PIECE OF MY SOUL






 ヒカルは左胸をきつく握り締め、しわくちゃの服を更に手の中に握りこんだ。
 彼らは今も待っている。
 saiが戻ってくるのを。saiが碁を打つのを、今でも待っているのだ。
 saiの棋譜も掲載されている。ヒカルはそのたくさんの棋譜の見出しを見てはっとした。
(俺、ネット碁は棋譜に直してない……)
 あの短い夏休みの期間、相当な人数と打ち続けた。全ての対局内容を覚えているわけではない。中にはあまりに相手が弱すぎて、ほんの数分で終わってしまったものもあるのだ。
 それでも、このサイトにはかなりの棋譜が載せられている。地道に情報を集めてここまでにしたのだろうか。中には途中までしか棋譜が載せられていないものや、少し内容が怪しいものもあるようだが、ヒカルが覚えている限り、佐為が「今の者はなかなかでした」と称した相手との対局はほぼ完璧な形で掲載されていた。
 アキラとの対局もある。……行洋との対局もある。
 zeldaとの対局まで載っていた。おまけに、zeldaの横には「(和谷義高三段)」の注意書きまである。ヒカルは驚愕しながら、和谷の名前に張られたリンクをクリックした。

「○年のアマチュア選手権にて、和谷三段(当時院生)がsaiとのチャット内容を語ったことから、zeldaは和谷三段であるとの説が有力」
「saiがチャットに応じたのはこの一度きりである。その言葉があまりに幼いため、一時期はsai子供説も――」

 どこから、これだけの情報を集めてくるのだろう。
 ヒカルの頭に当時の出来事が次々に思い出されてくるが、ここまでのデータベースを作れるほどではない。
 たくさんの人間の僅かな記憶が、ここに集大成を作っている。これだけ多くの人々がsaiに魅かれ、saiの正体を追っている。
 ヒカルの身体はいつしか震えていた。
 彼らが焦がれるsaiは、もう二度とネットの世界に戻らない。
 それを知っているのは自分だけだと思うと、どうしようもなく身体が震えてくるのだ。

 ヒカルは、最後のコンテンツをクリックした。
 『saiの正体は?』と書かれたその次のページに、ヒカルもよく聞く棋士たちの名前がずらりと並んで、saiの棋風との比較結果が解説つきで掲載されていた。
 塔矢行洋、塔矢アキラ、和谷義高はsaiと対戦経験があることから、saiではないと判断されている。
 その他、各棋士のsaiと似て非なる部分を目で追い、その中に自分の名前を見つけてヒカルは愕然とした。

 進藤ヒカル三段:
 後半に生きる一手はsaiの棋風に似ているとの声もある。読みの力は若手では上位。しかし時期によって棋力のばらつきが大きく、棋風は未だ安定していないため、saiの不動さとは比べるべくもないというのが感想。sai出現当時は中学生のため、今より棋力は更に落ちるだろうことから、saiとの関連性は低い。


 ――ドクン!


 固まっていた身体を少しだけ動かすと、ふっと苦しげに口から息が漏れた。そこで初めて、ヒカルは長い間息をとめていたのだと気がついた。
 大きく見開いた目を、モニタから逸らせずにいる。
 口の中がカラカラに乾いて、舌がべったり下顎に張り付いている。
 ようやく瞬きをした目の縁に、僅かに涙のような液体が溜まった。

 ――saiの不動さとは比べるべくもない。

 震える口唇を噛み締める。
 じりじりと眉が寄り、細めた目の隙間から覗く画面が霞んでいく。
 ――モノマネ。中途半端……
 緒方に言われた言葉がぐるぐる頭を巡る。
 苦しい。胸が痛い。……悔しい。悔しい。
(俺は負けた)
 悔しい――
(佐為なら、勝った)


 ヒカルはブラウザを閉じた。
 そうしてキーボードに突っ伏して頭を抱えた。
 あれだけの人がsaiを待っている。それなのに、彼らの待つsaiはもういない。
(俺では届かない)
 自分の碁の中に、佐為は生きていると信じているけれど。
 それを生かせない自分がいる。
 佐為が消えてからの三年近く、足踏みした時期も短くはなかった。それでも確かに前に進んでいると思っていたのに、……まだまだ自分は佐為の足元にも及ばない。
(笑わせんな)
 こんな状態で、一体いつ佐為を越えられるというのだろう?
(アイツの千年を追いかけるには、今のままじゃダメなんだ)
 目指す目標はあまりに大きい。
 死ぬ気でぶつからなければ越えるどころか、立ちはだかる壁に当たってこの身が砕けるだけ……


