「お待たせしました」 躊躇いがちな、相手を気遣うささやかな声量であったにもかかわらず、ほんの一瞬意識を闇に落としていたヒカルを覚醒させるには充分なものだったらしい。 ぱっちりと目を開いたヒカルは、記者に顔を向ける時にはしっかりと棋士の表情を整えていた。 椅子から立ち上がって軽く一礼する姿は、約束の時間より五分遅れた記者に安堵と頼もしさを感じさせただろう。 「よろしくお願いします」 余裕のある笑顔を見せたヒカルの頭は、これから行われる十分程度の取材に向けて準備を万端にしていた。 地方出張から帰ってきたその足で取材、それから棋戦の打ち合わせを終えて得意先への指導碁―― 時計を目で追いながら急ぎがちに運ぶ足、風を切る肩、ふらつかない顎先、疲れなどとは無縁であるかのようにきびきび動くヒカルの姿は実に清々しい。 しかしほんの一瞬――例えば先程のような、取材の待ち時間のたった五分でも、仕事から心が離れた瞬間にがくりと気持ちが緩むことがある。 眠気には前触れがなく、緩みが例え一分、いや三十秒だったとしても、夢を通り越すほど深く意識が沈むのだ。 唐突に落ちる代わりに、声を掛けられたり些細な物音で即座に現実に戻ることはできる。気持ちが張っているからなのだろうが、そこまで集中していると言うのに一瞬の眠りに抗えない自分の現状を、ヒカルは苦笑しながら理解していた。 恐らく思った以上に身体は疲れている。しかしテンションを保ち続けているせいか疲労は感じない。 仕事や目標から僅かに意識を逸した隙を狙って、睡魔が目敏くヒカルを眠らせる。無理矢理にでも眠らなければ、もたなくなってしまうから―― そんな結論が出たのは、実はつい最近のことだった。身体が闇雲に休息を求めるようになったのは昨年末くらいからだったというのに、疲れを自覚していなかったヒカルにはすぐに異変の理由が分からなかったのだ。 そういえば、痩せた痩せたと指摘されるようになってからしばらく経った。まさかと思って乗ってみた体重計の数値は、記憶していたものより五キロばかり少なくなっていた。 どうやら自分は疲れているらしい。そう納得はしたものの、いまいちピンと来ない。何故ならヒカルは身体を休めたいとは微塵も思っていないからだ。できれば疲れを自覚させられる一瞬の眠りさえ入り込む隙間がないような、より過密なスケジュールで動いていたいと思ってしまうほど。 驚くくらい、じっとしていられなかった。緩やかな時間など今の自分には必要ないと断言してしまう。動いていなければ落ち着かない。身体が根を上げたとしても、心が高揚してもっともっとと騒いでいる。 幸いにも現状はヒカルにとっては有り難かった。次から次へと舞い込む仕事が途切れないのだ。 最多勝利、連勝記録の更新で四月に表彰されることは確定済み。加えてまだ十九歳という若さによる華やかさが、様々な方面のメディアの関心を誘っているらしい。 囲碁の棋士という枠からヒカルを引っ張り出してタレント化を狙う動きもあるらしく、最近ではバラエティ番組への出演オファーまで入るようになった。無意味な露出は後々面倒になるため、丸きり囲碁に無関係な仕事は今のところ断ってはいるのだが。 携帯には古い友人たちから連日メールが届く。あの雑誌を見た、新聞の記事を読んだ――有名になった自覚は周りの声から育てられていくのだと、興奮した文章を眺める度にヒカルは納得するのだ。 反響は忙しさに比例して大きくなっていく。 ヒカルの活躍を喜ぶ人間は多かった。親、親戚、友人や囲碁仲間。数ヶ月に一度顔を出す行きつけの碁会所のメンバーも、ヒカルが訪れる度に大歓迎してくれる。 唯一、傍から見ても全く分からないヒカルの身体の異変に気付いている人間以外は、秒刻みの忙しさを讃えてくれている。そう、ヒカル自身も今の状態が心地よかったのだ。 しかし、その唯一の人間というのが少々厄介な相手なのである。 *** 今にも雪がちらつきそうな重苦しい夜空を見上げながら、わざとらしく大きな息を吐き出しては白く煙る吐息が闇に消えていくのを楽しむ。 ポケットに両手を突っ込んで、不思議なリズムでアスファルトを蹴るヒカルの背中は弾んでいた。肩に引っ掛けたショルダーバッグが重そうに揺れるのも気にならないようだ。 時折強めの風を受けては肩を縮め、鼻歌混じりに辿り着いたマンションの中へひょいと飛び込む。自動ドアに迎え入れられた途端、刺すようだった空気がふわりと優しくなった。 ほのかにハーブの香りが漂うエントランスで、合鍵を差し込む手つきには迷いがない。ヒカルはすっかり慣れた様子でオートロックが解除された扉の隙間に滑り込むと、運良く一階に降りていたエレベーターで十一階のボタンを押した。 