Stop the time forever






「お前、ほんまに気づかんかったんかい」
「で、でも、だって、俺、」
 ヒカルはどもりながら言い訳を考えるが、頭が沸騰したようで何の言葉も思いつかない。
 それどころか、頭の中でアキラの声にエコーがかかる。
 キミが好きだ。
 なんてことだろう。一体自分はこれまでどんな顔をして、アキラのあの言葉を聞いていたのだろうか? あの形の良い口唇が、ヒカルの名前を囁いて、強烈な愛の告白を繰り返していたというのに。
(そういえば、俺、あの口と……キスしてたんだ……何回も……)
「わああああ!」
 今度はヒカルが両手で髪を掻き毟った。放り投げる形になった湯飲み茶碗が床に転がり、中身がヒカルの足と床にぶちまけられる。その惨状を見て社が「だーっ!」と腕を振り回した。
 顔が熱い。胸がぎゅうぎゅう苦しい。
 一人ぼっちで自分の碁を探し迷っていた時、何度となく感じた痛みはこれだったのか。何故今まで気づかなかったんだろう。ひょっとしたら、自分はもうずっと前から……
「だああああ!」
「うるせー! 静かにせんかい!」
 酸素が足りず、ヒカルはぜいぜい肩で呼吸した。顔の火照りが出て行かない。胸の疼きも増すばかり。
 社は盛大にため息をつき、ヒカルが転がした湯飲みを拾い上げる。
「そもそもお前、塔矢に告られた後も、別に塔矢が嫌んなったりせんかったんやろ? 俺からしたらその時点で信じられんもん。男から告白されたりしたらごっつ鳥肌もんや。相手が塔矢みたいにキレイなヤツかて嫌や」
 大げさに肩を竦める社に、ヒカルはそういうものだろうかと眉を垂らす。
 確かに、他の男に同じことをされるのはちょっと勘弁だ。想像するのも申し訳ないし、気分もよくない。でもアキラ相手なら何故か嫌じゃない。いつかもそんな結論が出て、なるようになれと考えを放棄した。
 あのまま考え続けていたら、もっと早く答えに辿り着いていたのだろうか? いや、どうだろう。何しろ今の今まで「好き」の意味すらよく理解していなかったくらいなのだから。
「和谷から聞いたで。お前らがプライベートでつるんでるの見たことないって。でもほんまはそんなことないんやろ」
「う……」
「誰も知らんとこでこっそり密会してるなんて、特別な証拠やろが」
「み、密会!?」
「どうせちゃっかりデートとかもしてたんやろが」
 何故それを――固まるヒカルを前にして、社は髪を無茶苦茶に掻き毟る。再び湯飲みが宙を舞う。
「また当たりかい!」
 もうヒカルは何も言えなかった。
 今まで気づかなかった、いや、気づくまいとしていたのかもしれない。恐らく全て社の言う通りなのだ。
 しかし、ハイそうですかと納得するのは腑に落ちない。今まで自分がもがき悩んだ五ヶ月近く、あの時間は一体何だったのか。
 それだけじゃない、その間出鱈目に追求した「自分の碁」のせいで、見るに耐えない対局結果をどれだけ残してきたのか。
 越智にはひどいことをしてしまった。越智だけではない、今日の秀英戦、その他五ヶ月の間に行ってきた対局全て、気もそぞろの乱暴な碁ばかり打って。
 アキラにも迷惑をかけた。ヒカルを追って一局打とうと言ってくれたとき、飛びつきたいくらい嬉しかったのに意地を張った。自分でなんとかしようと思って、結局社の助けを借りてようやくここまで辿り着いたのだから呆れる。
 あの時、アキラの手を取って一局打っていたら、こんなことにはならなかったのだろうか……
「さ、もうええやろ。お前らラブラブでハッピーエンドやろが。早く塔矢んとこ行ったれ」
「……行けねぇよ」
 社の右眉が左に差をつけて釣りあがった。
「この期に及んで何ぬかす! お前まだそんなこと……」
「行けねぇよ、だって、俺」
 ヒカルが頭を抱えてしまったのを見て、社は拳を振り上げかけた格好で静止した。
「どんな顔してあいつに会えばいいんだよ……」
 恥ずかしい。いろいろなことが恥ずかしすぎて頭が痛い。
 ひどい遠回りをしてしまった。それも、関係ない人々を盛大に巻き込んで、たくさんの人に迷惑をかけて。
「塔矢だけじゃない。越智にも、秀英にも、永夏にも、きっと和谷や伊角さんや、倉田さんや、他のいろんな人に心配かけて、お前にだって」
「……進藤」
 きつく口唇を噛んでその痛みを堪えても、自分が残した対局の棋譜は消えない。
 なんて足跡を残してきてしまったのだろう。きっと自分が思っている以上に多くの人を傷つけ、落胆させたのだ。どうしてアキラに顔向けできるだろう。
「あのな、進藤」
 社は再びヒカルの隣に腰を下ろし、その肩にぽんと手を置いた。
「お前が今一番しないとならんことは、できるだけ早く本当のお前の碁を取り戻すことやないんか?」
「俺の碁……」
 呟き返すヒカルに、社は「そうや」と頷いた。