 どのくらいそうしていただろう、ヒカルはおもむろに顔を上げ、棋譜作成ソフトを立ち上げた。
 今日の緒方との一局。そして、今まで見落としていたネット碁での佐為の棋譜。
 覚えている限り棋譜に起こそう。そして、今まで揃えた棋譜をもう一度見直そう。自分で起こした棋譜だけではない、秀策の棋譜も手に入るものは全て集めるのだ。
 佐為の棋譜を一から頭に入れ直そう。そして打とう。佐為が遺してくれたものを、もう一度頭と身体に叩き込むのだ。
 佐為をこのまま閉じ込めてしまわないように。
 佐為を、再び生かすために。


 だから、待っていて欲しい。
 佐為を待つ全ての人。
 今よりもっと、速度を上げて佐為を追うから。
 自分のできる限りの速さで、佐為の力を証明してみせるから。
 ――塔矢先生。
 ――緒方先生。
 ――……塔矢。
 彼らの期待に応えられるのは、自分しかいないのだ。


「佐為」
 天を仰いだその先には懐かしい幽霊の姿はない。
「俺に力をくれ」
 お前の千年の強さを、俺に――






 ***






 正月気分も抜けて来た一月半ばの午後、森下門下の研究会で、ヒカルは和谷が広げていた週間碁を後ろから覗き込んだ。
「タイトル戦の棋譜載ってる?」
「おう、載ってるぜ。読むか?」
「サンキュ」
 和谷から週刊碁を受け取り、緒方の棋譜を見ようとしたヒカルは、ふと行洋の写真に気づいて記事に目をとめた。
 袴姿の行洋は、ヒカルが元旦に見た格好と同じのようだった。
「あの日、取材きてたんだ」
 和谷に聞こえないようぼそりと呟いて、ヒカルは記事を目で追う。
 去年一年の自分の碁について、それから今年の抱負など、世界を股にかける行洋らしい重みのある言葉が並んでいる。その中のひとつの質問がヒカルの心臓を鷲掴みにした。
 ――今年、対局したい注目の相手はいますか?
 ――今年と言わず、ある棋士との対局を心待ちにしています。彼に恥じない棋士で在れるように、今年も精進したいと思います。
 ヒカルは眉を寄せ、その記事を何度も読み返す。
(……先生、まだ待ってるんだ……)
 叶えてあげたかった再戦。叶えてやれなかった再戦。
 行洋は今でも、世界中の素晴らしい棋士たちを相手にしながら、あのたった一度しか対局していない正体の分からない棋士との再戦を心待ちにしている。
 その鍵がヒカルにあることは分かっているというのに、これまで決して問い詰めたりすることなく。
(塔矢先生……)
 叶えてあげたい。
 でもまだ自分の力では……

 ふいに、バタバタと耳障りに廊下を走る音が聞こえてきた。
 足音はそのまま森下門下が集まる部屋に派手な音を立てて入ってくる。
「なんだ、うるさいぞ!」
 森下の怒号が舞い、現れた中山が少し怯みながらも、大いに動揺を表した顔でその事実を告げた。
「い、今、事務局で聞いてきたんだけど、塔矢先生が中国で倒れたって……!」
「ええ!?」
 研究会はにわかに騒然となる。
 森下は立ち上がり、確認に行くと部屋を出て行った。
 門下生たちがざわざわと囁きあった。
「前に倒れたのっていつだったっけ?」
「もう四年くらい経つんじゃないのか?」
「しばらく落ち着いてたみたいなのにな」
「最近はずっと日本と海外を行ったり来たりしてたみたいだし、疲れが出たのかも……」
 ヒカルは呆然と新聞記事を見つめたまま、その喧騒を耳に入れて動けずにいる。
「倒れたって、容態どうなんだろうな。……進藤?」
 隣の和谷が話しかけてきても、ヒカルは答えることができなかった。

 ――saiと、もう一度!

 行洋の真摯な顔が、アキラの笑顔が、浮かんでは消えてまた浮かび上がる。
 震える記事に添えられた行洋の写真は、穏やかな目をして微かに微笑んでいた。その笑顔が、どんどん遠くなっていくような気がする。
 目の前が、暗い。
(……塔矢先生……)

 ――進藤君。
 saiともう一度打たせてくれ。
 名をあかせとは言わぬから。
 saiと、もう一度。


 もう一度。









sai検証サイトのデータを集めている人は謎ですが、
他の人同様佐為の碁に魅せられた人かと思われます。
(BGM:PIECE OF MY SOUL/WANDS)