「んじゃ、明日は軽く流す程度にしておけよ〜。明後日の本番にクマ作ってたら全員ただじゃおかないからな」 倉田の忠告を苦笑いで受け取った三人は、まるで御大尽を見送るように玄関にずらりと並び、銘々頷いた。 じゃあホテルでな、と手を振った倉田に頭を下げ、引き戸が閉まると、三人は気が抜けたようにほっと息をつく。 「相変わらずよう食うなあ、あのおっさんは。なんで昼から来とるはずなのに三食食って帰るんや」 「シッ、まだそこらへんにいるかもよ。聞こえたら全部社のせいだからな」 こそこそと囁きあう社とヒカルにアキラは呆れた様子でため息を漏らし、窘めるように声をかけた。 「さ、倉田さんの言う通り、本番に疲れを残すわけにいかないからね。今風呂を沸かすから、順番に入って今日は早めに休もう」 「はーい」 「ほーい」 そうして、アキラは風呂を沸かしに、ヒカルは客間に散らかった食べ物の後片付けに、社は布団を敷きにそれぞれの役割を果たすべく足を向ける。いつのまにか何も言わないうちに作業の分担が成立していたらしい。 ゴミを袋に押し込みつつ、テーブルを拭いていたヒカルの後ろで、ふと社が何事か考え込んでいる。 ヒカルは特に気にせずゴミをまとめていたが、のんびりした声でヒカルの名前を呼ぶ社に振り返らざるを得なかった。 「なあ進藤」 「なんだよ」 ゴミ袋を手にしたまま返事をするヒカルに、社はごく真顔で口を開く。 「お前、塔矢と一緒に寝るんやないのか?」 ヒカルの身体が固まった。その手から袋が落ち、がさがさとゴミが漏れ零れる。 社は客間の隅に積まれた二組の布団を指差している。その図は、二年前の合宿と全く同じものであった。 つまり、二年前と同様、この部屋に二組の布団を敷くという意味なのだが…… あっけらかんとしていながら、深読みするととんでもない質問を受けて、ヒカルの顔がぼんっと音を立てそうな勢いで赤くなった。 「な、な、何言い出すんだよっ!」 「何って、ここに布団二組あるやろ。これじゃ一昨年と同じやん」 「お、同じでいいだろ。この部屋に布団三組は無理だし、塔矢の部屋だって三組は……」 「いや、俺は一人でええんやけど、お前らは……」 「いいんだっつうの!!」 両腕を振り回して精一杯主張したヒカルに、社は多少たじろぎながらも、「……ならええけど」なんて言って引き下がってくれた。 その時になって変な追求をされないようにと、あらかじめ布団をここに積んでおいたのはヒカル本人だったというのに。 (このバカ、余計な気ぃ使いやがって) アキラの不満を押し切って、社がこの家にいる間は同じ部屋では寝ないと決心したのだ。 アキラの前では「ライバルでいたい」なんてもっともらしいことを言ってしまったが、要するに他人から恋人同士として扱われることがくすぐったいのだ。照れくさくてたまらないのだ。 少々特種な関係のため、人前で恋人同士と分かるような行動はとらない。そのため、周囲からあからさまにカップルとして扱われることに、全くと言っていい程ヒカルは免疫がなかった。 同じ屋根の下に友人がいると分かっていて、二人で一緒に寝るなんてそんなことできない。 どうしようもなく、気恥ずかしい。これがただの友人ならそこまで気にすることはなかったかもしれないが、社は特別だ――唯一、ヒカルとアキラの本当の関係を知る男なのだから。 そんな社の前で、同じ部屋で二人きりで寝るなんて。万が一にも、社がとんでもないことを想像しないかと思うだけで…… 髪を掻き毟りたくなるような羞恥心に襲われる。 (ああもう、気を使われるのが恥ずかしいんだって分かんねえのかよ) 今は北斗杯直前。アキラとの関係も、恋人というより認め合う棋士同士でいたい。 ヒカルは呪文のように、そんな言葉を頭の中で繰り返して自らに言い聞かせる。 頭から湯気を噴き出しそうなヒカルを見下ろし、ふいに社はふっと笑って肩を竦めた。 「……やっぱ元気みたいやな。安心したわ」 その言葉に、怒り浸透だったヒカルの顔がほえっと弛んだ。 「ま、また明日頑張ろうや」 社はぽんとヒカルの肩を叩き、何事もなかったかのように二組の布団を敷き始めた。 ヒカルはしばしぽかんと抜けた表情のまま、せっせと動く社を見ていたが、やがて風呂の準備を整えたアキラが戻って来たため、慌てて落としたゴミを拾い集め始めた。 風呂上がりに軽く対局をこなした三人は、昨夜からの徹夜も響いていたため、日付けが変わる頃には就寝することになった。 ヒカルの主張通り、ヒカルと社は客間で、アキラは自室で。 案の定、社に分からないようにふてくされた顔をしていたアキラが気にならないことはないのだけれど。 (俺が一人で寝りゃよかったかなあ) ヒカルはごろりと社に背を向けて寝返りを打ち、暗闇でぱちぱちと瞬きをする。 布団に入るまでは酷く眠かったはずなのに、いざ身体を横たえると不思議と睡魔が去っていってしまったようだ。 