「この五ヶ月、お前が失ったもんは大きいで。今日のがとどめや。進藤ヒカルの碁は腐ってもうたって言われても仕方ない結果や」
「……」
「なら、お前は早いとこその失ったもんを回復させんとならん。それには塔矢と一局打つのが手っ取り早いんちゃうか。……塔矢のためにも」
 ヒカルは顔を上げた。
「塔矢のため?」
「せや。言ったやろ、塔矢もおかしなってたって」
 口唇を噛み締めているヒカルの頬を、社はぺちぺち叩いた。
 ヒカルが思わず緩めた口元を見て、うんうんと頷く。
「お前らは多分、二人で引っ張り合っていかんといい碁が打てんのや。カン違いするんやないで、いい碁ってのは「より良い碁」のことや。去年の年末の塔矢の棋譜、いい内容やったで。今の……ヘンにまとまったいい子の碁やなくて、冒険しながら攻めてる感じの広がりのある碁やった」
「……」
「それはお前と打ってたからやろ?」
「……分かんねぇ……」
「打ってみたら分かる。お前はまず、身代わりにするの何のっちゅうくだらん妄想を捨てて、アイツと打たんと始まらんで」
 ――ボクと打て!
 きっぱりとしたアキラの声がヒカルを揺さぶる。
『キミのことは誰よりもボクが一番知ってる!』
 ああ、その通りだ。アキラのほうが余程ヒカルのことを理解している。
「あいつのためにも、お前が元に戻るのを待ってるやつらのためにも、お前はまず素直な気持ちで塔矢と一局打て。その後のことは、そっから考えたらええやないか」
「社……」
 ヒカルの視線はしばし宙を彷徨い、そうして社を見た。
 強張った表情で、それでも静かに頷くヒカルを確かめて、社はふうっと胸に詰まった息を吐き出す。
「よし。行って来い」
「うん、明日」
「明日あ!?」
 社はヒカルの胸倉を掴んで立ち上がる。突然引っ張りあげられて、ヒカルはぐえっと潰れたカエルのような声を出した。
「何呑気なこと言っとるんや、今すぐ行け! 塔矢はまだお前のことうろうろ探し回っとるはずやろ、ちょっと探せばすぐ見つかるで!」
「それ、は、そう、だけど、やしろ、苦し、」
「怖気づいとる場合か! モタモタしとったら俺が塔矢んとこに突き出したる!」
「待っ、今夜、は、頭、冷やしたい」
 社が手を離す。おもむろに酸素と重力が戻ったヒカルの身体は床に崩れて、蹲ったままゲホゲホと咽た。
 少し涙目になりながらも社を見上げて懇願した。
「頼むよ、今夜は。俺も混乱してるし、また塔矢にヘンなこと言っちまいそう。一晩落ち着いて考える。冷静になって、気持ち落ち着けて、明日はちゃんと塔矢に会うから」
「……ほんまやな」
「誓う」
 迷いの消えたヒカルの目を見て、社は「分かった」と顎を引いた。
 ヒカルは立ち上がり、軽く足の埃を払って、それから背伸びをする。
「なんか、長い夢見てたみてぇだ、俺」
「お目覚めの時間やで。ほんま明日しっかりせぇよ」
「分かってるよ。……部屋に戻る」
 ようやくヒカルは口唇の端を吊り上げ、にっこりと笑った。
 一時はこの世の終わりのような顔をしていたのに、どうやら本当に立ち直ったようだ。
 部屋の扉まで社はヒカルを見送り、廊下に出たヒカルは左右を注意深く見渡す。人影がないことを確認し、廊下に出て、改めて社に向き直ったヒカルは、深々と頭を下げた。
「ありがとう」
「なんや気持ち悪いわ。ええから、後は結果で示せや」
「そうする」
 ヒカルは歯を見せて笑い、そうして隣にある自分の部屋まで駆けていった。扉の開く音、閉まる音が順に聞こえて、社も自分の部屋の扉を閉める。
 オートロックの鍵が閉まる電子的な音がした。
「……全く」
 一人きりになった部屋で、社は転がったままの湯飲み茶碗を拾い上げた。
 とんだ台風だった。社は苦笑する。
 しかし、これで二人の止まっていた時間は動き出すだろう。それと共に、囲碁界も大きく動くだろう。悩める獅子は蘇ったのだから。
 それにしても、と社は首を傾げた。
 よく自分はこの状況をすんなり受け入れたな、と思う。
 ヒカルもアキラも女性めいた部分はないし、どんな色眼鏡をかけたところで同性同士であることは間違いない。
 それなのに、不思議と違和感や嫌悪を感じていない自分がいる。
 その理由を考えて、社はひとつ納得するものを弾き出した。
 強烈な個性を持つあの二人に、他の誰が隣に並んでも似合うと思えないのだ。
 顔立ちも考え方も違う、それでいてあれほどしっくりくる二人組みは他に例がない。それがライバル同士だろうが、恋人同士だろうが、あまりにハマってしまう二人にはどっちでも良いことなのかもしれなかった。
「……しかし、あいつらどっちが上やろな」
 社は想像しかけた嫌な光景を慌てて振り払い、さあ寝よ寝よ、と無駄に大声を出した。
 全く、とんだことに首を突っ込んでしまった。カンが良すぎるのも困りものだ……
 社がぶつぶつ文句を零している頃、ヒカルを探してホテル近辺を走り回っていたアキラは一人絶叫していた。

