「よ、アキラ」 指定の碁盤の前へ向かおうとしたアキラの肩を誰かが叩いた。 振り向くと芦原が人懐こい笑顔で立っている。 「おはようございます、芦原さん」 「さっきそこに進藤くんいたよ。声かけなくていいの?」 「楽しんでるところを邪魔したら悪いでしょう?」 すかさず笑顔で返すアキラに、芦原は「そんなもん?」と不思議そうに首を傾げた。アキラは隙のない笑顔でその会話をさっさと終わりにさせる。 アキラとヒカルがプライベートで親しくしていることを知っている人間は、思いの他少ない。 行洋経営下の碁会所によく顔を出す塔矢門下の人間なら、碁会所で打つアキラとヒカルの話を一度は耳にしているだろう。しかし、その他の人間は、たとえ先ほどヒカルと共に談笑していた院生時代の仲間たちでさえ知りもしないはずだ。 棋院で仲睦まじげに言葉を交わすことはほとんどない。近くを通りかかっても先程のような反応しかお互い見せないのだから、周囲が気付かないのも無理はない。 まして、アキラとヒカルの本当の関係を知る人間は、大阪にいる社清春ただ一人である。緒方が何か感づいているフシはあるが、彼の性格から言って悪戯に言いふらすようなことはしないだろう。 恋人という事実ばかりではなく、友人関係でさえも周囲にあまり知れないようにしているのは、アキラとヒカルの無意識の防御なのかもしれない。 人目を忍ぶ関係。しかも一般的な職種とは少々勝手の違う職業に就いた二人は、実力もさることながらイメージにも気を配らなければならない。 極力気付かれないよう、大切に想いを育んできた。 人前で自由にならない想いは、時に心を蝕むこともあった。 もどかしくも頼りない日々を幾日も過ごして、今、アキラはヒカルとの間に確かな絆があると信じられた。 自分の想いばかりが、一方通行ではないと分かった今なら、もう少し前に進める。 もっと近くにいたい。もっと一緒にいたい。二人だけの時間が欲しい。そして、自分を高める時間も欲しい。 欲張りなアキラの希望は、中途半端な妥協では許してくれそうになく、自分が生まれ変わるほどの新しいスタートを望んでいるようだった。 何もかも揃っているあの家でぬくぬくとしていては、これ以上の高みを目指すことができない。新しい心で培われるものを自分の力にしたい。そんな気持ちが日に日に膨らんでいく。 父と母の庇護から完全に離れて、自分のためだけの空間が欲しい。囲碁に関しても、ヒカルに関しても、新しい特別な場所で自分と向き合いかった。 そして、いずれはヒカルと…… (……まだ、キミにそんなことを伝えるつもりはないけれど) もし、ヒカルの気持ちの整理がついて、何もかも話してくれるときが来たら、きっと何も迷わずにずっと一緒にいられる。そんな気がしていた。 ふと、碁盤を挟んで向かい合っていたアキラの対局者が、苦渋に満ちた表情で頭を下げた。 「……ありません」 「ありがとうございました」 「……ありがとうございました」 アキラも頭を下げ返し、碁盤の上の碁石を片付けていく。 注意力散漫ながらも中押しで勝利を手にしたアキラは、この日六段への昇段を決めた。 対局室を出る前に、ちらりとヒカルの姿を目で探す。ヒカルはまだ対局中だったが、表情には静かな余裕が漂っている。 あの調子ならばそれほど時間をとらずに勝負は決まるだろう。そんなことを思いながら棋院を後にした二十分後、アキラの携帯にヒカルからのメールが届けられた。 『六段昇段おめでとー! 今度ゆっくりお祝いやろうぜ!』 アキラの顔が鮮やかに綻んだ。 「失礼します」 静かな室内に声をかけ、アキラは静かに襖を開く。 部屋では父が碁盤に向かっていた。 いつもと変わらない風景にアキラは何ら驚くこともなく、部屋の中へ一歩足を踏み入れる。 父はアキラの姿を認めて頷き、正面から向き合えるように身体の向きを変えてくれた。 「なんだね、話とは」 「はい。お父さんが中国に発つ前に一度きちんとお話しておきたくて」 アキラはそう告げると、父の前で膝をつき、きっちりと足を整えて正座した。 それから真っ直ぐに伸ばした背筋を更に引き締め、切れ長の瞳に少しの揺るぎも見せずに父と向き合う。 ただならぬ様子を感じ取ったのか、父もまた表情を僅かに険しくした。 アキラはおもむろに床に両手をつき、目だけは父を見上げたまま軽く頭を下げた。 「今すぐにとは言いません。許可をいただけるまで、具体的な行動に移すつもりはありません。ですが、これからボクが話すことは決して中途半端な気持ちで決めたわけではないということを、理解していただきたいんです」 「……言ってみなさい、アキラ。」 アキラの前置きに動じない父をじっと見据え、アキラはきっぱりとした口調で告げた。 「……この家を出て、一人暮らしを始めたいと思っています」 *** 「おーし、気合入れていくかあ!」 部屋で一人拳を握り、天井に向かって突き上げた社は、独自の奇声を発して何やら気合を入れているようだ。 一通り大声を出して満足したのか、おもむろに傍らに置いてあったスポーツバッグを手に取り、やや肩を怒らせて部屋を出る。これも気合の表れらしい。 数日分の着替えと、大会用のスーツ。お金と新幹線のチケット。