『俺、明日早いからそろそろ寝る。おやすみ!』 画面に表示された文字に小さなため息をついたアキラは、それでも素早く『おやすみ、またメールする』と打ち返した。 『(^-^)chu!』 数秒後に現れた顔文字に苦笑して、名残惜しげにパソコンのモニタを見つめる。 そうしてヒカルが使用していた「SH」の名前が一覧から消えたことを確認したアキラは、いよいよ本格的なため息をついて先ほどネット上で打った碁石の並びを見直し始めた。 北斗杯が終了してから早半月。 強豪二国に対して歴史的な勝利を収めた日本チームの代表として、アキラもヒカルも忙しい日々を送っていた。 若き棋士という見出しに食いついて、多方面から舞い込む取材の合間に手合いを行うといった本末転倒な状況の中では、思うように自由な時間がとれずヒカルと顔を合わせることもままならない。 こんな時に頼れるものは文明の利器だと、眠る前の少しの空き時間を利用してアキラとヒカルはよくネット碁を打つようになっていた。 身体を休めるための貴重な時間の一部を使うのだから、あまり長い展開にはならないよう、早碁でせいぜい一局か二局。 それでも二人で打つ碁であることに違いはないし、最近はようやくキーボードで文字を打つのに慣れてきたヒカルと簡単なチャットも交わせるようになって、アキラにとってはささやかな憩いのひとときだった。 声も聞けず触れられもせず、もっと打ちたいと思っても互いの事情が許さない状況でさえなければ。 「……贅沢だな、ボクは」 ぽつりと呟いて、怒涛の展開で打ち終えた一局を初手から順に目で追った。 右辺に回ったヒカルの手は冴えていた。守りきれるかと思っていたが、隙をつかれて中央まで侵食を許してしまい、結果はアキラの中押し負け。さすが高永夏を破っただけのことはある。 勝ち逃げされたな、と椅子の背凭れに体重を預けると、静かな部屋にキイと耳障りな音が響いた。 この棋譜をもっと突き詰めていきたいが、そこまでする時間はない。念のためにと画面をプリントアウトはしておくのだが、二人で顔を合わせて検討できるのは一体いつになるのか。 一緒に暮らしていればこんな悩みはなくなるだろうに……アキラはうっかりでもそんなことをヒカルに言ってしまわないよう、改めて気持ちを引き締める。 それでも沈んだ心はすぐには浮上せず、何度目か分からないため息をつき、アキラはブラウザを終了させようとマウスに手を伸ばした。 その途端、それまで静止していたモニタに突如ポップアップが飛び出して、アキラは思わず手を止める。 どうやら対局の誘いのようだった。アキラはちらりと時計を見たが、眠るまでにはまだ少し余裕があったので、数秒の迷いの果てに対局を受けることにした。 ヒカルと打った後なのだから、誰と打っても物足りないことは承知の上で。 案の定、序盤ですでに形勢は揺るぎようがないほどにアキラに傾き、相手は早々に投了のサインを示してきた。 暇つぶしにもならなかったな、とアキラが今度こそネット碁を終了させようとした時、相手がなにやらチャットで語りかけてきた。 『ひょっとして、塔矢アキラさんですか?』 アキラは僅かに眉を顰め、肩を竦めて打ち返す。 『いいえ、違います。何故ですか?』 何故もなにも、アキラが使用しているハンドルネームは「Akira」なのだから、そこから予想されたに違いない。 それにしても、Akiraなんて名前はありふれている。この程度の棋力の持ち主ではアキラの本気の力など測れるはずもないだろうに、当てずっぽうで尋ねてきたのだろうか。 そんなことを考えていたアキラに、相手は意外な返事をよこしてきた。 『ネットで噂になっていたんです。このくらいの時間に塔矢さんらしい人がよく打っていると』 アキラは目を見開いた。 ネットで噂だなんて、まさか。 (最近よく進藤と打っていたからな。観戦者の数は気にしていなかったが……まずいな) 舌打ちの後、アキラは返事を打ち返す。 『偶然同じ名前を使っていただけですよ。ご本人がいらっしゃるなら一度対局してみたいものです。それでは』 我ながらくだらないコメントだと思いつつ、一方的にそんなことを発信してアキラはブラウザを閉じた。 ――ネットで噂。 予期していなかった出来事に、アキラは眉間に皺を寄せて整然としたデスクトップを睨みつける。 確かにここしばらく、同じような時間帯にヒカルと打つ日が続いていた。 アキラは「Akira」、ヒカルは「SH」。この二人が決まった時間に打つ数局を常に観戦している人間がいて、それが碁に詳しい者であるのなら、塔矢アキラと進藤ヒカルだと気づいてもおかしくはないかもしれない。 これまでは滅多に対局を誘いかけてくる相手もいなかったから気付かなかった。今の相手のように、アキラやヒカルと見越して対局を持ちかけられる機会が増えたら、少々やりにくいことになるだろう。 実にささやかな、ヒカルとの大切な時間だったというのに。 アキラは不機嫌に頬杖をつき、どうしたものかと考えを巡らせた。 時間帯を変更するのは難しい。唯一眠る前の僅かな時間を利用していたのだ、他の時間は取れはしない。 では名前を変えようか? 二人だと想像もされないようなハンドルネームを使用して、それも定期的に変更したりして…… 「めんどくさい、って言うだろうな」 ヒカルのげんなりした顔がありありと浮かんでアキラはまたもため息をついた。 しかし、ネットで噂になっていると言ってもどの程度だろう? 出所は何処だと言うのだろう。 諸悪の根源を確かめるべく、アキラは一度落としたブラウザを再び立ち上げて、検索サイトを表示させた。 さて何の単語で調べるべきかとアキラは考え、相手がアキラを名指ししてきたのだからと「塔矢アキラ」と検索欄に打ち込んだ。 ヒット数が多ければ徐々に単語を追加して絞り込んでいこう――そんな呑気な思惑はすぐに甘すぎたと思い知ることになった。ヒット数にずらりと並んだゼロの数に呆気にとられたアキラは、日々の注意がもう少し必要であることを悟る。 全世界に向けてこれだけ自分の情報が発信されているのだ。いくら気をつけていても足りないほどではないか。 アキラは公式に棋院のホームページから出されている以外のサイトをいくつか覗いてみた。純粋に応援してくれている声あり、中にはアイドルまがいにアキラの写真を散りばめたファンサイトのようなものありでアキラは呆れを通り越して感心してしまう。 よくもまあここまであらゆる写真を集めているものだ。 写真は本人の掲載許可がおりていると書いてあるが、その覚えは無い。大方イベントで頼まれたものに適当に頷いていたらそういうことになってしまったのだろう。 記憶のない写真の数々は、微かにアキラの背中を寒くさせた。 今後はイベントでも注意したほうが良さそうだ――アキラは気を引き締めてそのサイトを閉じようとして、ふと愛しくてちょっと抜けてる恋人のことを思い出す。 普段から気をつけている自分がこうなのだから、彼は一体どんなことになっているのだろう……? 一抹の不安が過ぎり、ごくりと唾液を飲み込んだアキラは、再び表示された検索画面に今度は「進藤ヒカル」と打ち込んでみた。 |
30万HIT企画の第一段です。
大変馬鹿馬鹿しい話になりましたが、
真剣な若先生にどうぞおつき合い下さい。