PIECE OF MY SOUL






 ――『sai』。


 打ち込んだ指はほんの僅かに震えていた。
 この名をキーボードで入力したのは、行洋とのあの対局以来だった。
 ヒカルは乾いた口唇を軽く舐めてから、気持ちを落ち着けるように二度深呼吸し、検索ボタンを押した。
 数秒の間が空き、かなりの数の検索結果が表示される。
 表れた検索画面には、「sai」の言葉がついた様々なページがヒットしているようだった。
 ヒカルは最初に出てきた数件を見てみたが、「saint」や「SAITOU」など望んだものとは違うサイトばかりが出てきて、少し拍子抜けして背凭れに体重を預けた。
「……そんな簡単に見つからないか」
 口ではそう言うものの、指だけは諦められないように次々とページを開いていく。
 ――“それ”を探して何になるというのだろう?
 何の意味もない。見知らぬ誰かが佐為を探していたとしても、佐為はもう居なくなってしまったことはヒカルが一番よく分かっている。
 探したって無駄なのだ。
 佐為はもう、……ヒカルの碁の中にしかいないのだから。

『モノマネ』

「……!」
 マウスを握る右手にぐっと力がこもる。
 あんなに屈辱的な言葉はない。
 緒方は、ヒカルと佐為の関係を知らないからあんなことが言えたのだ。
(モノマネじゃない。俺の碁は……佐為の碁だから)
 でも、負けた。
(……佐為なら勝った)
 クリックの音がカチカチと耳に障る。
 苛立ちのやり場がなく、ひたすら検索結果をクリックし続けた。もう何ページ追っただろうか。
 目と指に疲れを感じ、ヒカルは遂にマウスから手を離す。
 椅子のまま少しだけ後ずさり、離れた位置でぼんやりモニタを見つめていた。
 そう、探したってどうにもならない。
 佐為はもういない。残っているのはヒカルの碁だけ。
(俺がやるしかない)
 ――モノマネ。
(何て言われたって、俺が強くなるしかない)
 佐為ほどに。佐為よりも。
 ヒカルはふうっと身体を起こし、パソコンラックに両肘をついた。ぶらんと手首から垂れ下がった手の甲に額を乗せ、声にならない息を漏らす。
 緒方の攻防は完璧だった。
 あれだけ酔っていたというのに、的確に急所を押さえてきた。それどころか、ヒカルが読みきれなかった白の道筋は気づけば碁盤を完全に支配していた。
 緒方と佐為が打った夜からもう二年半以上も経っている。佐為がいなくなっても、自分の棋力は着実に上がっていると思っていた。
 だが、それはヒカルだけではない。三冠を保持する緒方もまた、その歩みを決して緩めてはいなかった。
 どれだけ高く駆け上がろうとしても、高みを目指しているのはヒカル一人ではない。全ての棋士が、常に上を目指して日々苦しんでいる。
 どこまで走れば追いつけるのだろう。
 そう、今の自分はアキラにも勝てない。タイトルどころか、トーナメントに残るのもやっとの自分の力が、彼らを凌駕するようになるには一体どれだけの時間が必要なのだろう。……佐為に追いつくためには、一体どれだけ。
 こんな状態で、「いつか」なんて本当にやってくるのだろうか?
 佐為に追いつこうだなんて、思いあがりもはなはだしいということだろうか?
 佐為の千年に、自分ごときが追いつこうだなんて。
「……」
 ヒカルは顔を上げ、表示させたままだった検索画面を閉じようとした。……一瞬躊躇って、もう一ページだけ結果を追ってみる。
 別段代わり映えのない画面を見て、いよいよ諦めようとした時、検索結果の一番下に「検証サイト」の文字を見つけた。
 ヒカルはその単語を凝視した。手が即座にカーソルを合わせた。
 クリックすると、接続の間の空白が画面を覆い、やがてそのサイトは現れた。


 ――『sai検証サイト』


 ドクン……

 不自然に大きく乱れた鼓動を感じて、ヒカルは左手で胸を押さえる。
 白地の背景に黒文字一色のシンプルなサイトは、訪問した人の数を表すカウンタがすでに六桁になっていた。

 ドクン……

 ヒカルは、トップ画面に書かれた「このサイトはネット碁に現れたsaiの正体を検証するサイトです」の文字を目で追い、息を飲む。
 ENTERと書かれた文字をクリックすると、サイトコンテンツが表示された。

 ドクン……

 コンテンツをひとつひとつ見ていく。
 saiが初めて現れた年月日を筆頭に、saiの数々の対局が時系列に並んでいる。
 日時、対局時間、対戦相手、勝敗。不確かな内容は「?」マークで補われており、いくつかの対局に「午後二時頃?」や「対局相手:?」などと書かれている。
 ヒカルですら全ては覚えていない、これらの情報を集めた管理人の執念が伝わってきた。

 ドクン……

 saiの棋風を語るコンテンツもある。
 ――「冷静沈着、ほぼミスはない。全てを読みきった上で最善の一手を仕掛けてくる。その圧倒的な力の前に中押し負けする対局者が続出、勝率は脅威の100パーセント」
 そんな見出しを見て、ヒカルの喉が気ぜわしく上下した。

 ドクン……

 saiの情報を求める掲示板も設置されていた。

「○月×日に現れたsaiは本物でしょうか?」
「対局内容を見るからに、偽者だと思われます。」
「□月以降のsaiは全て偽者という説をこのサイトでは定説としています」

「△年×月にsaiと対戦しました。対局後のチャットは拒否されました」
「それは貴方から対局を申し込んだのですか?」
「私から申し込みました。その後も続けて五人と打ち、それからsaiは落ちました。」

「私はsaiに対局を断られました。その後saiが打ったakiraというのが、このサイトのデータと照らし合わせると塔矢アキラで間違いないと思います」
「何故saiはakiraを選んだのでしょうか?」
「akiraが塔矢アキラだと分かっていたのでしょうか?」

 ドクン、ドクン、ドクン……

 見知らぬ人間のやりとりは酷く不思議な感覚だった。
 saiが現れる主な時間帯や、saiが好んで選んだ対局相手の名前、国、それらのデータが事細かにやりとりされている。
 saiはコミカルな名前の対局相手をよく選んだ、とあり、ヒカルは胸に広がる寂寥感を隠せなかった。
 あの頃、変わった名前を見ると面白がって、わざわざ選んでいたのはヒカルだったからである。

『今の者はなかなか手強かったですよ』
『でも、お前バッサリ中押しじゃん』
『そりゃあ、私は負けませんからね!』

 ――私は、負けませんからね……


 ドクン、ドクン、ドクン、……

 掲示板には、様々な人間のsaiへの想いも綴られていた。

「saiと是非対局したかった! 美しい棋譜に感動しています」
「saiと対局できたことを誇りに思います。もうネット碁には現れないのでしょうか……」
「完璧な強さに脱帽! saiは一体何者なんだろう?」
「saiはここを見ていないのかなあ? 見ていたら書き込みして欲しい!」
「もう一度、saiと打ちたい!」

 ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、


 ――進藤君。もう一度、saiと――


 ドクン……







実際ネット上での情報収集力って恐ろしいものがありますが、
どこまで信用すべきかというのも難しいところですね……