それから携帯電話の充電器と、あとは……いや、何か忘れていたらあの二人のどっちかに何とかしてもらえばいい。それくらいしてもらってもバチは当たらないほど、今まで面倒見てきてやったのだから。 ぶつぶつと呟きながら階段を下りて、出発の挨拶でもしようかと渋々居間に顔を出すと、母親だけではなく、いつの間に帰宅していたのか、父親までもが顔を揃えていた。 (ゲッ、なんでおんねん) 父親と顔を合わせないように、学校から戻ってから猛スピードで支度を整えたというのに。 社は内心顔を引き攣らせつつも、これから一週間近くも家を空けるのだからと姿勢を正した。 「……じゃ、いってくるで。しばらく家空けるけどすんません」 自分でも素っ気無い言葉だとは思うが、もう三度目となるとこんなものだ。 今日から、社は四日後に迫った北斗杯のために東京へ向かう。二年前と同様、塔矢邸での合宿が行われる今回は、去年と違って日本代表である塔矢アキラ・進藤ヒカルの仲に曇りはない。 久しぶりの三人揃っての合宿に、社の気合も俄然高まっていた。 ところが、去年まで行われた北斗杯の二回とも、いつも出発前に囲碁の道を快く思っていない両親に小言を言われてきた。 毎回気合を高めても、この小言でいささかトーンダウンしてしまうのはどうしようもない。 「……清春。座れ」 立ったまま頭を下げただけの社が気にくわなかったのか、父親は低い声でそう命令した。 社が苦虫を噛み潰したような顔になる。――また小言が始まるのだろうか。 (なんやねん、あんま長いこと付き合っとれへんで) それでも渋々ながら床に膝をつく。 むすっとした表情のまま、寡黙な父と真正面から向かい合った。 *** ヒカルは居間の時計をちらりと見上げ、そろそろかな、と息をつく。 携帯を握りなおし、素早くメール画面で何やら打ち始めた―― 『今から行く!』 送信完了の画面が出た時、大きな紙袋をぶら下げた母親がぱたぱたとヒカルの元へ近寄ってきた。 「ヒカル、これみんなで食べなさい。この前の時一晩で食べちゃったって言うから、今回ちょっと多めに作ったわよ」 「マジ? って重! お母さん張り切りすぎだって!」 母親から紙袋を受け取ったヒカルは、想像以上の重量に苦笑した。 これを持ったまま電車での移動は辛いものがあるかもしれないが、母の愛情だと思えば多少の無理は仕方ない。 「くれぐれも塔矢くんによろしく伝えてね。またレセプションの朝には一度戻るんでしょう?」 「うん、うちでスーツに着替えてく」 ヒカルはリュックを背負い、紙袋片手に玄関へと向かう。母に見送られながら靴を履こうとして、ふとポケットに突っ込んだ携帯電話が震えた。 メールの震え方ではないとすぐに気づき、慌てて取り出した携帯電話の着信表示には「社清春」の文字。 「社?」 思わず呟いたヒカルは、まさにこれから塔矢邸で落ち合う予定の男からの着信に不審な顔をしつつも電話をとった。 「もしもし? どした?」 『……進藤か?』 「おう。なんだよ、何暗い声出してんだよ」 何処か押し殺したような声で名前を呼ばれて、不安になったヒカルはついそんなことを尋ねた。 なんだか切羽詰ったような社の声が、ただごとではないように感じたのだ。 まさか、体調でも崩したんじゃあ――合宿はともかく、本番四日前だというのに―― 『……あのな。今……家出てきたんやけど』 「う、うん」 『……家出る前……、……初めて、親父が「頑張れ」言ってくれてん』 「……え……」 ヒカルは目と口唇を同時に開いた。 社の詰まる息が、やけに近くで聞こえる気がする。 『……初めてやったんや、応援してもろたの……』 「社……」 低く掠れる声は、ひょっとしたら涙を堪えてそんなふうになっていたのかもしれない。 いつも飄々としている社の消え入りそうな呟きが、ヒカルの胸をじんわり熱くさせた。 知らず柔らかい笑みを浮かべて、ヒカルはそっと社に囁いていた。 「……よかったな。社。」 『……ん』 社なりに、認めてもらおうと努力し続けた囲碁の道。 どれだけ反対されても、腐らずに自分を貫いた社は偉いとヒカルは思う。 出発前に感極まったこの男は、恐らく誰かに溢れる思いを伝えたかっただけなのだ。 その気持ちは、ヒカルもよく分かるような気がした。 「頑張ろうぜ。俺、先に行って待ってるからな」 『……おう! 今年はほんま勝ちに行くで! よろしくな!』 最後は力強い声を取り戻した社との通話を切り、ヒカルも決意新たに前を向く。 「誰? お友達?」 後ろにいた母が、不思議そうに首を傾げていた。 ヒカルは笑って頷き、よしっと気合を込めて靴を履く。 「じゃあ、いってきます!」 「頑張ってね、ヒカル」 「うん!」 大きく首を縦に振ったヒカルは、笑顔で家を飛び出した。左手に、ずっしりと重い紙袋をぶら下げて。 当たり前に応援してもらえることの有難さ――幸せな境遇を噛み締めながら、ヒカルは薄暗くなりつつある歩道を駆けていく。 高鳴る胸が、目前に迫った北斗杯への意気込みを物語っている。 オレンジ色の夕陽が、ヒカルの前髪を明るく照らしていた。 |
北斗杯直前でした。
アキラ一人暮らし計画はここからスタートしたようです。
前置きが長過ぎるのはへたれの証でしょう。
(BGM:ORANGE/河村隆一)