ヒカルが塔矢家に到着してからおよそ三時間ほど後に、社もまた元気な顔で現れた。 先ほどヒカルに電話をしてきた時のような頼りない声の印象はなく、体格の良い身体をぴんと逸らしていつも通りの不敵な笑みを浮かべていた。 予選以来の再会を喜ぶのも束の間、三人はすぐに合宿の名目を果たすべく碁盤に向かう準備を始める。 微かな緊張が室内を漂い始めた。 二年ぶりの合宿に、三者三様に思うところがあったらしい。三日間の合宿スケジュールを簡単に話し合い、初日は予定通り一睡もせずに朝を迎えることに誰も異論はなかった。 かつての合宿の時のように、頭と身体が麻痺してくるような心地よい疲れに身を任せて、囲碁のことだけ考え続ける。 早速始めた早碁の展開はそれぞれに凄まじかった。 一人が単純なミスをすれば、残りの二人が容赦なくその一手を追求する。それぞれ一歩も引かない意地の張り合い。静かだった塔矢邸はにわかに殺気立った。 夜が更けるにつれて三人のテンションも妙な具合に上がっていき、ほとんど怒鳴り合いのような状況を経て、最後は血走った目で誰も口を開かず、黙々と石を打ち合っていた。 懐かしい感覚だった。 二年前に三人でひたすら打ち合った時と同じ。 黒石と白石が作り出す世界に溺れ、目指すは最善の一手。 打ち続けることで乱暴に感覚が研ぎすまされて行く。 澄んだ心に残るのは、打つことへの喜びと、幽かな恐れ。十九路の迷路に、いかに巧く迷い込めるか? 相手の裏をかくか、真正面から潰しに行くか。ひとつのひらめきが何通りにも表情を変える、まだまだこんなに隠れた道が残されている。 ヒカルはその行方を睨んで碁石を放つ。 刹那のような十秒が鼓動にも似たリズムを刻んで行く。 出発前に気合が入ったからだろうか、社の気迫が今までになく増している。 甘い手を打てばすかさず突っ込まれ、ヒカルはアキラと交代を余儀なくされた。 しかしその社も、僅かに浮いた石の隙間をアキラに攻められて頭を下げる。アキラもまた、ヒカルの大胆な手に眉を顰め、三人は目まぐるしく交代を繰り返した。 立ったり座ったり忙しなく、ヒカルは乾いた口唇を舐めて碁石を掴む。 (……勝ちたい) 石を打ち合う楽しみだけではなく、今年こそは結果も引き寄せたい。 去年のような惨めな思いはしたくない。一昨年のような悔しい思いもしたくない。 自分を気にかけてくれている人たちを、がっかりさせたくない。そして何より、自分自身の力を試したい――あの苦しんだ時期を無駄にしたくない。 (今年こそ……) 胸を張って、佐為に勝利を報告したい―― 明るい空に追い立てられる。時間が足りない。もっと、もっと打ち続けたい。 勝ちたい。勝ちたい! 「進藤!」 はっと意識を取り戻すと、向かいに座っている社が訝し気な顔を向けていた。 ヒカルは一瞬自分が何をしていたか思い出せず、ふと指に挟んだままの白石を見下ろして、ようやく早碁に取り組んでいたことに気付いた。 「お前、目ぇイッちゃってたで。大丈夫か?」 「あ……、う、うん、なんかぼーっとしてた」 「疲れが出たんだろう。もうすぐ十一時だ。そろそろ倉田さんが来る頃だろうから、ボクらも休憩しようか」 アキラの言葉に社は頷き、打ち掛けの碁盤の石をざっと崩してしまった。ヒカルが思わずあっと声をあげるが、「一旦集中力切れたらおしまいや」なんて言葉で社は取り合わない。 途中で対局を中断されて面白くないが、しかしヒカルはどこかほっとしてもいた。黒と白の世界にあまりにどっぷり浸かってしまっていて、正直なところ冷静に盤面を読んでいたとは言い難かったからだ。 「倉田さん来たらまた出前のオンパレードやろな。ちょっとこの辺片付けるわ」 「予定では昼前に顔を出すと言っていたから、もう少しだろう。ボクは湯を沸かしてくるよ」 「あ……、じゃ、俺……えーと」 出遅れたヒカルが仕事に溢れて戸惑っていると、アキラがさりげない口調で進藤、と呼び掛けた。 「暇なら手伝ってくれ。お茶を取り替える」 「あ、う、うん」 ポットを手にしているアキラに促され、ヒカルは湯飲み茶碗と茶托を乗せていたお盆をぎこちなく拾い上げた。 ちらりと横目で社を伺うが、社は昨夜のうちに三人が食べ散らかした残骸を片付けるのに集中しているようで、二人を気にした様子はない。 小さく安堵のため息をついて、ヒカルはアキラの背中を追った。 台所に着き、アキラがやかんに水を入れて沸かし始める。 