乗り合わせる人間がいない狭い空間で鼻歌の続きを歌いながら、到着したフロアを足取り軽く進んで行ったヒカルは、目当てのドアの前で立ち止まった。 一瞬考えて、すぐに鍵でドアを開ける道を選ぶ。チャイムを鳴らせば中にいる住人が開けてくれることは分かっていたが、そうなると玄関から奥に入るまで少々時間がかかることになってしまうのだ。 ヒカルはそっと鍵を開け、靴音を立てないように中に忍び込む。開けた時と同様に静かにドアを閉めると息を殺して鍵をかけた。 そして慎重にスニーカーを脱いで、片足を持ち上げた瞬間、それまで暗かった玄関にぱっと明かりがついた。 やばい、とヒカルは肩を竦める。聞こえてくる足音。急いでもう一方の足からスニーカーを振り捨てた時、この部屋の主が険しい顔で現れた。 「何時だと思ってる」 いらっしゃい、の一言よりも先に出て来た言葉に、ヒカルは開き直ったように口を尖らせてみせた。 「まだ十時だぜ」 「帰宅する時間を考慮したら「まだ」なんて言葉は使えないはずだが」 低い声で応戦してきた男の厳しい眼差しを見て、ヒカルも思わず眉を寄せた。 「いんだよ、このまま泊まるから」 「今日泊まるなんて連絡はもらってない」 「恋人の部屋に泊まるのにいちいち連絡しないとなんねえのかよ」 「恋人」を強調したヒカルの主張に、小さく溜め息をついた男は軽く肩を持ち上げた。 「……おいで」 ぶっきらぼうな、しかし優しい声でそれだけ告げると、顎まで伸びた黒髪を翻して先にリビングへと足を向ける。その背中ににっと笑顔を見せたヒカルは、跳ねるように後をついて行った。 「時間があるならまっすぐ帰って早めに休めと何度も言っただろう? 食事はちゃんとしたのか? 家に連絡は?」 口煩くヒカルを諭す恋人のアキラは、キッチンで湯を沸かしながらインスタントのココアの袋を取り出している。ソファの傍に荷物を放り投げたヒカルは、キッチンを覗き込んで「コーヒーがいい」とクレームをつけた。 「カフェインが強いからダメ」 あっさり要求を撥ね除けたアキラは、前半の質問に答えないヒカルをじろりと睨む。 「聞いているのか。せめて食事をとったかどうかは答えろ」 「食ったよ、ちゃんと。大丈夫だって。お前の顔見たら疲れ飛ぶからさ〜」 軽く首を傾けて甘えた声を出してみても、アキラは厳しい顔を崩さない。だんだんごまかされなくなってきたな、とヒカルの顔も渋くなる。 「そんなことで疲れが本当に解消されるなら、ボクだって四六時中キミの傍にいたいよ」 沸騰したポットの湯をカップに注ぎながら呟いたアキラは、スプーンでチョコレート色の液体を掻き回して再び溜め息をついた。 「でもキミに今一番必要なのは静かな時間と睡眠だ」 ヒカルに口を挟ませないきっぱりした口調で言い切ったアキラは、まだ水面が渦を巻いているココアのカップをずいとヒカルに差し出した。 「牛乳入れてくんねえのかよ」 「いいから飲んだらさっさと寝ろ!」 湯だけで溶かれた少々味気無いココアを啜りながら、ヒカルはソファの定位置で今日の出来事をあれこれアキラに話し出す。話の先手を取らないと、説教の続きが始まってしまうからだ。 ヒカルが痩せたことにいち早く気付いていたアキラは、今では誰よりもヒカルの体調について口を出すようになっていた。少し遅い時間に顔を出そうものなら、玄関で出迎えてくれたその場所でお説教を食らう。そのため最近のヒカルはこっそり侵入するのが常になってしまった。 アキラが心配してくれているのは充分すぎるほど理解している。遠慮のない関係だからこそ口調もきつくなり、その険しい表情とは裏腹に深い愛情を感じるのはヒカルの気のせいではない。 しかし顔を見ると疲れが吹っ飛ぶ、というのも嘘ではない。恐らく肉体的な変化はないのだろうけれど、アキラの存在が心にゆとりを与えてくれる。疑いようのない事実。現に今、呆れた素振りを見せながらも優しく話を聞いてくれるアキラの目を見ていると、心が暖かくなって肩から力が抜ける。 時間があるなら少しでも逢いたい。お互い忙しい身ではあるが、一緒に暮らすことを約束した恋人だ。ところがそんないじらしい主張にころりと引っ掛かるほど、アキラも盲目ではなくなっていた。 「ボクは棋譜の整理が終わったら寝るから、先に寝て。シャワー使いたいならタオルを出しておく」 「まだ早いじゃん。一局打とうぜ」 「打つと頭が冴えてしまうだろう。いいからもう寝るんだ」 隣に浅く腰掛けていたアキラはヒカルの額に小さくキスを落とすと、それ以上手を触れずにさっさとソファから離れてしまった。 子供っぽい扱いに子供っぽく口唇を尖らせたヒカルは、アキラが触れた額に手を当てながら何か企むように目を据わらせた。 |