「進藤〜〜〜! どこに行ったんだ〜〜〜!!」



 ***




 そんなわけでさ、佐為。
 俺、明日塔矢に謝んないとなんなくなっちまった。
 俺ってサイアクだろ。なんかお前にも悪かったなあ。
 明日、うまく話せるかな。社にももっぺん謝んないと。
 ホント、一年ぶりの報告がこんなんでごめん。
 お前がいなくなって二年も経つのに、俺ってろくな報告できないのな。
 明日言えるかなあ。超恥ずかしいんだけど。俺ホントに大丈夫かなあ。
 あー、なんて説明しよう。社に言ったみたいに話したら、あいつ絶対お前のことだって気づくよな。あーどうしよう。どうしよ。
 ……でも、ほっとした。ほっとしたんだ。
 アイツを身代わりにしようとしてたんじゃないって分かって。
 よかった。俺、いつの間にかこんなにアイツのこと大切に思ってたんだ。
 ほっとしたけど、でも、あー、もう……
 明日、なんて話したらいいと思う……?





 空が白む頃、久方ぶりに訪れた抵抗できない強烈な眠りに誘われて、うつらうつらと意識を手放したヒカルの心の中に、懐かしい人の優しい声が微かに響いてきたような気がした。


『馬鹿ですねぇ、ヒカルは』










ああこの5話結構きつかったー。
最初、社に精神論含めた恋愛観を語らせるつもりで、
書き始める前に凄くたくさんキーワードをメモっておいたんですが、
いざ書き出したらそのメモの言葉ひとつも使ってない……(笑)
あんまり深く考えて書かないほうがよかったみたいです。
そして更に最初、社の役は和谷にやらせようとしてました。
今思えば社でよかったかも……和谷は後で働いてもらいたいし。
そして終わってみたらタイトルと相当逆行した話になりましたが、まあいいや。
あああでも無事に越えてよかった〜。
アキヒカ初めてまだ1ヶ月ちょいですけど、ここに来るまで相当書いたので……
(BGM:Stop the time forever/河村隆一)