思えば、去年の北斗杯が終わった後から、もう数えるのも面倒になるくらいこの家に泊まって来た。 そのどれも、アキラと同じ布団に横になっていたのだから、落ち着かないとでも言うのだろうか。 「……進藤」 闇の中から声がする。 ヒカルは少しだけ首を社に向けた。その身じろぎで、ヒカルが起きていることは伝わっただろう。 「お前、なんや落ち着かんのか?」 「……俺が?」 ヒカルは首だけでなく、身体ごと社に向けて再び寝返りを打つ。社は仰向けに天井を睨んだままだった。 「ああ。一昨年は、いっぱいいっぱいって感じやった。去年は……まあ、あんな状態やったしな。今年のお前は、妙に気負ってるっちゅうかな……」 「……そうか?」 内心ぎくりとしながらも、ヒカルは平静を装って答えた。 アキラにも同じようなことを指摘された後だから、余計に胸にずしりとくる。 「気張らんとき。お前、充分強なってるで」 「……サンキュ」 社の言葉にヒカルは素直に礼をいい、確かに微かな緊張を感じている身体をリラックスさせようと、意識的に深呼吸をしてみた。 確かに今年はいつになく勝ちたいという思いが強い。いや、思いの強さはこれまでと変わらないかもしれないが、その思いに裏づけできるだけの確かな自信がある。 一度目の北斗杯は佐為のために。二度目の北斗杯は自分の碁を探すために。 そして三度目の今、ヒカルは自分と自分を支えてくれる人のために打つ。 佐為と育てた確かな力を、そしてこれからも変わりゆく未来を目指す力を、示してあげたい。佐為に、行洋に、緒方に、ヒカルを見守ってくれていた人たちに……アキラに。 少し力が入りすぎているだろうか。気合が入るのは申し分ないが、多少は余裕を持たないと一昨年のように出だしが固くなっては意味がない。 社の言う通り、気負いすぎては自滅してしまう。 ふう、と大きな息をつきながら深呼吸をするヒカルに、社が少しだけ顔を向けたような気配がした。 「……俺、一月にやった王座戦の本戦トーナメント……倉田さんとの一局、棋譜見たで」 「……!」 ヒカルがごくりと唾を飲む。 まさに佐為を目指そうとしていた、迷い始めたあの頃の棋譜…… 佐為になりきれず、ヒカルの力も出し切れず、中途半端に勝ちを拾った痛い一局。 「びびったわ」 「……」 「凄まじい碁打つようになりよったって思った。せやけど、同時に……不安にもなったんや。お前が、お前らしくないような気がして……」 ヒカルは微かに眉を顰め、何も言えなくて口唇を噛む。 闇の向こうで、社が微かに笑ったような気がした。 「ま、お前には塔矢がおるからな。何かあっても、アイツが何とかするやろって思っとった。……三月、予選で会ったお前の碁見て安心したわ。俺が余計な口出さんでよかったわーって」 「……社」 社の口から出て来るアキラの名前に、何となくヒカルは照れくささを感じた。 社は相変わらず仰向けに転がって、まるで独り言みたいに呟き続ける。 「お前と塔矢、似合いやわ。アイツ、厄介なとこもあるけど、いざっちゅう時頼りになりそうやしな。せやから、お前ももっと堂々としてたらええ」 「……俺?」 「ああ。お前は胸張って、塔矢と一緒におったらええんや。……せやから、俺に遠慮すんな」 ヒカルはひっそりと赤くなった。 別に、遠慮とかそういう訳ではなかったのだが……単純に恥ずかしかっただけで……もしや、先ほどのくだらないやりとりを社はそう受け取ったのだろうか。 何と答えたものかヒカルが困っていると、ふいに社が寝返りを打ってヒカルに背中を向けた。 「ま、今日は寝よか。おやすみ」 「あ……お、おやすみ」 挨拶を交わして五分も経たないうちに、社は鼾をかき始める。寝つきの良さに感心すると共に、ヒカルは初めての合宿でも社の鼾が酷かったことを思い出して、少しだけ笑った。 (……あの時は……佐為のために勝つんだって、気持ちばっかり空回りしてたなあ……) 廊下でぽつりと毛布にくるまって、そうしていたらアキラが見つけてくれた。 あの時から、ずっと。ヒカルが道に迷った時、アキラは必ず手を引いてくれた。 もう迷わない。目指す方向を違わずに真直ぐ進むことができる――……アキラと。 (……アイツ、あったかかった) ヒカルは指先でそっと口唇に触れてみた。まだ指先は冷たかった。 全てを包み込むような優しいキスを思い出して、静かに目を閉じる。 アキラの温もりが、少しだけ恋しい。 (たぶん……俺は……、あの頃からずっと……) 鼾がうるさいはずなのに、うつらうつらと思考が揺れ始めた。 (……アキラ……) ――もっと堂々としてたらええ…… 夢の中に引きずり込まれながら、明日はやっぱりアキラの部屋で寝ようか、なんて――揺らめくヒカルの暗い瞼の裏、アキラの優しい微笑みがそっとヒカルを包んでくれていた。 |
なんだろうこのオトメヒカルは。
社の基本スペックはおせっかいです。