ヒカルもすでにこの家でよく使用するものの配置を覚えてしまっているため、特に何も言われずとも茶筒を棚から取り出した。 「……進藤」 ふと、社がいる時よりも柔らかい声色で名前を呼ばれて、ヒカルは僅かに肩を揺らして振り返った。 アキラが、優しい目でじっとヒカルを見つめていた。 無防備に振り向いた自分を後悔してしまうほど、「昨日交わした約束」がなければうっとり見蕩れてしまうような深い眼差し。 碁を打ち続けていた時は忘れていられた、甘い囁きが胸の中を掠めていった。 「な……何?」 思わず声が上ずってしまうのを押さえられず、ヒカルは上目遣いに返事をする。アキラは微笑みを浮かべたまま僅かに眉を垂らした。 「そうビクビクしないでくれ。約束通り、何もしないから」 「び、ビクビクしてるわけじゃ……」 アキラの苦笑に口唇を尖らせ、何となく気まずくて目を逸らす。 アキラの言う「約束通り」とは、社がまだこの塔矢邸に到着する前、二人の前で交わされたものだった。 ――合宿の間は、一昨年と同じように客間で寝る―― 「……どうして? まさか客間で社と二人で寝るっていうことか?」 「そうだってば。しょうがないだろ、この部屋に布団みっつも敷けねえもん」 「なら、キミはボクの部屋に来ればいいだろう! 社にはこの部屋を広く使ってもらえ」 「ば、バカ、社がいるのにお前と二人でなんか寝れるかよ!」 ヒカルの主張はこうだった。 社がいる間は、恋人同士ではなく純粋に棋士同士として行動すること。 必要以上に身体に触るのも禁止。とにかく、恋人らしさを臭わせないこと。 自分達のことを知っている社に、変な気遣いをさせたくないというのがヒカルの論旨のようだ。 「別に今さら彼が気遣うも何もないだろう。去年、北斗杯が終わった後にここで打った時、散々ボクらのことをからかっていたじゃないか」 「そうだけどさ、何か恥ずかしいんだよ。それに、俺もこの合宿中は囲碁に集中したい。お前のこと、ちゃんとライバルとして見ていたい」 ヒカルの言い訳がましい言葉にアキラは少し呆れたようだった。 「キミは案外不器用なんだな」 「わ、悪いかよ」 アキラはしばらく黙ったまま、軽く細めた目でヒカルを試すような視線を向けて来る。 ヒカルはぐっと肩に力を込めて、アキラに威嚇するように睨み返した。 ふと、アキラの目がふわりと横に逸れ、何事か考えるような仕種を見せてから、ヒカルに向き直ったその表情にはいかにも「仕方なく」といった様子を表していた。 「……分かった、社云々は納得いかないが、最後の理由でなら渋々飲もう。合宿中のキミとボクはただの棋士だ。これでいいかい?」 何か考えついたようなアキラの態度が気になりながらも、頷いたものの…… アキラが本当は怒っているのではないかと、内心不安でもあったのだ。 ところが、今目の前にいるアキラの微笑みはなんだかとても優しくて、そんな心配は杞憂だったのかと自分を慰めたくなる。 それとも何か裏があるのだろうか? アキラのことだから、隙を見計らって妙なことをしようと企んでいたりして…… 「……少し顔が硬いよ。緊張してきた?」 「え? そ、そうか?」 「あと三日で北斗杯が始まる。少し肩の力を抜いておいたほうがいい」 アキラの言葉に、ヒカルはごくりと唾を飲む。 知らないうちに力が入っていただろうか。言われて身体の力を抜くと、肩がすとんと落ちた。 アキラに対して身構えていたからだけではなさそうだった。 勝ちたい気持ちが、一分一秒ごとに高まって行く気がする。 今年こそ、満足いく結果を残したい。もう三度目になる北斗杯。一度目の時とも、二度目の時とも違う緊張感がヒカルを包みつつあった。 (……始まる前から飲まれてちゃダメだよな) 凝りをほぐすように肩を回すヒカルを見たアキラは再び微笑んで、音を立て始めたやかんに視線を戻す。 アキラの揺れる黒髪の毛束に一瞬見愡れたヒカルは、やり場に困って無意識に顎に触れた自分の指先が、神経質に冷たくなっていることに気がついた。 あと数日で、国際棋戦が始まる。 短い時間で急速に高まった集中力が、嫌が応でも心を高揚させていく―― |
そんな大した話でもないのに、しっくりこなくて
かなりのボツを出しました今回……
出来上がったものと最初に書いたやつは話の筋すら違う……アワワ。
そんな訳でグダグダです、と先に言い訳をしてみる。